第18話 なんとかしなくちゃ 2



 その晩、三秋の指示を受けて碧玉はあの子供の家に向かった。


 ただし、今いる場所は正確には家の中ではなく、中庭の植え込みだ。

 ここでなら、母親がいる房を外から見張ることができる。


 ただし、自分一人ではない。足元にはあの犬が二匹とも足元に控えている。


 それでは奥様おやすみなさい。――下女の声が聞こえた。


 時刻はもう夜半を過ぎている。子供たちはきっともう夢の中だろう。

 父親は数日前、行商のために離れた街へ出かけて行った。戻ってくるのは少なくとも、あと十日はかかるらしい。


「それにしたって」


 庭に配された岩に腰を下ろして、碧玉は呟いた。


 例の薄絹を被っているためか、虫は寄ってこなかった。もしただの人間のなりのままであれば、きっと今頃は藪蚊にたかられて酷いことになっていたに違いあるまい。


 とはいえ、この待ち時間はいささか長い。


「本当にこれでいいのかしら。もう、二刻は過ぎたと思うんだけど」


「楊先生のお言葉に間違いはない」


 碧玉の言葉に応えたのは黒犬だった。


 毛皮は夜の闇の中にすっかり溶け込んでしまっているが、金色をした目だけは星のように輝いている。


「あのお方はいつでも先を見通している。我らよりもずっと彼方までをだ」


「そうね、神様だものね。……ねえ、それってやっぱり、千里眼ってものを使ってらっしゃるから?」


「いいや。あの先生は人間だった頃からそうだったんだよ」


 今度は白犬が口を開く。


 光り輝く自分の毛皮が目立つと分かっているのか、薄絹を被る碧玉にぴたりとくっついている。そうでなければとうの昔に、誰かの目についてしまったに違いあるまい。


「びっくりするくらいに、なんでも真実を言い当てていたらしいよ。たくさん驚かされたって、僕たちの主が言っていた」


「……へえ……」


 碧玉は目を瞬かせた。あの神様にも人間だった頃があったのか。

 確かに以前本人がそう話していたが、にわかには信じられなかった。


 そのくらい、あの神様は人間の心理に疎い。生まれたときから神様だったと言われる方が納得できる。そのくらい浮世離れしている。


 どうして神様になったのか、ではなくどうして人間を辞めたのか。もし訊けることができるのなら尋ねてみたい。そんなことをふと思った。


 そういえば、自分はまだあの廟の由来を知らない。

 どうして三秋があの場所に祀られることになったのか、そのことも知らない。


「ねえ、」

 もし楊様のことを知っているのなら、――碧玉がそう言いかけるより先に、二頭の犬は素早く動いた。

 どちらもぺたりと腹を地に着けて身を伏せる。首筋の毛が逆立っているのは緊張のためだ。

 何が、と言いたかったが碧玉は口を閉ざした。塀を乗り越えて人影が現れたからだった。


 月影もない夜の中、その姿は闇の化身のようだった。覆面もしているのか、顔はまるで分からない。ただ、体格からして大人の男だということは分かる。

 男は碧玉たちの目の前を横切り、家の中に忍び込んだ。


 はっ、と息を呑む音が房から聞こえた。


 二頭の犬たちは姿勢を低くしたまま前に進み始めた。碧玉もそのあとに続く。


「……旦那は当分戻ってこないんだって?」


 房の中から、抑えた声が聞こえてくる。


 楽しそうなその響きの中に嫌なものを感じて、碧玉は身を震わせた。

 笑い方にも嫌なものがあるのだということを、どうしても思い出してしまう。神様の元に召されてから、忘れられていたと言うのに。


 嫌な声は途切れることなく、しゃべり続けている。


「待っていたんだよこの時を。今度こそ観念してもらうよ。ああ、諦めた方がいいと思うよ、助けに来る奴なんて誰もいないって」


「そんなことはありません。大声を出せばきっと」


「いいのかなあ。そんなことをしたら、こんな時間に旦那以外の男を連れ込んでるなんて思われるんじゃないの? そうなったらただじゃあ済まないだろ? ここの旦那は悋気が激しいって評判じゃないか」


 煽るような声に対して、母親のいらえはなかった。聞こえてくるのは嫌な笑い声ばかりだ。


 碧玉は唇を噛んだ。今、母親がどんな顔をしているか考えただけで胸がえずく。


 がた、と物音が立つ。


「こないでっ」


 辛うじて出したというような声は、既に掠れている。


「お金ならあげます。欲しいものならなんだって。だから、」


「金はもちろんもらうけど、それだけじゃ足りないんだよもう。この間は邪魔が入っちゃったからなあ、その分たっぷり楽しませてもらわなくちゃ」


「近づかないで。――これ以上寄るのなら私は」


「どうする? この間みたいに暴れてみるとか? 駄目だよ、そんなことをしたら誰かに気づかれるよ。子供が起きたらどうするんだい、そりゃあこの間は驚かされたけど。今度は絶対に見逃したりしないよ。悪さをするガキにはたっぷり礼儀を教えなくちゃねえ」


「そうだなあ。躾は必要だなあ」


 ねちっこい言葉尻に被さるように、新しい声が大きく響いた。竹で割ったような、からっとした太い声だ。


 ひっ、と息を呑む音は決して母親のものではない。


「他人の女房の部屋に押し入るような奴には、特に厳しく躾けてやらなくっちゃなあ」


 なあそうだろう、と言いながらにじり寄っているのか。がたがたがたっ、と忙しい物音が連続して聞こえた。腰が抜けたのか足がもつれたのか、それは不明だ。


 同時に、家じゅうの明かりがどんどん灯されていく。

 起き出してきた下人たちがこの房の前に集まってくる。


 旦那様大丈夫ですか。奥様は無事ですか。


「おう大丈夫だ、俺たちはなあ。――お前も大丈夫でいられるなんて思うなよ、逃げるなこん畜生めがあ!」


 一際大きな物音が立った。


 助けてくれえ! という声はこの家の主のものではない。

 ばたばたと大きな物音がいくつも立ったあと、いきなり窓がばたんと開いた。


 飛び出してきたのは黒づくめの装束をまとった一人の男だ。転がり出るように庭に降り立ち、そのまま全力で駆け出そうとする。


 ぎゃあっ! と男は悲鳴を上げた。黒と白の犬たちがそれぞれ足に噛みついたからだった。


 頭から地面に突っ込むように倒れた男は、たちまちの内に、店の者たちによって取り押さえられた


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