後悔

甲斐てつろう

第1話 鬱病

『鬱病になると出来なくなること3選。鬱病になると今まで出来ていた事が急に出来なくなります。これから紹介する3つは……』


 点けっぱなしのパソコンから動画の光と音声が流れている。閉じられたカーテンの隙間から漏れる陽光で朝が来たと知らされた。その陽光が目元を指しベッドで疼くまる一人の男が目を覚ました。


「うぅ〜ん……」


 湿気に塗れカビとタバコの臭いが充満する部屋の中で布団から顔を出しスマホを見て時間を確認する。そのまま見なかった事にするかのように男はスマホを置き再度眠りにつこうとした。


「ねぇ靴下どこ〜?」


 下の階からは既に起きて朝の支度をしている家族の声が聞こえて来る。そんなもの聞きたくない、自分が惨めに見えてしまうから。なので布団を頭から被り必死に耳を塞いで夢の中へ逃げ込もうとしているのだ。

 嫌だ、やめてくれ。これ以上自分に失望させないでくれ。その願いは聞き入れられず勢いよく部屋の扉が開いた。


「誠司!そろそろ起きな!」


 怒った様子の母親が無理やり起こしにやってきたのだ。誠司という名の男はその声に反応するが無視して布団の中で疼くまる。


「今日バイト夜からだよ……」


 起きない言い訳をしながらモゾモゾしていると無理やり布団を剥がされる。


「そうやって寝てばっかいると生活リズム乱れるでしょ⁈もっと鬱病ひどくなるよ⁈」


 鬱病、今母親が言ったこの病名。誠司は数年前からこの心の病を患っているのだ。


「今日も調子悪いから寝かせて……」


 今まともに起きれないのも鬱病の症状が主な原因だろう。しかしそれを聞き入れない母親に腕を掴まれまた無理やり起こされる。


「言い訳しないでほら起きる!」


 こうして嫌々誠司は部屋を出て下の階に降りた。


 ☆


 眠くはない、しかし気力があまりにも無さすぎる。重たい身体を何とか動かしリビングへ行くと高校生の妹である聖良が愛犬のコーギーであるきなこを愛ていた。


「あ、もう起きたんだ」


「起こされたんだよ……」


 そのままソファにドンと座ると母親がまた指摘をして来る。


「ちょっと、そうやってすぐだらんとしないで!また寝ちゃうでしょ⁈」


 急いで化粧をしながらそう言った。


「早く朝ごはん食べてシャワー浴びて着替えて!そんなみっともない格好でずっといるなんて恥ずかしい!」


 今の誠司は髪はボサボサで青髭まみれ、そして顔全体が油ぎって服もヨレヨレで見た目は非常にだらしない。


「分かってるよ、分かってるけど……」


 しかしなかなか身体が動かない。流れている朝のニュース番組を何となくボーッと眺めるだけで時間が過ぎていってしまう。


「じゃあ行ってきまーす!」


 すると聖良が荷物を持って登校するために玄関に向かった。


「あ、今日部活で遅くなるからー」


「頑張ってね、いってらっしゃーい」


 母親も妹には優しい笑顔と優しい声色で話す。手を振り送り届ける姿を見て自分の惨めさにまた苦しくなる誠司。

 そして妹は玄関から出ていった。


「ほら、誠司も早く準備して!」


 準備と言われても夜のバイトまで何もする事がない。気力が全く湧かない故になかなか動き出せないのだ。


「じゃあ仕事行くから」


 そして準備を終えた母親も出勤するために玄関へ向かう。最後に誠司にあるお願いをした。


「さっさと準備してきなこの散歩行ってあげて。うんちしたがってるだろうから」


 愛犬であるきなこは外でしか大便を出さない。そのため毎朝散歩に連れて行ってしっかりと出させるというのが日課となっていた。


「うん……」


「じゃあお願いね!」


 忙しそうに腕時計を見て慌てて出て行く母親を見送る誠司。きなこが舌を出しながら散歩に連れて行って欲しいと懇願するように見て来るがやはり気力が湧かなかった。


「うん、すぐ連れてってやるから……」


 しかし身体が重すぎる。ソファに寝転がったまましばらく時間が過ぎ去ってしまった。


 ☆


 数時間が過ぎ眠ってしまった誠司はようやく目を覚ました。すると隣で寄り添うようにきなこが寝ている。マズい、散歩に行けなかった。

 申し訳ない気持ちを露わにしながら寝ているきなこを撫でようと手を伸ばすと思い切り噛みつかれた。


「ガゥルルルッ」


「痛った!」


 きなこは臆病で家族に対しても警戒心が強く寝ている時に触られると噛みついて来る事がある。それも忘れて誠司は噛まれ人差し指から血が流れてしまった。


「クゥ〜ン」


 そして冷静になったきなこは血が出た誠司の指を見てそこを舐めてきた。誰のせいだと思っているんだ。

 そこで玄関の扉が開く音が聞こえる。


「ただいま〜きなこぉ」


「ハッハッ、キュゥゥ〜ン」


 母親が帰って来た事に尻尾を振って喜ぶきなこ。それを優しく撫でるが母親は誠司を見て絶句する。


「あれ……?」


 絶望の顔を浮かべながら擦り寄るきなこを撫でるのをやめて誠司に事実確認をした。


「ちょっと、あれから何もしてないの……⁈」


 してないというか出来ないのだ。そう言いたいが言う前に母親は様々な罵声を浴びせて来る。


「ほんっっと何で普通の事がちゃんと出来ないの⁈あたし達はこんなに頑張ってるのに一人だけズルいよ!!」


 母親も仕事などで多大なストレスを感じているのだ、それは分かる。しかし鬱病で苦しんでいる人の気持ちを蔑ろにするような発言は聞いていて悲しかった。


「鬱病だの発達障害だの言い訳してさ、何の努力もしないで楽ばっかしてるの見てると腹立つの!!」


 流石にそれは聞き捨てならない。誠司だって鬱病で苦しいのにバイトを頑張っている。


「昨日も今日もバイトだから休む時間が必要なんだって!」


 必死にそう返すが母親は理解してくれない。


「一日たった四時間でしょ?休みも多いのに。こっちは毎日八時間以上お客さんとか上司の文句に耐えながらメンタル削って必死に働いてるの!全然自分の時間がない、ズルいよ!!」


「っ……!!」


 鬱病を舐めるな、自分も鬱病を患いながらも頑張っている。そう言い返したいが何か突っかかると母親が更に激昂してしまう可能性があるので我慢した。いつも我慢しているのはこちらの方だ、ストレスが全然発散できない。


「……ごめん、もうバイトの時間だからシャワー浴びるよ」


 仕方なくプライドを傷付けながらも謝り風呂場へと向かう。

 シャワーを浴びながら誠司は過度なストレスと戦っていた。シャンプーをする手にやたらと力が入る。するとその力で思い切り頭皮を引っ掻いてしまい血が流れた。赤く滲んだシャンプーの泡が床に落ちて排水溝に流れる。それを見つめて誠司は非常に悲しくなった。

 そして髪をドライヤーを使い乾かし服を着替え洗濯をした制服を持ってバイト先へ向かった。


「行ってきます」


「はい、行ってらっしゃい」


 妹の時とは打って変わって半分怒ったような声で見送った。その差にも誠司は更に辛くなる。


 ☆


 そしてバイト先のレンタルDVD店でも誠司は上手くやれなかった。


「このDVD出す場所間違えてる!」


「すみません……」


「分からなかったら聞いてって言ってるよね?」


 そう言われても自分では分かっているつもりだったから聞く事は思いつかなかったのだ。

 そしてレジに客が来たので先輩は行ってしまった。その間に別の客が誠司に質問をして来る。


「このスマホって5G使えるの?」


 中古で販売しているスマホについての質問だが自分は面接を通っただけのバイトであり専門家ではない。全くと言っていいほど知識は無かった。


「確認いたしますね」


 なのでこう言う時こそ先輩に聞いて確かめようとする。レジにいる先輩の所へ行って話しかけるが……


「今対応中だから、見て分かるでしょ?」


 ダメだ、やはり上手く出来ない。先輩は対応中で聞けないため客の所に戻り自分には分からないので先輩の対応が終わるまで待ってくれと言うが客も引き下がらなかった。


「店員なのに分からないんだ……」


 少し驚いたように残念がりながら客はあたふたする誠司と共に待った。

 そしてその日の仕事終わりに先輩から呼び出される。


「あのさ、お客さんからクレーム来てたよ」


「え、何かしちゃいました……?」


「質問されたのにあたふたしてばっかで時間使わせちゃったって。俺が対応中ってのがあってもさ、もっとやりようあるでしょ?」


「すみません……」


「人員不足だからクビにはなってないけどさ、このままじゃマズいぞお前?」


「すみません……」


 ただ謝る事しか出来ない。鬱病なのにこの仕打ちは辛すぎる。こっちだって頑張って精神を削りながら働いているのに。

 その日もいつものように嫌な気分になりながら帰宅した。


 ☆


「ただいま……」


 そして嫌な気分のまま帰って来ると母親が遅くなった誠司と父親、そして聖良のための夕食を作っていた。


「おかえり、ご飯もうすぐ出来るから」


 空腹ではあったが食欲がない。疲れ過ぎているのだ。そのまま朝と同じようにソファにどかっと座り全身を伸ばす。


「ちょっと汗臭いんだけど!」


「仕方ないだろ汗っかきなんだから……」


 すると妹の聖良が仕事終わりの誠司の体臭に文句を言って来た。それを聞いていた母親がキッチンから呼びかける。


「先に風呂入って?臭い人とご飯食べたくない」


 そう言われるが鬱病の状態で頑張って働いた誠司にそんな体力は無かった。


「流石にちょっと休ませてよ、帰ってきたばっかなんだし……」


 しかし朝や昼と同様、母親は理解してくれない。


「また出たよ、大して働いてないんだからそれくらい出来るでしょ?私なんか散々働いた後にこうやって家の事やんなきゃいけないんだから」


 ご飯を作っている姿を見せて自分の方が大変だというアピールをしてくる。


「いやいや、俺にとってはキツいんだって」


 少し反論してみる。しかし意味は無かった。


「そんなんじゃまともに就職できないでしょ?どうやって生きていくのさ?」


「だから鬱病治すの!無理はしない事って病院でも言われたから……」


「ただ寝てるだけじゃん!朝起きて日光に当たって動く事も大事って言われてるでしょ?そうすれば早く良くなるから」


「それがしんどいんだって……常に体が重いんだよ」


 言い合いは次第にヒートアップしていく。


「私だって体重いけど何とか動かして頑張ってるんだよ?辛いけど必死に動いてるんだから!」


「鬱病の辛さはレベルが違うんだっていつも言ってるじゃん!病気って言われるレベルなんだから本当に無理なんだよ!!」


「ちょっといきなり大声出さないで、近所に聞こえるでしょ恥ずかしい……」


「恥ずかしいって俺のこと言ってさ、汚い格好で外出ないでとか俺だってなりなくてこうなった訳じゃないんだよ!!」


 また大声を出してしまう。言い合いの間に挟まれる妹の聖良も辛そうにしていた。


「うっ……やめてよ」


 しかしその小さな声は二人には届かない。更に言い合いはヒートアップしてしまう。


「おいおいどうした⁈」


 自室にいた父親も大声を聞いて心配そうに出てくる。


「また誠司が……!」


 母親はあくまで誠司が癇癪を起こしたと言う。しかし当の誠司にとっては母親が理解をしてくれない事から始まった問題なのだ。


「おい誠司、母さんは大変なんだぞ?家の事やりながら婆ちゃんの世話だったり仕事も二つ掛け持ちして。これ以上しんどい思いさせてやるなよ」


 そして父親も誠司の事を理解してくれないような発言をする。とうとう誠司は我慢できなくなってしまった。


「何だよいつも俺を悪く言ってばっかで!!そっちも大変なのは分かるけどさ!そのストレスを俺にぶつけないでくれよ!俺だってしんどいんだから!」


 そして自室に入ろうとズカズカ歩き出す。


「鬱病になってみろよ……!!」


 そして自室の扉を勢いよく閉めた。


「ううっ……」


 言い合いの間に挟まれていた聖良はとうとう泣き出してしまう。両親も複雑な面持ちをしていた。犬のきなこは何が何だか分かっておらず降りてきた父親に尻尾を振っている。


 ☆


 自室に逃げ込んだ誠司はそのままの勢いで煙草とライターを取り出し煙を深く肺に入れた。そして強く吐き出してストレスを少しでも緩和しようとする。


「はぁぁぁ…………」


 貧乏ゆすりをしながらパソコンの電源を入れるとデスクトップ画面に大量にあるフォルダが目に入る。そのフォルダ名には"レポート"や"試験参考"など大学時代に頑張っていた痕跡があった。


「何でこんなになっちまったんだ……」


 泣きそうになりながら過去の頑張っていた記憶を思い出し更に煙を深く肺に吸い込むのであった。



 

 つづく

 

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