宵の闇、君の隣

神楽鈴

一章

第1話

 それは嫌にジットリとした梅雨の日の事だった。

 時は黄昏、都会とは比べ物にならない程に大きな空が夕焼けに染まる頃。


「金が無い。どこにも無い」格安アパートのきったねェ畳の上でスマートフォンを片手に胡坐を掻く男は深刻な顔で呟いた。年は30代前半で中肉中背だが、目付きと姿勢はすこぶる悪い。彼はカップラーメンの残骸と請求書で出来た山の隣でアルバイトを探していた。


 欠伸や嘲笑を織り交ぜながらも画面と睨めっこを続ける事18分43秒、突如として男の顔つきが変化した。アルバイトの斡旋サイトには「高額報酬!!治験モニター募集中!!!」と表示されている。


 拘束期間は一日だが報酬は五十万円。募集企業は『Ecthisエクシス』という会社だ。いかにも胡散臭そうな仕事だが、彼はそんな事を気にも留めず、満面の笑みで治験アルバイトに応募をした。退職届を拳と共に上司の顔面に叩き付けてから早一ヶ月。仕事を辞めた男の貯金はとっくに底をついていたのだ。



 全国津々浦々の都道府県でも上位に食い込むレベルで影の薄い糞田舎。地方開発で見事に失敗を収めた悲しき街の北側には、それはそれは立派な総合病院があった。


 病院は五階建ての建物で、細長い塔を幾つも集合させた様なデザインだ。塔はそれぞれが独立した病棟として機能しており、行き来をするには二階と四階にある空中廊下を渡るか、一度外へ出てから再度別の病棟へ入るしか無い。


 先進的なデザインの外壁と鏡のように光る大きなガラス窓で構成された外観は遠くからでも威厳を感じる事が出来るので、「嫌に目立つ」と近隣住民からも大変好評である。


 しかし、小生意気で利便性に欠ける建物とは裏腹に周囲の庭園は綺麗に整備されていて、季節に応じた花が咲き乱れる花壇で彩られていた。


 表面上では憎まれ口を叩いている近隣住民も、結局の所はこの「毬華キュウカ総合病院」を頼りにしており、毎度顔ぶれの変わらない患者と訪問者で賑わっている。 

 診察待ちの人間は少ないのに診察の待ち時間は長いので、ロビーやカフェスペースでは、しみったれた表情の人々がくつろぐ姿が見受けられた。


 男は奥の方に押し込められた「臨床病棟」の中に入ると、内装を見渡して少しだけ肩を落とす。そこは白を基調とした清潔感の溢れる一般的な待合室だったのだが、奇抜な見た目をした外装を鑑みれば地味だと言わざるを得なかったのだ。


「治験アルバイトに来た沙魚川 真幸はせがわ まさゆきです」

 飽き性で面倒臭がり屋な男にしては珍しく、その日は時間ぴったりに病院の受付へとたどり着いたらしい。

「お待ちしておりました。治験会場へご案内いたしますので、ご一緒にお越しください」返事をした綺麗な看護婦は近くのエレベーターへ向かうと、開いていた箱に入って4階のボタンを押した。


 静かな機械音が鳴り、振動と共にエレベーターが動き出すと同時。真幸が沈黙を破る様に口を開く。「あの、私が臨床する薬って何なんですか?」彼は明らかに怪しい募集要項を思い出して今更になって心配になり、そう質問をした。

 

「風邪薬ですよ。既に第二次臨床試験は終了しているのですが、商品として売り出す前の最終試験で精密検査のデータが必要なので、沙魚川さんにはお薬を飲んで貰いながら過ごして貰います」


 暫くして、無機質なベルの音が響きエレベーターが動きを止めた。どうやら看護婦が捲し立てる間に4階へ着いたらしい。彼女は一階と比べて随分と人気の無くなった廊下を歩いて突き当りの部屋の扉を引く。


 すると、そこには僅か三畳程度の小部屋があった。簡単な机と椅子、小さなベッド以外は何も無いのにそれだけで一杯一杯に見える。とは言ってもここに居るのはたったの一日だけ。カプセルホテルを思えば、よっぽど快適な空間である。


「検診用の服と三回分のお薬を渡しておきます。一回一錠、食後に服用してください。入院食なら無料ですが、二階の売店で売っているお弁当を食べて頂いても構いません」


 彼女は微妙な顔でそう言うと、一回目の検査の時間だけを伝えて受付へと戻ってしまった。やはり、入院食が不味いというのはどこでも同じ事らしい。


 真幸は特にやる事も無く手持ち無沙汰になってしまったので、とりあえず薬を飲んでから二度寝と洒落込む事に決めた。



 それから一時間後の午前8時30分。


「起きて下さい、検査のお時間ですよ」先程の綺麗な看護婦は、個室のベッドで熟睡している沙魚川の肩を優しく揺すった。


「……かーちゃん、日曜日は起こさなくても良いって言っただろ」

「私は貴方のかーちゃんではありませんし、今日は月曜日です。検査のお時間になったので起きてください」


「あと五分」「駄目です」といった押し問答から更に10分後。


 五階へと辿り着いたエレベーターの扉が開くと、二人の目の前には唐突に鉄の扉が現れた。このフロアは研究と開発の為に作られた特別階層で、一般の患者や訪問者は勿論の事、職員でさえも『クリアランスレベル』が「3」未満だと立ち入る事すら出来ない神域なのである。


「うわーすげぇ、怪盗が盗みに入るタイプの金庫だよ」真幸は脊髄から飛び出した言葉をそのまま口にする様な能無しではあるが、彼は今回特例としてこの場に招かれただけであり、病院の事情など知る由も無い。


 隣に立つ看護婦は上司から託された黒色のキーカードを震える手で構えると、それを慎重に差込口へと押し込んだ。彼女もペーペーの平社員ではないのだが、それでもこの場所にやって来たのは初めての事だ。なんなら、レベル3の「クリアランスカード」を持つ事すら初めてである。


 つまりどういうことかと言うと、ただ単に鉄の扉が開いただけでも身を震わせるくらいには緊張をしていた。


 さて、扉が開いた先には広大な研究室が広がっていた。室内には高性能のコンピューターや微細な検査機器がこれ見よがしに並べられており、研究者はそれらを取り囲む様に真剣な面持ちで作業を進めている。彼らの周りに漂う空気は凛としていて、傍に居るだけでも理知的な集中力のオーラが伝わって来るようだ。


 そして、凄まじく集中する男達の鋭い視線を一身に受けた看護婦が一瞬で縮み上がってしまうのも無理は無かった。


「沙魚川君だね?検査服は既に来ているみたいだし、さっそくだけど始めようか」


 丸眼鏡を怪しく光らせるマッドサイエンティスト風の男は名前すら名乗らずに、クリップボード上で慌ただしくペンを走らせながら淡々と言葉を紡ぐ。

 どうやら彼がこの研究所の主任らしい。


 そうして、アルバイトと称した怪しげな実験検証が始まってしまった。

 基本の流れは健康診断の時と同じく。身長、体重、胸部レントゲン、血圧、血液、心電図の計測からだという。


 今はニートだが、それでも真幸とて社会と会社に従事して働いていた時期は多少なりとも存在していたのだ。幾度となく経験をしてきた流れ作業に戸惑う程のお子様ではない。


「身長縮んでるんだけど、体重は増えてるのに」「あ、ちょっと!レントゲンの板ってこんなに冷たいの⁉」「うっ血するの面白いなぁ」「優しくね!?優しく抜いてね、つッッ!!チクショウ!!!優しくって言ったのに!!!!」


 検査は滞りなく進んだ。

 真幸はこんな作業があと二回も待ち受けている事に若干の恐怖を覚えながら次なる試練へと思いをはせる。

 

「えー、最後は……」「なんすか、バリウムすか?胃カメラすか?」


「精液検査」マッドサイエンティストの言葉を聞いた真幸は瞬時に凍り付いた。

「……風邪薬の治験なのに?」「薬の影響で男性ホルモンの量が減っていたら三回の採取毎に精子の量が減っていくからね。ふざけているように思うかもしれないけど、これも大切な検査なんだよ?」


 たかが風邪薬ではあるが、その風邪薬で生殖機能へのダメージが有ってはならない。そういう理屈だ。


 と言う訳で真幸はビーカーと共に別室へと連れて行かれ、そこで一発抜いてこいというお達しを受けた。去り際に切なそうな顔で看護婦を見てみるも、残念ながら目が合う事は無い。


 病院は風俗ではなかった。なにせ彼女達看護婦の着ているナース服はコスプレ用のダミーではないのだから。彼に残された道は、これも仕事だと割り切って無機質な部屋で一人寂しく自分を慰める事だけである。



 午後6時50分。

 久々の仕事を終えた真幸は臨床病棟のロビーにて、人目も気にせず背伸びをしながら大きな欠伸を零して伸びをする。

 

 そんな事をしていると、今日一日彼の対応をし続けた可哀想な看護婦が分厚い茶封筒を手に持ちながら受付の裏より現れた。


「お疲れさまでした。沙魚川さんの体が健康だったおかげで採血も搾精も滞りなく進みましたね」

「そっすね」


 真幸は「治験と言うよりはドナー提供とか人身売買の方が近かったかもしれないな」と思いつつ、ゲッソリとした顔で報酬の現ナマを受け取った。


「頑丈な研体は貴重なので今度はこちらから治験のお願いをすることがあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」

「報酬は弾んで下さいね」

「私からは何とも……あの、既に凡その察しは付いているかもしれませんが、今回の実験は政府と合同で進めている一大プロジェクトなんです。本日見た事と体験したことは他言無用でお願いしますね?」


 彼女は言わなかったが、50万円と言う多額の報酬の中には口止め料も含まれている。空気の読めぬ真幸とてその事は理解していたが、現在の彼の思考は既に病院から離れており、脳内は牛肉の調理法だけに集約されていた。


「あーはいはい。他言無用ですね」

「本当にお願いしますよ?」


 真幸は生返事を返すと、背中に看護婦の怪訝な視線を浴びながら病院を後にした。恐らく、彼が帰り道にスーパーにでも寄って肉塊とビールを買う事すら、彼女にはバレてしまっているのだろう。


 看護婦の女性は掌に残った分厚い茶封筒の感触を思い出して、本日の夕飯は焼肉にする事を固く誓った。

 


 人気が減り途端に静まり返った臨床病棟の五階には、地面を見下ろす影が二つ。


『主任、やはりこの実験は……』

『失敗だろうな。初期・・段階の企画にはよくある事だよ』


 マッドサイエンティスト風インテリ眼鏡の言葉に素っ気ない返事をした男性は、現在進めている一大プロジェクトの駒を最終段階へと移すべく動き始めた。

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