闇と愛の間で

葵染 理恵

Bar白鷺

仕事を終えた早河哲也は最寄り駅近くの牛丼屋で夕食をすませて店を出た。

熱帯夜に吹く風は、早河の体温を上げていく。滴る汗も拭かずに小走りで白鷺という小さなBARに向かった。

白鷺は、住宅地に同化していて看板もない為、そこがBARだと知る者は少ない。

そんな秘密基地のようなBARに通いだしたきっかけは、一年前の夏、早河は珍しく残業で帰宅が零時を回った時だった。

大きな桐のすのこで、玄関を覆い隠している家から、赤ら顔をした三十代くらいの美男子が「じゃまた明日」と、手を振って出て来る姿を目撃した。

店内から若い女性の声で「ありがとうございます。気を付けてね」と、聞こえた。

不動産業をしている早河は、前々からこの特徴的な家が気になっていた為、勇気を出して男性に声をかけたところ、白鷺というBARだと教えてもらった。

そして翌日、緊張と期待を胸に膨らませて、白鷺の扉を開いた。すると、店内は古き良き昭和の雰囲気を感じさせながらも古すぎず落ち着いた雰囲気の店だった。

マスターは紳士的で、常連客も新規を毛嫌う事をせず迎え入れてくれた。それ以来、この秘密基地に寄るのが、早河の日課となった。

駅前のネオンの明かりから一転して、住宅の明かりが木漏れ日のように薄暗い道を照らしている。そんな住宅地の一角から、桐のすのこが見えてきた。

すのこの端にオリーブの鉢植えが置いてある。看板のない白鷺が営業を知らせる為に置いた。

汗でベタベタした体で白鷺の扉を開けると、冷たい風が早河の体を突き抜ける。

「おー涼しいー」

「いらっしゃ…うわ、凄い汗!えっ警察に追われてたの?」

田中早苗は、不敵な笑みを浮かべながら、早河の上着を受け取った。

「僕が警察のご厄介になるわけないでしょ」

と、言いながら、吹き出る汗をフェイスタオルで拭いた。

「えー意外と、こういう無害ぽい人が凶悪事件を起こすんだよ!あっ、もしかして連続変死事件の犯人だったりして!」

と、また、からかった。

すると、カウンターで、白ワインを呑んでいた小太りの男性が「もし、こいつが犯人だったら、次のターゲットは早苗ちゃんで決まりだな」と、言って、豪快に笑った。

「野上さんまで、何を言うんですか」

と、早河は、ふて腐れなが、野上の隣に座った。

「お前、ほんとに汗すごいなー」

「急いできたから、汗が止まらないんですよ。野上さんは、涼しそうでいいですね」

四十一歳の野上克次の職業はIT企業で働くエンジニアで、服装に規則がない。そのため、ポロシャツとハーフパンツといったラフな格好をしていた。

そこへ、マスターの村井正孝がオーダーを訊きにきた。

「早河さん、いらっしゃい。今日は何にしますか?」

「こんばんは。今日はスカッとさっぱりしたもので、お願いします」

「かしこまりました」

沢山の種類の酒が置いてある酒棚からジンを取り出すと、流れるような手つきでライム、ジン、炭酸水をタンブラーに注ぎ入れた。

「ジンリッキーになります」

シュワシュワと小さな気泡がグラスの中で弾け散る酒を、早河は水のように飲みほした。

呆気にとられた野上は「おいおい、それジンだぞ。大丈夫か?」と、心配した。

「大丈夫ですよ。実は今日、僕が白鷺に通い始めて丁度一年になるんです。だから早く来たくて、小走りしたから、もう喉がカラカラで」

それを訊いた村井は、嬉しそうに近寄ってきた。

「いつもご愛顧ありがとうございます。良ければ私にもお祝いさせてください。どうぞ好きなものを仰って」

「えっ、いいんですか?」

「なに!こいつだけズルいぞ。マスター、俺にもサービスしてくれよー」

「まーた我が儘な事を言って。野上さんは記念日じゃないでしょ…そういえば野上さんは、白鷺に来るようになってどのくらい経つんですか?」

「俺か?どのくらいだろうな」

と、考えていると、早苗がグラスを下げにきた。

「野上さんって、私が勤め始めた時には、もう居ましたよね。だから三年以上は経ってますよ」

「そんなに経ってるか?」

「野上さんも僕と一緒で、居心地がいいから毎日、来ちゃうんですよね?」

「まあ、それもあるけど、仕事柄、相手がパソコンだから人との関わりを求めてるところもあるな。けど一番のポイントはマスターの人柄の良さだろう。三十六という若さで聞き上手、話上手なうえ、安心感を与えてくれる店は少ないぞ」

「それは同感です。僕は兄弟がいないので、お兄さんが出来たみたいな気持ちになれるのと、やっぱり居心地がいいんですよね」

村井は少し気恥ずかしそうに照れ笑いをみせた。

「野上さん、早河さん有難うございます。そんな素敵な事を言われてしまったら、野上さんにも、サービスしないとですね」

「おっ、やったー」

野上は残っていた白ワインを飲み干して、同じものを頼んだ。

「早河さんは何にしますか?」

「じゃ…お兄ちゃんにお任せします」と、ふざけて言ってみたものの、恥ずかしくなって直ぐに「すみません」と笑って誤魔化した。

「いえいえ、光栄ですよ。では可愛い弟の為に作ってまいります」

村井は軽く会釈をするとベースにする酒を丹念に選び出した。

酒を待っている間、野上のニヤケ顔が近づいてきた。

「なー、マスターが兄貴なら、俺はなんだ?」

「んー、親戚の叔父さんかな」

「はぁ誰が叔父さんだよ。せめて親戚のお兄さんにしろよ」

「いやー、四十一でお兄さんは、ちょっと…」

「何がちょっとだよ。全然お兄さんだろう」

いつもの絡み合いが始まりだしたとき、琥珀色のカクテルが出来上がった。

「お待たせしました。インペリアルフィズでございます」

「インペリアルフィズ?」

「インペリアルフィズはウイスキーベースのお酒です。カクテルにも花言葉のようにカクテル言葉がございまして、インペリアルフィズのカクテル言葉は『楽しい会話』でございます。これからも友人たちと楽しい会話をしながらお酒を楽しめるようにとの思いを込めてみました」

「へーお洒落だな。俺に一口、飲ませてよ」と、野上はインペリアルフィズを奪って勝手に試飲した。先に飲まれた悔しさで早河は無言で睨み付けた。

「はっはは、そんな怖い顔するなよ。友人と楽しく飲む酒なんだろう。なら一口くらい良いじゃん。そう言えば、もう一人の友人は遅いな」

早河は腕時計を見ると、時刻は二十一時を過ぎていた。

「確かに原田さん遅いですね。今日は来ないのかな…」と、話をしていると白鷺の扉が開いた。二人は同時に振り返ると入店してきた原田彰の姿を見て驚いた。

「凄いな」

「凄いですね」

早河たちより驚いたのは原田だった。

「なんだよ…」

面喰らいながらも早河の隣に座った。

原田は高身長で顔立ちも整っているため、モデルと勘違いされる事が多いが、三十歳でメンズファッションブランドAKIRAのオーナーをしている。

原田は「いつもの」と、注文すると、早河たちに向かって怪訝な顔をみせた。

「人の顔を見るなりなんなんだよ」

「すみません。ちょうど原田さんの話をしていたら本人が来たので、ビックリしちゃったんですよ。ねえ野上さん」

「あぁ、こんなドラマみたいな事が起こるんだなーと思ったよ」

「俺の話?どうせあれだろう。原田さんは、なんであんなに格好いいのかな?とか言ってたんだろう」

と、二人に向ってウィンクをした。

「おい、それ、俺たちにするのやめろよ。気持ち悪りから。それにそんな話は一切していないからな。今日は来るのが遅いなって言っていただけだよ」

「ふーん、そんなことか」

と、言って、テキーラベースのマタドールを口へ傾けた。そこへ、バックヤードで作業をしていた早苗が戻ってきた。

「原田さん、いらっしゃい」

「あれ?今日は随分と大人ぽいじゃん。パーマをかけたのか。とても似合っているよ」

と、早苗の柔らかい髪に触れた。

「嬉しいー!気付いてくれたの原田さんだけですよ。マスターも他二人も全然気づかないんですよ」

「それは可哀想に。ここの男たちの目は節穴だな」

「えっなに、他二人って俺たちのこと?」

と、野上は、早河と自分を指差した。

早苗は唇を尖らせて頷く。

「俺たち客なのに、雑な扱いされてる方が可哀想だよな」

と、言って、大きな体で早河の肩にすがった。

「ちょっと、放してくださいよ」

早河は両手で重い体を押し返した。

「あははは、これがあるから俺は野上さんの隣に座らない事にしている」

「なんだよ、お前まで酷いことを言うのかよ。なあ早河、俺たち独身同士、支え合っていこうな」

「はいはい、分かりました。頑張りましょうねー」

面倒くさがっている早河の隣で、ぼそっと

「俺も独身だけどね…」と、原田が呟いた。

野上は言いたい事だけ言うと、ゆっくり体を倒して、カウンターを枕に眠りについた。

「あーあ、寝ちゃったよ。村井さん、今日は野上さん、何杯飲んだの?」

と、原田が訊くと、村井は伝票を確認することなく答えた。

「五杯ですね。お祝いで、いつもより一杯多く飲んでいるので、眠くなってしまったんですね」

「お祝い?何かあったの?」

「僕が白鷺に通い始めて今日で一年なんですよ。あの時、赤ら顔の原田さんに教えてもらわなかったら今も白鷺を知らずに通り過ぎていましたよ」

「ん?そんな事があったっけ?」

「忘れたんですか」

「うん、覚えてない」と、興味なさげに酒を飲み干した。

村井は原田のグラスを下げると注文も受けずに新しいカクテルを作り始めた。

テキーラ好きの原田は、一杯目をパインとライムジュースで割った甘めの酒を飲み二杯目からミントの清涼感の強いメキシカンモヒートを好んで飲んでいた。

ミントが浮いたメキシカンモヒートが原田の目の前に置かれると、何も言わず出された酒を飲む原田の姿を見て、ふっと早河は思った。

「原田さんは白鷺に通い始めて何年になるんです?」

「俺はオープンから来ているから八年だよ」

「八年!野上さんより凄いや。八年間ほぼ毎日来てれば常連の域を通り越して家族みたいな感じになりません?」

「家族ね……それは分からないけど、ここの常連の中で村井さんの奥さんと話した事があるのは俺だけじゃないかな」

原田の話を聞いて早苗は雷に打たれたような衝撃をうけた。

「マスター結婚していたんですか!」

「昔の話だよ。今頃、妻は大好きな花に囲まれて天国で幸せにしていると思うよ」

「えっっ天国って!」

早苗は、村井に詰め寄る。

「七年前に事故で…早苗ちゃん近いよ」

「あぁ…ごめんなさい」

「ほら、お客様が呼んでるよ」

早苗は名残惜しそうに、渋々と接客に向かった。

「分かりやすいねー」

早苗の行動に原田は含み笑いをした。

会計を済ませた早苗は急いでテーブルの片付けをして戻ってきた。

「……それでBARの名前が白鷺になったそうだよ」

「そうだったんですか。愛があるなー」

「愛がなんです?BARの名前がどうしたんですか?」と、早苗は、強引に会話に加わった。

「もうすぐ閉店でしょ。村井さんは閉め作業してるよ。早苗ちゃんもお仕事しなきゃ」

と、原田は早苗をあしらうが、鈍感な早河が引き止める。

「今ね、原田さんから白鷺の由来を教えてもらったんだけど、早苗ちゃんはここの従業員なんだし、僕が教えてあげるよ。白鷺の由来はマスターの誕生日の花から来てるそうだよ。花が好きな奥様はマスターの誕生日花『サギソウ』って名前を店名にしたかったけど、マスターは「詐欺しそうに似てるから嫌だよ」と断ったんだって。けど、ひっそりと落ち着けるBARを出すのが二人の夢だから、二人に関わる店名を付けたくって考え続けたそうだよ。で、決まった店名が白鷺。サギソウの花は白鷺に似てるからそう呼ばれているんだって。なんか愛を感じるよね」

「そんな由来があったんだ……教えてくれて、ありがとうございます」

早苗は肩を落として仕事に戻っていった。

寂しそうな早苗の後ろ姿に見兼ねた原田は、早河の柔らかい頬をつねった。

「女心が分からないと、いつまでたっても彼女が出来ないぞ。それじゃ、おやすみ」

と、言って指をピンと離した。

「痛いな…なんだよ急に…」

困惑した顔で、つねられた頬を撫でる。

「村井さんご馳走さま」

原田が立ち上がると村井は作業の手を止めた。

「ありがとうございます。また明日お待ちしております」

原田は手を振って答えると、レジカウンターで片付けをしていた早苗に一万円を渡した。

「お釣りで何か美味しいものでも食べなよ。じゃまた明日」

「あ…ありがとうございます」

去っていく原田に向かって、早苗は弱々しくお辞儀をした。

「もお、野上さん起きてくださいよ」

早河は野上の体を揺するが、起きる気配がない。

「早河さん大丈夫ですよ。私が帰りに送っていきます」

「野上さんの家、知っているんですか?」

「二年前にも寝てしまわれて、御自宅まで送って行った事があります」

「始めてじゃないんだ……あっ、笑ってる。どんな夢見てるんだろう」

気持ち良く寝ている野上の寝顔が可愛く見えた。

上着と二人分の伝票を持った早苗が、早河に伝票を渡そうとすると村井が遮って伝票を預かった。

「早苗ちゃん今日はお会計いいよ」

「え?」

「この店を大切に思ってくださるお客様のお祝いが一杯のお酒で終わるわけないですよ。感謝を込めて本日は全てサービスさせて頂きます」

「えっ!それは申し訳ないです」

「いえ、初来店の日を忘れずにいてくださるなんて私も嬉しいです」

「マスター、野上さんの料金も全てサービスにするんですか?」

と、早苗は、熟睡中の野上の顔を覗き込んだ。

「いいえ、野上さんは送迎料金もプラスして後日、請求しましょう」

と、言って、悪戯っ子のような目つきで笑った。

「野上さーん、起きないと送迎料金が発生しちゃいますよー」

早河は野上の耳元で声をかけてみたが、短い唸り声を上げただけで起きる気配がない。

なので、一人で身支度をすませると「今日はありがとうございました」と、村井に深々とお礼をした。

「また明日、お待ちしております。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

すっかり仕事の疲れが取れた早河は白鷺を後にした。

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