第4話 きつねの火遊び:4

 ひんやりとした床が俺の体温をじわじわと吸い取っている。一体何が起きたんだ。俺は首を巡らせて周囲の様子を窺った。それだけでひどく眩暈がして、視界が定まらない。

 隣にはヤコが転がっていた。明瞭な意識があるのかどうかは解らない。見開かれた瞳は虚ろで、白かった肌は茹で上がったように紅潮している。額や首筋には汗の玉が浮かんでいた。

 ヤコについては……まぁ間宮たちと懲らしめようと思っていたから、一服盛られたのはまぁ想定内ではある。しかし、何故俺までこんな目に遭っているのか。俺も何かを盛られたのは明らかだ。とはいえこれは想定外だった。


「あーははは、流石は玉藻御前の末裔サマサマだなぁ」


 狼男の笑い声が降りてくる。その言葉はトゲトゲしていて、割れ鐘のように頭蓋骨を揺さぶっていた。


「そっちの小娘は流石に飛んじまったが、お前はまだどうにか意識を保っているみたいだもんな。やっぱり二尾だしな。それとも、半妖だから目方が余分にあるからなのかな」


 ま、どっちでもいいけれど。へらへら笑いながら語る男の手許がきらりと光る。注射器だった。これ見よがしにシリンジを動かし、中の空気を抜いているのがスローモーションで見えた。

 あれは狂犬病のワクチンなんかじゃなくて、もっとヤバいやつだよな。そんな風に思っていると、狼男の腕に縋りつく影が見えた。間宮だった。


「兄さん。追加で打つのはやめといた方がいいっす。薬が効きすぎて心臓が止まるかもしれませんよ?」

「何だ間宮。借金のカタに友達を売り飛ばしといて、そんな風に心配するのかい」

「な……なんの……」


 借金。友達を売る。一体何のことだ? 強い疑問と驚きの念が、俺の唇を動かした。思ったとおりに言葉は出てこなかったが、それでもなお彼らを驚かせるに値したらしい。

 間宮に視線を向ける。間宮は俯いていて、もう俺とは目を合わせようとしない。その代わりに応じたのは狼男だった。

 玉藻御前の末裔である俺を、とあるブローカーに売り飛ばす。間宮と狼男がやろうとしているのはそういう事だった。


「半妖だって事がちとネックではあったけどなぁ。だが考えてみれば、半妖の方が産まれてくる子供も早く育つらしいし、お前さんは元々二尾で力があるから問題は無いなぁ。

 もちろん、見た目も良いから、飼い主サマにもたっぷり可愛がってもらえるだろうな」


 ははは、と笑う狼男を見上げながら、俺は尻尾を丸めるほかなかった。そして未だにぐったりと横たわるヤコに視線を向ける。因果応報という言葉が脳裏をかすめていた。元より俺は、ヤコを俺たちの玩具にしようと画策していた。だがまさか、友達だと思っていた間宮に裏切られるとはな。全くもって笑えるぜ。

 その間宮はというと、落ち着かない様子で俺と床とを交互に見つめていた。すっかり青くなった唇がうごめき、念仏のような言葉が漏れ出ている。金が無かったんだ、俺だって心苦しいとか、そんな感じの言葉だった。もちろん、聞いている俺には何ら意味のない、心すら動かぬ言葉だけど。


「……本当は源吾郎ん所のガキどもの方が高く売れるんだろうけどな。でもそうなったら源吾郎のやつを敵に回す事になるからなぁ。その点、こいつは源吾郎の甥で妖狐の血も薄いが、やつの息がかかったガキじゃあない。ははは、儲けよりもリスクマネジメントを重視する事もまた、ビジネスマンにも大切な事なんだよ!」


 またしても狼男の高笑いが響く。一瞬、ヤコの瞳が妖しく輝いたように見えた。視線も定まらぬほどに虚ろだった瞳の奥に、燃え盛るような情念の焔が灯ったのではないか。不思議に思って俺はヤコの顔を覗き込んだが、彼女は肌を火照らせたままぐったりと身を投げ出しているだけだった。

 気のせいだったのか。そう思っていたまさにその時、部屋の片隅から破裂音が炸裂した。破裂音ではない。扉が勢いよく開き、そこから誰かが入り込んだだけだった。

 そいつはクラブのウェイターらしかった。


「大変です! 上にやつが……島崎源吾郎が殴り込みに来ました。チンピラ雷獣とか物々しい連中を引き連れています」

「あのクソガキ、早速嗅ぎつけやがったか」


 舌打ちと共に忌々しげな言葉が狼男の口から漏れ出した。そのままウェイターを突き飛ばすような形で出口に向かう。戸惑いを見せるウェイターと間宮に対し、狼男は言い捨てる。


「あんたらでそこのガキを隠しておけ。小娘の方はまぁ好きにしておけば良いだろう。ともあれ、俺は源吾郎のやつがここへ来ないように食い止める」


 源吾郎叔父がやって来ただって。俺の心に広がっていたのは、喜びでも安堵でもなく戸惑いと驚きだった。源吾郎叔父がやって来た目的については見当がついている。俺を助け出すためなのだろう。しかしそれにしては早すぎやしないだろうか。それこそ予見でもしていなければ不可能なタイミングではないか。

 それから俺は、ふいに首許に視線を感じた。視線の主はヤコだった。俺と同じくナニカを盛られて前後不覚になっているはずのヤコの視線は、はっきりと俺に注がれている。そして目が合うと、ヤコは僅かに微笑んだ。しかも何処か見覚えのあるような笑い方だった。

 上でドスドスバタバタと相争う物音が響いていた。源吾郎叔父の強制家宅捜索が始まっているのだろう。そう言えば雷獣も連れていると言っていたし。その雷獣は十中八九雪羽兄さんだろうな。薬の抜けきらぬ脳味噌で俺はそんな風に思っていた。

 純血の雷獣である雪羽兄さんは、源吾郎叔父の仕事仲間で、私生活でもかなり親しい間柄だった。それこそ、兄弟分のように思っている節もあるくらいなのだという。

 雪羽兄さんは優しいけれど、それ以上に強いもんなぁ。でも、雪羽兄さんにこんな所を見られるのは恥ずかしいかもしれない。俺は呑気にそんな事を思っていた。


「げ、源吾郎狐が来るなんて。そんなの聞いてませんよぉ……」

「そんな事を言ってもどうにもならんだろ。一応、地下にも非常通路もあるし、向こうだってドンパチやってる間は末端まで目は届かんよ。その隙を狙ってそこの坊主を運びだしゃあ良いって俺は思ってる」

「……女の子はどうする」

「所詮はその辺の野良妖狐だろ。そのまま捨て置いとけ。あ、でも、口封じのためにバラしといたほうが良いかもしれんな。薬で眠っているのかどうかも解らんし」

「バラしといた方がって、やっぱり物騒だなぁ。この子可愛いし、出来れば活かしておきたいんだけど」

「だったらこいつも連れて行けばいいだろう。荷物が増えるから手間も増えるだろうけどな」


 ねぇ、お兄さん方。少女の声が聞こえたのは、間宮とウェイターの妖狐の会話が一段落した直後の事だった。声の主はもちろんヤコだった。それは当然の事であり、そして同時にありえざる事でもあった。女の子の声を出せるのはヤコしかいない。しかし、薬を盛られて意識があるのかどうかすら解らぬ彼女が、こうして明瞭に言葉を発する事は出来るのだろうか。

 だがやはり、声の主はヤコだった。彼女は仰向けに身を横たえていたが、それでも僅かに首を曲げ、間宮たちに皮肉げな笑みを浮かべていたのだから。


「源吾郎さんがここに来た事で戸惑ってらっしゃるみたいだけど、本当に源吾郎さんがやって来たのかどうかなんて解らないよ?」


 ヤコの言動に間宮たちも俺も驚いてすぐに声が出てこなかった。源吾郎叔父がやって来たと上では大騒ぎになっているが、その源吾郎叔父が本物かどうかは解らない。簡単な事を言っているはずなのに、その意味がすぐには掴めなかった。

 それ以前に、ヤコがむくりと半身を起こしているのが信じがたかった。先程まで薬の影響で前後不覚になっているのではないか、と。


「ふふふっ、源吾郎さんは用心深いから、相手に攻め入って来る時だって用意周到に物事を押し進めるんだよ。多分ね、あれは陽動作戦なんじゃないかな? 影武者とか分身で攪乱してるだけで、源吾郎さん自身は別の所に潜んでいるのかもしれないし……」


 歌うように言葉を紡ぐヤコの顔には満面の笑みが浮かんでいた。薬のせいで情緒不安定になっているのか、何とも言えない不気味さを具えた笑顔に見えてならない。

 そしてそれは、俺単体がそう思っているだけでもないらしい。間宮とウェイターは、疑心に満ち満ちた表情で互いを眺めているではないか。


「ああそうだった。源吾郎狐は変化が上手だって……という事はもしかして……?」

「馬鹿言え。俺はちゃんとこのクラブの従業員だろうが。得体の知れん半妖狐が紛れ込む余地なんぞあるかい。というかそう言うお前こそ偽物じゃあないのか」


 あっさりと疑心暗鬼に陥った間宮たちが互いに言い争い始めた。もはや俺の事などそっちのけである。ヤコはそれを見てまた笑った。


「あーあ、全くもって情けない連中だねぇ。そんな体たらくで玉藻御前の末裔とやらを狙ったというのかい。

 まぁ、この後島崎源吾郎が押しかけてくるなんて事はまずありえないから安心すると良い」


 男みたいな口調でヤコが言い捨てる。口調だけではなく、ヤコの纏う何かが変質していくのを俺は感じ取った。一尾とは思えぬほどの妖気が、ヤコの身体から立ち上っていく。妖気の一部が白いもやとなり、ヤコの身体を包んでいく。


「――それは何故か教えてやるよ。島崎源吾郎はんだからな」


 白いもやが晴れるや否や、ヤコだった者は得意げな調子で言い放った。銀白色の四尾が背後で逆立ち、陽炎のように揺らめいている。

 そこにいる妖狐は、まさしく源吾郎叔父そのひとだったのだ。

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