第2話 深夜の来客とうさぎとかめ(1)

「3番テーブル、ブレンドコーヒーとウインナコーヒーお願いします」

「わかった」

「夕良、5番テーブルの片付けお願い」

「はい!」


 全てが不安定で不確かな「さかみち商店街」に迷い込んだ夕良。彼女はそこで暮らしていくため、双子の穂高と睦実と結婚した。

 彼らの妻として「喫茶ほむ」で働き始めたのは一週間前のこと。今は見習いとしてホールの仕事の勉強中だ。

 白いシャツに黒いスラックス、そしてその上に黒のカフェエプロンという制服が格好良くて、浮かれたのもほんの短い間のことだった。

 初めての結婚生活(しかも前代未聞の夫二人との結婚!)も並行しているのだ。慣れないことや考えなければならないことばかりで、正直なところ毎日疲労困憊の状態だった。

「夕良、先にお昼休憩に入りなよ。今はお客が少ないし、僕一人で大丈夫だから」

 トレイを片手に微笑むのは穂高だ。

 双子のうち、温厚で誰とでもうまく話せる方。人当たりが良いので、主にホールで接客を担当している。彼は夕良の様子をうかがい、こまめに休憩を取らせようとしてくれている。

「今日の昼飯はハニーマスタードチキンサンドイッチだぞ」

 キッチンの方から声を掛けてくるのは睦実だ。

 双子のうち、無愛想で少しつっけんどんな方。だがこちらの方が手先が器用なので、主に料理を担当している。既に夕良のためにコーヒーを淹れ始めてくれていた。

 二人の夫がこうして気遣ってくれることで、なんとかやっていけている。だからこそ夕良としてはなるべく早くちゃんとした奥さん、そして「喫茶ほむ」の店員と名乗って恥ずかしくないレベルには到達したかった。

 彼女が焦ってしまう一因は、双子の母の異様な行動の早さにもあった。

 彼らの母、奈美さんは三人が結婚を決めたその日に家を出ていった。これには息子である穂高、睦実も目を白黒させていた。

 彼女は息子達の独立を見越して、数年前に商店街の一角にあるマンションの一室を購入していた。家具や家電も少しずつ買い揃えていたらしい。引っ越しは自家用車で一往復分の私物を運んだだけで完了してしまった。

「机とかベッドとか大きめの家具は置いていくから、好きに使ってちょうだい。気に入らなかったら捨てて良いから」

と言って譲られたのが、夕良の私室だ。

 三人の家は三階建てのビルで、一階が店舗、つまり「喫茶ほむ」。二、三階が住居スペースだ。うち二階はリビングやキッチンなど家族の共用スペースで、三階は三つの個室。

 つまり三人でそれぞれ一室持っている。階段を上ってすぐ目の前が夕良の部屋のドアで、そこから廊下を渡って二つ並んだドアが穂高と睦実の部屋だ。

 広さでいうと、夕良の部屋が一番広い。なぜならそこは奈美さんの部屋である前は、双子の父が出ていくまで夫婦の寝室だったからだ。

 残されていた家具は、化粧台として使われていたらしい机と椅子、箪笥、そして部屋のかなりのスペースを占めるキングサイズのベッド。

(大きい……こんな大きなサイズのベッド初めて見た…………これだけ広ければ三人寝ても余裕……………………)

「って何を考えているんだ、私は」

 思わず声に出して自分で自分にツッコミを入れた。

 夕良は思考回路がショートしかかっている自分に気がついていた。

 なにせ奇妙な商店街で迷子になり、なぜかお見合いを勧められ、何の因果か双子と結婚し、そのまま夫の家に入居し、「後はよろしく」と彼らの母が出ていったのである。

 ここまでが全て一日で起こったのだ。一日で受け止められる容量を超えている。

 まだ馴染みのない部屋で一人になって、あらためて状況の異様さに頭を抱える。

 果たしてこれから大丈夫なのだろうか。うまくやっていけるのだろうか。予想されうる不安も、予想できない不安も夕良の心にどっと押し寄せてくる。

 それでも、と彼女は考えた。

(それでも……私は二人と一緒にやっていこうと決めたんだ)

 そして穂高と睦実もそれを受け容れてくれた。ならば何としてでも頑張らなければならない、と夕良は決意した。


 

 最初の一週間はあっという間だった。

 双子に商店街の基本的なルールについて教わったり、生活に必要なものを購入したりと、生活基盤を整えるだけで時間が飛ぶように過ぎていった。

 商店街での生活がある程度わかってくると、今度は職に就くことになった。「喫茶ほむ」の店員でもあった奈美さんが引っ越しと同時に退職したので、ごく自然に夕良がその穴を埋めることになったのだ。

 双子とも話し合って決めたことだが、彼女としても否やは無かった。むしろ喫茶店で働くということに憧れめいたものもあったから、わくわくしたくらいだ。

 もちろん不安もあった。

 商店街に来るまで夕良は新入社員だった。入社した会社では早々に先輩社員に嫌われて業務について教えてもらえず、なかなか仕事を覚えられなかったのだ。「仕事ができない」というレッテルを貼られたことは今も夕良にとって苦い記憶だ。

 今度も同じことになったらどうしよう。二人に失望されたら、と思うと胸が苦しくなった。

 だが穂高も睦実も気が長い方で、夕良が仕事を一つ一つ覚えるのにじっくり付き合ってくれた。

 穂高は理屈屋の夕良が納得するように、注文の取り方、飲み物の運び方など実演しながら丁寧に説明してくれた。睦実はメニューの一つ一つをつくって味見させてくれ、何をお客にお勧めすると良いか教えてくれた。

 おかげでゆっくりとしたペースだが夕良は確実に前進した。それでも隠居生活の傍ら、たまにヘルプで入ってくれる奈美さんのそつの無い接客を見ると、夕良はもっともっと頑張らないといけないと一人反省するのだった。


「焦ることはないよ。僕らも結婚は初めてだからね」

「別に競争する相手もいないしな。まずは毎日ちゃんと食ってちゃんと寝られたらそれで良いだろ」


 「喫茶ほむ」は二十時閉店だ。店内の清掃を終えると、二階に上がり食卓を囲む。夕食は忙しくても三人揃って取ろうと初めに決めた。

 今日はランチの残りのカレーを利用した、カレーうどんだ。そこに手早く用意したサラダと、お惣菜屋さんで買ってきた唐揚げを並べるとそれなりにテーブルが華やぐ。

 うどんを啜りながら、とりとめのない話をする。

「早けりゃ良いってもんじゃないからね。『うさぎとかめ』ってあるでしょ?」

「ああ、イソップ童話だっけ?」

「うん。うさぎとかめが競争する話。初めは足の速いうさぎが先に行っちゃうんだけど途中で昼寝して、結局ゆっくりながらも進み続けたかめが勝つっていうの」

「その例えはこの場合、合ってるのか?」

「合ってるだろ。夕良も僕らも、かめの方で良いんだよ。一歩ずつ着実に進むんだ。やる気があるときだけ元からある脚力を活かして突っ走るうさぎより、雨の日も風の日も進み続けるかめの方がずっと質が良い」

「そうですね」

「まあ、あんまりのんびり歩いていると全員揃ってあっという間にじいさんばあさんになってそうだけどな」

「良いじゃないか、それならそれで。きっとそういう人生も幸せだよ」



(かめであれば良い。ゆっくりでも着実に進んでいけば良い、か……)

 食後、自室に戻った夕良はパジャマに着替えながら双子の言葉を反芻していた。時刻は二十三時を過ぎた頃。

 窓の向こうは明け方の淡い青だ。これから日が昇るかもしれないし、昇らないかもしれない。あらゆるものが曖昧なさかみち商店街は太陽な動きすら気まぐれだ。

 九十九パーセント遮光のカーテンを隙間なくぴっちり閉める。ここでは安眠のためになくてはならないものだ。

 スイッチを消してベッドに潜り込むと、あっという間に眠気が押し寄せてきた。

 まだ慣れない生活で一日の終わりには疲れ切っており、いくら寝ても寝足りない。眠りの波に身を任せながら、夕良の思考はゆるゆると彷徨い出す。

 うさぎと、かめ。

 誰でも知っているような話だ。足の速いものの油断を戒め、足が遅くとも諦めず進み続けるものの努力を讃える。

 私達はかめであれば良い。その考えには賛成だ。だけど本当にそれで良いのだろうかという気持ちがある。

 第一、かめが勝ったのはうさぎが昼寝したからだ。うさぎも普通に走っていれば、かめは勝ことはできなかったはずだ。それなのにかめの努力ばかりを持ち上げるのはちょっと違うんじゃないだろうか。

 そんなことを考える夕良は眠くても理屈屋だった。そして理屈屋なりにこの話から教訓を得るとすれば、

(勝てるとわからなくとも、走り続けることが大事ってことか……)

というところにたどり着く。

(でも、それって恐くない?)

 走り続けて負けたとき、かめはどういう気持ちで己の来た道を振り返れば良いのだろう。走った距離は、時間は、その苦しみは無駄だったとすれば?

(それでも物語の中のかめは進むことをやめなかったんだよな)

 どうしてそんな勇気のいることができたんだろう。

 初めから勝ち目のない競走だったはずだ。うさぎが途中で昼寝するなんて誰がわかるだろう。どんなに頑張って進んだって報われるかどうかなんてわからないのに、なぜ歩み続けられたのだろう。

 私達はかめであれば良い……それならば私達は、私達の速度で歩き続けて目指す場所にたどり着けるのだろうか。そもそも目指す場所とは何だろう。そしてそこは私達全員にとって良い場所なのだろうか。

 眠りの前に全ての思考はばらばらと崩れて流されていく。答えは出ないまま、夕良は微睡みの中に落ちていった。


 

 意識が落ちる直前までそんなことを考えていたからだろう。その晩、夕良は変な夢を見た。

 うさぎと、なぜか三匹のかめが競走する夢だ。

 うさぎは自分がかめよりずっと足が速いのがわかっているので、ハンデをやろうと言う。「お前達は足が遅いからな。一対三だ。三匹で協力して走っても良いぞ」

 三匹のかめは顔を見合わせた。

 かめは自分達が普通に走ってもうさぎに勝てないことはよくわかっていた。だけど足は遅くとも、重い荷物を運ぶことは得意であることにも気がついていた。

 そこで三匹のかめは三段重ねになって甲羅の上に乗って走ることにした。一匹が疲れたら交替して順繰りに走るというわけだ。全員が一緒になって走るリレーのような具合だ。

 ただし動きの遅いかめは甲羅の上に乗り上がるだけでも時間が掛かる。うさぎが順調に走る一方で、かめはよいせ、こらせと一匹目の上に二匹目が乗り、さらにその上に三匹目が乗るだけでどんどん時間が過ぎていく。

 ようやく三段重ねの体勢をとってさあ走り出した、というそのとき。


 こけこっこー、と。


 場にそぐわぬ鶏の声。

 その大音量に驚いてかめは上から順にころころと転がり崩れ落ちてしまったのだった。

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