夜の手

大橋 知誉

第一部 空蝉

 私には特別な利用者さんが二人いた。


 ひとりはルイさんと言った。昔はやんちゃだったのかなと思わせるちょい悪ジジイ風…なんだけど認知症が進んでもう自分が誰なのかもよくわかっていない感じの人だった。


 もうひとりはシマさんだ。こちらは元気なお婆さんだった。亡くなる直前まで意識もしっかりしていて、みんなのお母ちゃんみたいな人だった。


 ルイさんが入居してから約一年後にシマさんがやってきた。


 するとどうだろう。管理が大変だったルイさんが急に大人しくなって、シマさんの言うことは何でも聞くようになった。


 二人は昔からの知り合いだったんだ。


 まあ、そういうことはたまにあるんだけど。ルイさんの変貌っぷりは奇跡としか言いようがなかった。

 暴れん坊の爺さんが温和なお爺さんにすっかり変わってしまったのだから。


 何何? シマさんとルイさんってどういう関係だったの??


 私たちスタッフ間でももっぱらの噂になっていた。


 ある日、シマさんと少しお話できる機会があったので、私は思い切って聞いてみることにした。


「シマさんて、ルイさんと昔からの知り合いだったって本当ですか?」


 シマさんは唐突に私が言ったので少し驚いたような顔をしたけれど、よくぞ聞いてくれたという感じで話してくれた。


 何でもシマさんとルイさんは小さな村で一緒に育った幼馴染だとのことだった。


「彼とは腐れ縁でね。人生の中で共に過ごした時期もあったりしたもんだけど、まさかこんなところで再会するとはね…」


 そう言ってシマさんは笑った。


 私は二人の馴れ初めなどもっと詳しく知りたくなって、教えてくれないかとシマさんにお願いした。

 だって、あのルイさんが大人しく言うことを聞くなんてよっぽどのことだもの。


 ここで暮している利用者さんの中には、自分の過去を話したがらない人もいれば、聞いて欲しい人もいる。

 シマさんはどっちかな…と思ったが、どうやら後者のようだった。


「話せば長くなるよ。それにちょっとばかりイカれた話なんだ。それでも聞いてみるかい?」


 私は「もちろん!」と即答した。


 早速シマさんは中庭散歩の付き添いに私を指名してくれて、その時間にお話しを聞くことになった。


 ただの好奇心。


 その時はまだ、気軽な気持ちで気になる二人の話を聞く程度にしか思っていなかった。


 まさかこれが想像以上に不思議な結末を迎えることになろうとは…。


・・・


 時は遡り、今から85年前。平成11年の春。

 日本の各地にはまだ豊かな自然が残っているころだ。


 シマは北関東のはずれにある小さな村で生まれ育った。

 ルイは遠い親戚の子で数軒先に住んでいた。二人は同い年だったので、一緒に野山を駆けまわり双子のように育った。


 ルイはちょっと乱暴な男の子だったが、子供のころはシマの方が強かった。

 だいたい喧嘩して泣いているルイを慰めるのはシマの役割だった。


 シマには不思議とルイを落ち着かせる能力が備わっていたのだ。


 それだけではない、幼いころから何故かシマには動物を引き寄せる力があった。特に怪我をした鳥や小動物などによく遭遇した。

 あるときなど、山の狸が彼女に懐いてしまって、しばらく面倒を見るはめになったこともあった。

 シマは狸にポン吉と名前をつけて可愛がったものだ。


 自分でも何故こんなに動物が寄って来るのかと不可解に思っていたのだが、ある日、一緒に遊んでいたルイに指摘されて気が付いた。


「鼻歌だよ。お前が歌ってると動物たちが寄って来る」


 なるほど、そうかもしれなかった。

 怪我を治してあげているときも無意識に歌っていたかもしれなかった。


 ルイを慰めたりしている時も歌っていた。

 …ルイは動物の一種なのか…。


 彼女は無意識にいつも歌をうたっていた。それは頭の中に勝手に響いてくる歌だった。


「あんまりひとりの時に歌うなよ。熊とか来たらどうするんだよ」


 ルイはそう言って、それを口実に常にシマの後をついてきた。


 そんなシマが小学生になったころ、彼女は不思議な人と出会った。


 いつものように寄って来た雀の怪我を手当てしてやっていると、道の向こうに見慣れないお兄さんが立っていた。

 左目のまわりに大きなアザがある人だった。歳は高校生くらいに見えた。


 この村には数えるほどしか高校生がいない。全員が顔見知りだ。

 村の者ではないことは明確だった。


「誰?」


 シマが言うとお兄さんは走って行ってしまった。


 それから道端でよくそのお兄さんを見かけるようになったが、彼がどこに住んでいる誰なのかはいつまでも解らなかった。


 やがてお兄さんは近くまで寄って来るようになった。

 まるで猫か狸みたいだな…とシマは思った。


 森の動物たちの中にも、最初はそうやって警戒するものがいる。


 シマは試しに歌をうたってみた。

 これがルイ以外の人間にも効くとは思っていなかったが、歌い始めるとお兄さんは話ができるほど近くまで寄って来るようになった。


 シマは何度かお兄さんに話しかけたが、お兄さんが答えることはなかった。

 言葉がわからないのかも…とシマは思っていた。


 お兄さんはシマの歌が好きな様子だった。

 それからは、シマが歌うとお兄さんはどこからともなく姿を見せるようになった。


 お兄さんは警戒心がよっぽど強いのか、シマが他の誰かと一緒にいるときは姿を見せなかった。

 だがルイといる時だけは普通にやってきた。


 当然ながらルイはお兄さんを不審がった。


 お兄さんが現れると、ルイは少し離れたところから観察するようになった。


「あいつと関わるの、もうやめろよ」


 ルイは頻繁にそう言って来た。心配している…というよりヤキモチを焼いているようだった。

 その度にシマは疎ましく思っていた。


「何で? あんたに関係ないでしょう?」


 ルイに劣らず気の強いシマは絶対にルイの言うことは聞かないのであった。


 ルイなんて嫌い…シマはそう思うようになった。


 やがて、シマとルイは思春期にさしかかり、お互いの間に微妙な距離感が生まれた。

 もう二人は以前のようにじゃれ合って遊ぶことはなくなり、やがて会話することもなくなった。


 ちょうどそのころ、いつのまにかお兄さんも見かけなくなってしまった。


 シマは変わっていく環境に少し寂しい気もしたが、他に考えることが山ほどあって、やがてお兄さんのことも、ルイとの時間も子供時代の思い出となっていった。


 中学二年生になると、シマとルイは体育員で一緒になった。

 久しぶりに会話をしたルイはずいぶんとやんちゃな男子へと成長していた。


 体育館の倉庫の片付けを二人でしている時に、ルイに告白された。


 シマは彼の気持ちを随分前から知っていたし、自分もその時は彼のことを好きな気がしたので受け入れることにした。

 そして二人はそのままその場所でお互いの大人の扉をこじ開けた。


「あれは私の人生で一番ステキなひと時だったかもしれないね…」


 シマさんはうっとりした表情で昔を思い出しているようだった。


「ルイはね、乱暴なところもあるけど、本当はとっても心配性で優しい子なんだよ」


 私はルイさんの少年期を想像して少しかわいいな…と思った。


 私とシマさんの中庭散歩に、翌日からルイさんも加わった。

 ルイさんは車椅子を自分で操作できないのでシマさんが押して歩いた。

 私はその横をゆっくり付き添いながらシマさんの話を聞いた。


 ルイさんも聞いていたのかな。きっとそうに違いない。だってルイさんも何かを思い出しているような表情をしていたから。


 シマさんとルイさんは中学を卒業するまでお付き合いしていたそうだ。


 それからシマさんが都会の高校に進学するタイミングで別れてしまったらしい。


「大喧嘩したんだよ。ルイったら行かないでって泣いたりして」


 シマさんはルイさんの方を見ながら、どこか嬉しそうに言った。

 一方のルイさんは無表情であらぬ方を見つめ、その心は読み取れなかった。


・・・


 高校生になってから、シマは何人かの人とお付き合いはしたが、いずれも長続きしなかった。

 どの人も退屈に思えたのだ。


 バスケ部に入った彼女は部活に青春をかけて高校生活を満喫し、大学へは進まずに専門学校に進学した。


 ある年の夏、帰省したシマが何年振りかにお祭りに顔を出すと、ルイが射的の屋台で店番をしているところに遭遇した。

 金髪を後ろで束ねてずいぶん派手な姿になっていたがすぐにルイだと解った。


 ルイは実家の農業を継いで地元で暮しているとのことだった。

 少しの気まずさもあったが、祭りの後、二人は肩を並べて一緒に夜道を帰った。


 灯りのない真っ暗な山沿いの道だったが、ルイが懐中電灯を持っていたので難なく歩くことができた。


 いい気分だった。

 シマは無意識に歌をうたっていた。


 ルイが遠慮がちに手を握って来たのでシマもその手を握り返した。


 すると、向こうから、人影が近づいて来た。


 その人物が誰なのかわかると、シマとルイは恐怖で固まってしまった。


 それはあのお兄さんだった。当時と全く変わらない同じ容姿で彼はそこに立っていた。


 他人の空似? いや、左目のまわりのアザがはっきり見えた。間違いようがなかった。

 少なくともあれから八年は経っている。もう立派な大人になっているはずのお兄さんは、どう見てもまだ高校生くらいの男の子だった。


「あれ…あいつだよな?」


 ルイが小声で言った。


「そう見えるけど…」


 お兄さんは黙って立っていた。


「どうしたのかな…」


 シマが近寄ると、お兄さんはいかにもついて来いとでも言うように振り返りながら歩き始めた。


 これは…ついで行くべきか見送るべきか…。

 シマが悩んでいると、ルイが先に歩き始めた。


「こうなったら行くしかないんじゃん」


 ルイはそう言ってシマの手を引いた。


・・・


 ここまで話すとシマさんは真顔で私を見返した。

 私はどのような顔をしたらよいのか解らずにいた。恐らく困惑の表情を浮かべてしまっていただろう。


「あり得ないと思うだろう? 私もまあ、そう思ったよね」


 シマさんが笑いながら言った。

 昔のことだから、シマさんの記憶違いという可能性は充分にある。


「……ヤミ」


 ルイさんがボソリと言った。よく聞こえなかったが「闇」と言ったようだった。

 その言葉に私は少しゾッとした。


「おやおや、ルイ。先を言っちゃダメだよ。ネタバレってやつ」


 口元に中指をあてるとシマさんはルイさんに向かってシーっとやった。まるで子供にするように。


「あのね、こっから先はもっと変な話になっていくよ。それでも聞いてくれるかい?」


 シマさんは私に向き直ると少し心配そうに言った。もしかしたら、ボケたと思われるのを心配しているのかもしれない、と私は思った。

 私はシマさんを信じることにした。だって、続きが気になるじゃない?


「大丈夫です。私は…シマさんの話を信じますよ。それからどうなったんですか?」


 シマさんは「ありがとね」と言って続きを話してくれた。


・・・


 お兄さんはどんどん山の中に入って行った。

 シマは夜に山に入ることに恐怖を覚えたが、ルイが一緒にいるので心強かった。

 何しろ彼はずっとここの住民なのだ。山は庭みたいなものだろう。


 ルイは積極的にお兄さんについて行っているように見えた。

 子供のころはあんなに関わるなと言って来たくせに…。さては好奇心が勝ってしまったのであろう。


 そういうところがやっぱり好きかも…とシマは思った。


「おい、どこまで行くんだよ」


 鬱蒼と生い茂る山の中腹に差し掛かったころ、さすがに不安になったのかルイがお兄さんに向かって言った。

 お兄さんは立ち止まると、坂の向こうを指さした。


 お兄さんが指さす方にぼんやりと明りが灯り、古いお堂のようなものがあった。

 見覚えがあるような気もしたが、こんな山奥に来ることはなかったはずだった。


 お堂の前に座っている人影が見えた。

 お兄さんは立ち止まるとその人を指さした。


 シマとルイは人影に近寄った。


 それは黒服の女だった。


 女の顔を見て、シマとルイは息を飲んだ。


 女の両目には棘の様なものが刺さり流血していた。

 ドロドロと。まるでたった今棘が刺さったかのように。


「…誰か来たのか?」


 女が言った。

 手探りでこちらに手を伸ばしてきたので、シマはその手を取った。


 女の手に触れると、何とも言えない感じがした。

 何かここにないはずのものに触れているような…。


「これは…なるほどね。…無駄だって言ったじゃないか」


 女はお兄さんに向かって話しているようだった。

 言いながら女はシマの手をさすった。愛撫するような手つきだった。ゾッとして思わずシマは手をひっこめた。


 ルイもこの異様さを感じとっているのか、大怪我をしている人が目の前にいるのに声も出せずに固まってしまっているようだった。


「ナオシテ」


 お兄さんがシマの顔を覗き込みながら言った。


 お兄さんが言葉を発したのを聞いたのはこれが初めてだったので、シマは驚いた。


「治して? 私が? 何を?」


 シマは驚いてお兄さんに言った。


 お兄さんは女の目を指さした。


「私が? 目を?」


 お兄さんは黙って指さし続けた。


「む、無理だよ…これは私には治せない…」


 シマが言うと、お兄さんは悲しそうな顔をした。


「その子は執着している。お前さんが何でも治せると思ってるのさ」


 女が言った。


 お兄さんはつぶらな瞳を潤ませて期待を込めた眼差しをこちらに向けていた。


 その目にどこか見覚えがあるかも…と今更ながらシマは思った。


 それでシマは全てを理解した。

 この子は、ポン吉ではないか?


 いつかシマが助けた狸のポン吉…。


「…お前、ポン吉? ポン吉なの?」


 “ポン吉” という名を聞いて、お兄さんの表情が少し変わった。

 やはりそうだ…。


「そうか…お兄さんはポン吉だったのね…」


 何故だかシマはこの突拍子もない発想にしがみついた。

 現実離れした状況を目の当たりにして、シマの脳はこれをコミカルで処理しようとしているのだった。


 急にシマが一人で納得しはじめたので、今度は女の方が困惑する番だった。


「あ、いや、ポン吉ではない。この子の名はヤミだ」


 …ヤミ? …闇?


「ヤミだ。ヤミだよ…ヤミなんだよ。ヤミ、ヤミ、ヤミ…」


 なぜか黒い女はヤミという名を何度も繰り返し言った。


「…その目、どうしたんすか?」


 唐突にルイが口を挟んだ。女の言葉を遮るようだった。


 これにはシマも驚いた。

 既にもう背景と化していたルイが何か言うとは思ってもいなかったのだ。


 女はルイの声のする方をに顔を向けると、にんまりと微笑んだ。

 女の口には汚い歯が並んでいた。恐ろしい顔だった。


 思わずシマは後ろに下がってルイの腕にしがみついた。


「これかい? これはね、元からこうなる運命だったんだよ。この子が私の目を治して何をしたいのかは知らないけどね。こんな目はね、見えなくていいんだよ。あんたにもそのうち解るさ」


 女は言い終わると気味悪く笑った。

 それがあまりに不気味だったのでシマはブルブルっと震えた。


 ルイも同じように思ったのか、シマの腕を引いて「やべーよもう帰ろう…」と小声で言って来た。


 自分から聞いたくせに…とシマは呆れたが内心はルイと同じ気持ちだった。


 こういう時のルイの感は正しい。シマは適当に取り繕って女に別れを告げると山を下りた。

 ヤミはなぜか山の麓まで二人についてきた。


 ルイは振り返るとヤミに向かって言った。


「お前はもう戻れよ。それともまたシマにつきまとうつもり?」


 それを聞くとヤミは悲しそうな顔をして、ルイにしがみついた。

 ルイは驚いて引き離そうとしたが、ヤミは離れなかった。


 ヤミは幼子がするように駄々をこねた。


「何だよ… 放せよっ! 早くあの女のところに戻れ!」


 ルイの強い口調にたじろいだのか、ヤミはルイから離れると一歩後ろに下がった。

 そして急に怒りとも悲しみとも取れるような複雑な表情になると、声を限りにぎゃぁぁぁああと泣き叫び始めた。


 シマもルイもこれには恐怖に震えあがり、お互いにしがみつきながら少しずつヤミから離れた。


「何だ? どうした?」


 ルイが小さい声で言っているのが聞こえた。


 やがてヤミは何事もなかったかのように叫ぶのやめ、こちらを睨みつけてから走って山の方へと帰って行ってしまった。


 ヤミが行ってしまうと、シマは文字通り腰を抜かしてしまった。

 足にまるで力が入らず立っていられないのだった。


 耳元にまだヤミの叫び声が残ってシマを震え上がらせた。


 これは夢だ…。


 これは夢に違いない。


 シマは強くそう思った。


「…これは夢だ…夢だ夢…早く覚めなくちゃ。何なの? ヤミ? 誰? あり得ないし」


 シマはブツブツ言った。完全にパニック状態だった。


 ルイが「しっかりしろ」と言いながら身体をささえて立たせてくれた。

 とにかく家に帰ろう…とルイに言われても、シマは耳を塞いで嫌だと言い続けた。


 これは夢だ…。

 とにかく早く目を覚まさないと…とそればかり思った。


 目を覚ましたら自分のアパートに戻っているはずだ。


 実家にだって本当は帰って来ていないんだし。

 こんな…ルイとかヤミとかあり得ないし。


 翌日、目を覚ますとシマは自分のアパートではなくて、実家で目を覚ました。

 悪夢が続いているようでがっかりした。


 それでも彼女はあれは夢だと自分を言い聞かせた。

 だけれども、ルイが訪ねて来て、また昨日の話を蒸し返したのでシマは堪忍した。


 わかった、あれは夢じゃなかった。


「昨日のところ行ってみようぜ」


 あろうことかルイはそう言ってシマを誘った。

 シマは言葉では必死に抵抗したが、体は反対にルイについて山を登り始めていた。


 ルイは昨日の場所を覚えているようだったけれど、歩いても歩いてもお堂には辿りつけなかった。


「…ほら、ないし」


 シマは小さな声で言った。


 だけれども、彼女はわかっていた。あの女に触れた手の感触やヤミの叫び声を今でもはっきりと思い出せるのであった。


 あれは…夢ではない。


 二人は無言で山を下りた。


 家に帰る道はいつもどおりで、いつもの村だった。

 だけれども、シマは何かが変わってしまったような気がした。


 ルイは何を考えているのか解らないが、黙って前を歩いていた。


 その背中を見ながらシマは歩いた。


「お前さ、村に戻って来いよ」


 ルイが唐突に言った。


「そんで、俺と一緒になってくれないか…」


 突然のプロポーズにシマは動揺した。

 中学生の時、体育館倉庫で告白された時もこんな感じだった。


 全く同じだ。


 何故、今?

 何故、今、それを言う?


 中学生の時は彼の想いを受け入れたシマだったが、今回は違った。

 彼女はまだ学びたいことがあった。


 卒業後も村に戻るつもりはなかった。村ではやりたいことができないのだ。


 シマは自分が村に戻る気がないことをルイに告げた。


 ルイは「わかった」と一言だけ言い、シマを家まで送ると「じゃあな」と言って行ってしまった。


 それが施設で再会するまでの最後に見たルイの姿だった。


 シマは学校に戻り、めったに村には帰って来なくなった。


 学校で学びたいことを学び、シマは社会人になった。

 たまに故郷に帰って来る時はあったが、その時もルイの顔は見なかった。


 だからルイがどんな人生を送ってきたのかはわからない。


 あの晩の不気味な出来事もいつしかぼんやりとした記憶へと変わって行った。


 彼女はがむしゃらに働き、三十代になるころに、何の変哲もないごく普通の男と結婚した。


 男との間に娘が生まれた。


 子ができてからも仕事は続けていたが以前ほどやる気はなくなっていた。


 そして娘が成人するころに離婚した。

 結婚するなら普通が一番と思って一緒になったのだが、彼女には退屈すぎたのだ。

 いつしかシマは平凡さにイラつくようになってしまっていた。


 ルイと一緒になっていたらどんな人生だったろうか…と時々思うことがあった。


 やがて娘も結婚し孫が生まれた。


 独り暮らしがだんだん心許無い感じになってきたころ、娘夫婦から同居の提案をされた。

 だが、シマは自ら施設を選んで入居した。


「そして、今に至るってわけさ」


 シマさんはそう言って話をしめくくった。


「結局、お兄さん…ヤミ? はどうなったんですか?」


 私はたまらず質問した。


「さあね。ルイなら何か知ってるかもしれないけどね。こんな状態だからね」


 言いながらシマさんはルイさんの頭を撫でた。


「私もね、この話はあの時で終りと思ってたんだよ。だけど、ここに来たらルイがいるじゃないか。何か起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない」


 私はシマさんの人生の物語を見届けたいと思い、シマさんの専属担当に志願した。

 シマさんも私を指名してくれたので、すんなり私はシマさんの専属ヘルパーとなった。


 ついでに私はルイさんの専属にもなった。


 それから約一年の間は平穏な日々が続いたのだが、変化は突然訪れた。


 軽い風邪をこじらせたルイさんの体力が元に戻らなくなってしまったのだ。


 これまでベッドから起き上がったり、車いすから食堂の椅子に移ったりは難なくやっていたルイさんなのに、すっかり寝たきりになってしまった。

 あんなに力強く暴れていた人なのに…。


 だが、こうして自我を失いながらも、穏やかな最期の時を過ごせるのは、本人にとってはよかったりするのかもしれない。

 それについて私は答えを知ることはできないのだけれど、そうだといいな…と思った。


 シマさんも似たようなことを思っていたようで、一日中ルイさんのベッドの横に付き添って、「最期に私が側にいてよかったわね」なんてよく言っていた。


 そのころだろうか。私がシマさんの歌声をよく聞くようになったのは。

 もしかしたら前から歌っていたのかもしれないけれど、私が彼女の歌を認識したのはちょうどこのころだったと思う。


 ルイさんの部屋から歌声が聞こえてくると、私はこれが例の歌声か…と聞き耳をたてるようになった。


 そんなある日のことだ。あれは日差しの温かい春の日だったと思う。

 タオル交換でルイさんの部屋を訪れると、いつものようにシマさんの歌声が聞こえた。


 私は彼女の歌の邪魔をしたくなかったので、部屋の外で聞いていていると、突然歌声が止んだ。そして「おや、ずいぶん久しぶりだね。最後に会いに来てくれたのかい?」とシマさんが言うのが聞こえた。


 …他に誰かいる?


 心配になって部屋に入ると、見たことがない男の子がベッドに横たわるルイさんを見下ろして立っていた。

 私が入ると、男の子はこちらに顔を向けた。


 そして、私は見てしまったのだ。


 男の子の左目の周りには大きなアザがあった。


「……ヤミ…?」


 私がその名を口にしても、男の子は驚くこともなく無表情で、再びベッドのルイさんに視線を落とした。


「シヌノ?」


 ヤミが言った。

 …喋った…と驚いているのは私だけのようだった。


「そうだね。ま、いつになるかは知らないけどね」


 シマさんが寂しそうに答えた。


「ダメ」


 真顔のままでヤミが言った。少し怒っているようだった。


「そうは言ってもね。これは定めだからね」


 私は二人の会話を盗み聞きながら、なるべく邪魔にならないのように気配を消しながらタオルを交換した。


 その日の夕方、ルイさんは眠るように息を引き取った。

 ルイさんの遺族が施設での葬儀を希望していたために、様々な手続きはスムーズに行われて、あっとゆうまにルイさんは遺骨となって逝ってしまった。


 残されたシマさんはずいぶんと気落ちしてしまったが、あの日以来、毎日のようにヤミが姿を見せてシマさんと共に過ごしているようだった。

 彼はいつもちゃんと面会時間内に現われるので誰も不審に思っていなかった。


 というより、誰もヤミの存在に気が付いていないかもしれなかった。


 以前のシマさんの話だと、ヤミは他に誰かいると姿を見せなかったらしいので、今回もそうしているのかもしれなかった。

 私が見ているときには普通にいるので、私のことは何故か平気な様子だった。


 彼にとって私は空気だった。

 そこにいるけれどいないも同然。


 私もその方が気が楽でよかった。

 害はなさそうだったが、やはり私はヤミが怖かった。


 そんなシマさんは、ルイさんが亡くなって二ヶ月も経たないうちにぽっくり亡くなってしまった。

 彼女は心も体も本当に健康な人だったので、今でもとても信じられない。


 急なお別れだった。

 昼食後、庭の景色を見ながらまどろんでいるシマさんの様子を見に行くと、そのまま亡くなっていたのだ。


 シマさんの葬儀は近親者で執り行われたのだが、私も参列させてもらった。

 その会場で私はヤミを見かけた。


 葬儀場の外からじっとこちらを見ていて、それ以上は近寄って来ない様子だった。


 私は知らんぷりをしてあげた。たぶん彼はそうして欲しかったはずだ。


 私はそれから休暇を取り、シマさんとルイさんの故郷の村があった場所へと足を運んだ。


 その辺一帯は住宅地化が著しく進んだ地域で、山は住居で埋め尽くされていた。


 私は自分でも何をしたいのかよくわからなかったが、話しに聞いたお堂に行こうとしていたのかもしれない。

 当時のルイさんにもたどり着けなかったのだから、私に見つけられるとは思えなかったが、私はどうしてもそれがあったと思われる山を見てみたかったのだ。


 山は、かつてそこが山であったと聞いていなければそうと解らないほどに住宅地になっていた。


 誰かに話を聞いてもよかったかもしれないが、昔からそこに住んでいそうな人が見当たらなかった。

 半ばガッカリして、もう半分はほっとしながら帰路についた。


 結局、シマさんとルイさんが体験したことの真相はわからないままだが、この世にはきっと科学では解り得ない不思議なことがあるのだろう。

 私には永遠にその真相はわからないのだ。


 そう、永遠に。

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