第5話 拝神允敏

 オオムカデ、最早その残骸と化したそれからはプスプスと煙が上っていた。

 上吾妻の晴れた空に上りゆっくり消えていく。

 動く気配はもうなかった。

「さて。怪我はありませんか?」

 まさに今、伊口の目の前でこのオオムカデを壊滅した女は言った。

 そのごついハンマーを軽く一振りし、ドカンと地面に置いた。

「あ、ああ。どこも大丈夫だ」

 伊口は体のどこにも痛みがないのを確認する。目の前で雷が落ちたようなすさまじい電撃を見ることになったが、体はどこも影響がなかった。不思議なものだった。

「それは良かった」

 女は別段良かった感じでもない表情で言った。というか、女は無表情だった。全然感情らしきものが浮かんでいない。怒っているのか喜んでいるのかさえ良く分からない。

「それで、あなたを追ってきたこの人形の話ですが」

「あ、ああ」

 女は目の前で起きた非日常に圧倒されている伊口なんかお構いなしで状況確認を始めた。もはや、流されるままの伊口。

「ここからしばらく行ったところの廃墟でオルゴールが鳴ってて、それを見たら変な男が現れて、それで殺すって言われて、その化け物に追い回されたんだ」

「なるほど、実に簡潔な説明です」

 自分の遭遇した状況を整然と並べて言った伊口に女は簡潔に感想を述べた。

 そして、女は懐から紙を取り出した。

「その男とはこんな人物でしたか?」

 その紙にはイラストが書かれていた。いや、イラストというか落書きだった。なんとなく人間を書いたものだと分かる程度の落書きを女は伊口に見せてきた。

「えっと」

 なにかのジョークかと思った。しかし、女は変わらない無表情だ。そのため、場を和ませようと一芝居うっているのか、それとも大真面目なのかさえ分からなかった。

『ロビン、またそんな落書きを人に見せてるの』

「そんな。今回は改心の出来だったので情報収集に使えるはずです」

『無理だよロビン。君は非常に優秀なエージェントだがその感覚だけは理解不能だよ』

「分かりました、黙ってくださいC。まだ、あなたが出てくるには少し早いです」

 そう言いながら女は落書きの書かれた紙をしまった。どうたらマジだったらしいことを伊口は理解した。

「今のは?」

「今の絵は忘れてください」

「いや、声がしたけど」

 伊口に聞こえた声はインカムとかから聞こえる声とは違った。周囲に人が居ない以上そういったなにかによるものかと思ったが違う気がした。なんというか脳に直接響いてきたのだ。

「彼については追って説明します。それより今はあなたが見た男の話です。どんな人物だったんですか?」

「あ、ああ」

 言われて、落書きの事も声のことも一旦置いておいて伊口は自分が見た男のことを思い出した。

「トレンチコートを着てて、髪はボサボサだった。身なりはかなり荒れてたな」

「顔は? どうでしたか?」

「顔......」

 伊口はあの男の顔を思い出す。思い出そうとした。しかし、あんなにはっきりと目が合ったはずなのに伊口はその顔を思い出すことが出来なかった。

 代わりに伊口はひどい悪寒に襲われた。脂汗が額に浮かび、体が震えるのを感じた。

「分からない、思い出せない。ただ、恐ろしいやつだった。見ただけで、関わったらダメなやつだってことが分かった」

「なるほど」

 女はふむ、と顎に手を当てた。

「どうやら間違いありませんね。その特徴はまさしくやつに当てはまる」

「顔は思い出せないけど」

「思い出せないことそのものがやつであることを意味しています。そして、その一目で相手に恐怖を抱かせる印象も」

「なんなんだあいつは」

 思わず伊口は聞いた。自分が目撃した、異常者としか形容できないあの男の正体を聞いた。

「やつは拝神允敏おがみまさとし。こちらの世界では広く名の知れた重犯罪者です」

「重犯罪者? こちらの世界?」

「それについても追って説明します。しかし、ひとつだけはっきりしたことがある」

 女は腰に手を当てて伊口を見る。

「どうやら、あなたは見てはならないものを見てしまい、そしてやつはあなたを殺すまであなたを追うということです」

「な、なんでだ?」

 伊口にはその唐突な状況が分からなかった。

「なんでだ? ただ、オルゴール見ただけだぞ? なんで、俺が殺されなくちゃならない」

「それは私達には分かりません。ただ、やつに関わり、やつが殺そうとした人間は例外なく殺害されています。それが拝神という男です」

「なんでだ。なんでなんだ。俺はただの一般人だ。ただちょっと休職中の普通の人間なんだぞ! なんで急に命を狙われなくちゃならないんだ!」

 思わず伊口は前のめりになり女に言った。あまりに理不尽過ぎると。女のせいでないことは分かっていても言うしかなかった。女の言葉が恐らく事実だと理解出来たからだ。だってついさっき、実際に殺されかけたのだから。

「落ちついてください。あなたは死にません。我々があなたを守ります」

「なんだって? そもそもあんたはなんなんだ?」

 そもそもの疑問だった。突然襲われた伊口を助けた見も知りもしないこの女は誰なのか。命の危機から自分を救い出した目の前の人間は誰なのか。

 女は答えた。

「私はロビン。雷鎚のロビン。『管理下統括制御機構』のエージェントです」

 穏やかな風がひとつ吹き抜け、ロビンと名乗った女の銀の髪を揺らした。

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