鵺鳥の

 舞い落ちる。ひとひらの雪。

 白い粒が風で舞った花びらみたいだから「風花」なんだとコイツが言っていたのはいつの日か。

 薄桃のマフラーが揺れて、柔らかな髪がツヤツヤと街灯に照らされる。アスファルトを覆い尽くした白は歩く度にサクサクと音を立て、夜が深まっていたことを知る。


 ちらちらと降る雪に二人で手を伸ばしたのはいくつの時だったろう。手のひらの熱でコンマ数秒もすれば氷の粒は雫に変わる。淡い一瞬、儚く消えてしまうのだ。


「秋人は、まっさらな美冬を愛してくれましたか」


 ドアの閉じる音と一緒に答えは消えた。

 聞いて欲しい、聞かないで欲しかった。矛盾した心情の意味を美冬、お前は紐解いてくれただろうか。



 ***



「アキくんは引っ越す前に会いたい人いないの?」


 大きさが目立ち始めたお腹を千夏は撫でながらきいた。

 千夏のことは愛おしいと思っている。一人の女の子から一児の母に変わろうとしている彼女だが、何年経っても変わらずに愛している。大好きな人で間違いは無い。

 それでも彼女の小さな背中を見る度に。彼女の栗色のショートカットが揺れる度に。じっと見つめられて名前を呼ばれる度に。


「……美冬」


 お前の姿を記憶の中から手繰り寄せている。

 千夏よりいくらか高い背。黒く艶やかなセミロング。「秋人」とよく通る癖のない声。

 今どこにいる? 何をしている? 隣には誰がいる?

 友達。幼なじみ。ありきたりな関係性でまとめたくない程に、貴女は俺にとって、逢いたい人。話したい人。大切な人。忘れられない人。


「ちなっちゃん、俺一人だけ会いたい人がいるんだわ」


 紛れもない劣情だ。橘美冬に向けた感情は綺麗なものじゃない。拗らせた初恋は


「幼なじみなんだよ。ずっと会ってないんだけどね、サイゴにアイツにだけはサヨナラを言わないと」


 理由はただ、貴女にあいたい。それだけだ。


 千夏は目を細めて俺を見た。


「ふぅん……私に会う前に好きだった人でしょ」


 ああそうさ。間違いない。好きと言っていいものかは迷ってしまうけれども。

 きっと俺の奥サマはなんだかんだ全部知っているのでは、なんて思ってしまったのは黙っておく。


 堀河千夏は高校の二つ下の後輩で、付き合い始めたのは美冬と別れたあとのあの夏だった。

 美冬に出会ってしまって、でも、心の中で二度と会えないんだろうなって分かってしまって、気付いて落ち込んで、どうしようもない気持ちでいっぱいな俺に


「先輩、私じゃだめなんですか」


 って、告白してきたのが部活の後輩であるちなっちゃん。

 陸上部で長距離専門の俺。有名選手でも部長の肩書きもない。赤点、補習は常習犯で頭もよろしいとは言い難く、おまけにサボり魔。本当にどうしようもないヤツだったなぁと今になって思う。

 千夏は可愛いくて、仕事のよくできるマネージャーだった。

 よく俺を見つめていた。よく彼女と目が合った。色素の薄い鳶色の瞳はいつだって俺だけが映っていた。短く結わえられた栗色の髪を風に揺らして、顔の向きはこちらで固定。俺と話す時だけ少しだけ高くなる声、上気した頬、キラリと輝きを宿す眼。……見覚えのある姿だ。鏡に映った自分と同じ、彼女は恋をしているのは誰の目にも明らか。

 あのビードロのような瞳に見入ってしまった。飲み込まれて、取り込んでくれるなら本望。の思い出を上書きしてくれるのなら、なんて。断る理由なんてなかったんだよ。

 夏の思い出は千夏の向日葵色の浴衣で上書きした。海の青は競技場の赤タータン。貴女が好きだから読んでいた小説に栞を挟んで、彼女の好きな映画を見た。記憶域は堀河千夏で埋め立てた。

 きゅっと繋いだ手はひんやりといつも冷たい。冷え性なんだよ、と言う千夏と俺の体温をいつも半分こしてる。身長に比例した小さな手をふにふにして、守らなきゃなぁ、大切にしなきゃなぁ、と暖かくて幸せになるけど。

 プリーツスカートが風に揺れて、背伸びした千夏の頬にそっと手を添えて口付けても、キュッと胸が締め付けられた。甘くて酸っぱくて、苦くて。未だにそう。甘酸っぱさの後味はいつだって苦い。

 可愛い、きれい、愛おしい。

 彼女を想えば思うほどに切なくて、青い夏がより青くなる。白い冬をむかえても、雪は海をも覆えない。現実の幸せが手放せなくなるほどに、荒い解像度で映る美冬はどんどん儚く美しく見える。

 結局、上書き保存なんて優秀な機能は備わっていなかったんだ。

 手が届かないから。記憶の貴女にずっと手を伸ばして、追いかけて、擦り切れるまであの日のテープを巻き戻して再生している。いつか切れて無くなるまで。焼け切れる、色褪せる、そんな日は何年先か分からないけど、今は胸の奥で忘れるまで想わせて。


 窓の外に青は見えない。薄ぼんやりとした雲間からはらりはらりと白が見える。

 思い出ごとこぼれ落ちてしまえ。風花の雪とともに舞い落ちろ。お前の記憶なんて鮮明なはずなのに、いつの間にか朧気なんだから。どこからどこまでがお前なんだよ。俺の記憶違いはどこからだよ。橘美冬の記憶は継ぎ接ぎだらけでも、再生は止められない。アルバムのページから写真が落ちれば必死に探して、また大事にしまうんだ。嗚呼、捨てられっこないんだ。忘れまいと貴女の姿をエンドレスリピートしているのだから。



 ***



「まっさらな美冬を……」


 忘れたくないよ。抱きしめたいよ。気付いたら遠くにいた貴女をこの腕の中に閉じ込めておきたい。もう二度とサヨナラを言わなくて済むように、美しい冬のまま時を止めたい。


 音を立てて閉じた扉を開く。暖かい手を思い切り掴んで引き寄せる。


「ばか」


 ぴしゃりと振り払われた右手が痛い。

 嗚呼、俺は一体感情に飲まれて何をやらかしたんだろう。

「サヨナラ」を言いに来たんだ。これで終わりにしよう。初恋に終止符を打って、愛する人と幸せになろうと、そう決めたじゃないか。


「秋人のばか。サイテー」


 振り返って、俺の目を見つめる美冬の目はやっぱりゾッとするほど綺麗だった。

 星空とお揃いの真っ黒な双眸。白い白い美しい雪の肌。こんなハッキリしたコントラストが他にあるものだろうか。

 またその綺麗な瞳を濡らしてしまった。空には見えない星屑をはらはら零してしまうのは、あの日も今日も俺のせいだ。


「何で今さら会いに来たのよ、ばかやろう」


「……会いたかった、から」


「もっと早くに会っていたかったよ」


 俺もだよ、なんて言えやしない。濡れた頬に手を伸ばしたら、今度こそ戻れないじゃないか。

 いつもいつも取り返しがつかなくなってから後悔をするんだ。回収が始まってから無い宿題に気付いて、ドアが閉まってから対岸のホームに乗るはずだった電車を見る。貴女の姿が見えなくなって大切さに気付いて、サヨナラの間際は気持ちを伝えられない立場になっている。


「全部全部遅かった」


 ごめん、と呟けば美冬は背を向けてさくりさくりと歩みを進める。街灯の光が二人分の足跡を照らしてコバルトの影を落とす。


「はなれていてもさ、秋人のとなりは私だと思ってたんだよね」


 何だそれ。そんなの知らない。告白まがいのことを言い始めるな。あの海でお前はああ言ったじゃないか。


「愛とか恋とかそういうんじゃなくてさ、」


「夢と知りせばさめざらましを」


 お前はあの日も今日もこう言った。


「……秋人?」


「ゆめと! しりせば!! さめざらましを!!」


 覚えている。貴女は言っていた。あの海で。水平線を背に俺に言った。


「私たちは夢を見ていたんだよ」

「出会ったあの日から長い夢を見ているの」

「いつか目を覚まさなきゃ。秋人に頼らず生きれるように」


 ねぇ、美冬。教えてよ。


 真夏の青海川。頬を撫でた磯の香り。背中を伝った汗。

 絡めたままの指先と、ラムネ味の唇。


「腐れ縁はここで切ったから」


 するりと自分の右手から体温が消える。


「秋人、アンタの運命の人は私じゃない」


 それでも、と貴女は海に叫んだ。


「夢と知りせばさめざらましを」


 あの日、貴女が言った言葉ひとつひとつを覚えている。あの日の体温を覚えている。貴女の泣きそうな表情も、今までで一番澄んで強い貴女の声も覚えている。


「お前が言ったから! 夢ならば覚めないで欲しかったなんて言っていたのに!!」


 わだちを歩む足音が消える。


「……なんで、離れてっちゃったんだよ」


 私ひとりで生きていくわ、なんて冗談も大概にしろよ。

 誰よりも凛として、カッコよくて、俺の憧れの人。どうしようもない俺の世話を、いつもいつも甲斐甲斐しくやってくれて、明日には忘れちゃうような会話して、思い出せないような理由でケンカして、二人で泣いて、笑って。

 ずっとお前の隣は俺だった。お前の隣は俺だった。


「置いていかないで欲しかった」


 美冬。なんで俺を夏に取り残したの。

 青海川に停車した電車にまだ乗れていないんだ。きっと、信越本線の下りは回送中。貴女だけが乗車していたんだろう。車窓から俺を眺めて、俺を置いて発車したんだろう。


「遠くに行きたいの、ってお前が言った。久しぶりに美冬に会って、夏に逃亡して、全部に気付いた時にはお前の夏は終わってた」


 駅の隅っこで縮こまるように泣いていて、笑っていない貴女を放っておくなんて俺には出来なかった。逃避行に誘われて、思わず手を取って貴女を海にさらった。

 補講なんて知らない。部活なんてどうでもいい。カラオケの約束も、貯めたバイト代もいいよ、全部くれてやる。明日のことなんて気にしていられない。だって今、そこにお前はいたんだから。

 数年の月日を飛び越えて、セーラー服に袖を通していたあの日と同じように、俺を頼ってくれたことが嬉しかったんだよ。また、戻ってきてくれたように思えたんだよ。またね、って手を振った桜が咲いた前の日々に帰れたと思ったんだ。

 めぐる季節はお前と見たい。橘美冬の隣はいつも俺がいい。泣くのも、笑うのも、怒るのも理由は全部俺がいい。お前にだけなんだよ。傲慢に、横暴に、自分勝手につらつらと、とめどなく想いをぶつけたくなるのは。

 冷房のひんやりとした風に吹かれて、繋いだ手の温度を分け合って、離したくないって今更気付いた。


 お前の一番になりたかったんだよ。


 なんで離れて行っちゃったのさ。

 なんであの日俺に口付けた。

 サヨナラなんて言わないで。

 あの夏に泣いて縋ったお前と同じことを、俺は真冬にやっている。


 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ

 夢と知りせばさめざらましを

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