第25話 繋がりたい


 獅子王はホールの裏口から、建物の裏手——、けやきの木が生い茂っている一角に来ると、七音をそっと地面に下ろした。

「驚かせて、すまなかった」

 けやきの木を背にしている獅子王を見上げると、彼は苦笑いをした。

「あれは儀式なんだ」

「儀式?」

「あいつ。ああ見えて繊細でな。ステージに立つ前は、必ず北部にメンテナンスしてもらわないと歌えないんだ」

(歌川先輩が?) 

 いつも冷静沈着。感情の起伏が読み取れない歌川。それがステージに立つのが怖いとでも言うのだろうか。七音は目を瞬かせて獅子王を見返す。すると、彼は弱った顔をした後、そっと静かな声で言った。

「一年生の頃。あいつは自分の意志で合唱部に入った。誰も寄せつけない雰囲気に、女王争奪戦もなにもあったもんじゃなかった。先輩たちは、誰一人として、あいつの声をかけられなかったんだ」

(一年生の時から、そうだったんだ)

「歌も抜群に上手くてな。最初から合唱部希望だった。合唱部はお祭り騒ぎだった。女王が自らやってきたのだ。今年は幸先がいいってね。けど。あいつ。あんな態度だろう? 快く思わなかった同級生もいたんだよ」

 獅子王は顔色を暗くした。七音も釣られて息を飲んだ。

「なにが七の女王だ、お高く留まりやがってって。矢吹がお前に対して抱いていた嫉妬心。歌川の時はもっとひどかった。奴らは周囲を巻き込んで、最終的には歌川を傷つけた——」

 獅子王は悔しそうに唇を噛んだ。

「あの頃。あいつは誰も信用していなかったから。おれたちにもっと気持ちを預けてくれていれば、あんな事件は起きなかったのかも知れない。なのに。一人で抱え込んで……」

 ただの偶然。たまたまその席に座ることになっただけの話。それのなのに。七の女王になった生徒たちは、その神の悪戯に翻弄されてしまうのかも知れない。

 ——七の女王は周囲を幸せにする代わりに、自分が不幸になる。

 七音は言葉を失っていた。歌川の身に起きたことを想像すると、胸が痛む。

 確かに彼は美しい。氷の女王と呼ばれるくらい、周囲に畏敬の念を与える男だ。しかし。それを穢した者たちがいた。ということだ。

「相手は処分された。けど。あいつは傷つき、心を閉ざしてしまった。人前で歌えなくなった。おれたちも必死に奴を救おうと努力した。けれど、最終的にあいつを救ったのは北部だった」

「せ、先生……、が?」

「そうだ。北部は時間をかけて、歌川の心を癒した。今のあいつが歌えるのは北部がいるからだ。北部は、ああ見えて未婚なんだ。歌川との関係は本気なんだと思う。ものすごい年齢差なのにな。あの二人の間には確固たる絆がある」

「——北部先生は。歌川先輩の……?」

「そうだ。恋人だ」

(そっか。そうなんだ。だから先生は、先輩のことを「歌」って呼ぶんだ)

 まだまだ世間知らずの七音には、とても刺激的な画だった。けれど。嫌な気持ちにはならなかった。

「先先代の女王は幸せになりました」

 テストの時。北部は確かにそう言った。あれは歌川のこと。

 先ほどは一瞬だったけれど、北部のその灰色がかった瞳が、歌川を優しく見つめているのを見た。歌川も、それに応えるように、艶やかな笑みを見せていた。

 二人の間には確かに、愛がある——。あれが恋。恋するということ。

「歌川の傷は完全には癒えていないし、さすがに教師と生徒だからな。どうやら、プラトニックな関係らしいけど。このことを知っているのは、おれと有馬、それから保志くらいなものだ。だから、そっとしておいてやってくれないか?」

 七音は「すみません」と頭を下げた。そういうつもりはなかったのだ。ただ。偶然に見かけて。そして、つい。その美しい姿に引き寄せられてしまっただけなのだ。

「七音」

 囁くように聞こえる自分の名に、思わず顔を上げると、その唇に獅子王の唇が重なった。今までの口づけとは違う。それは深いものだった。

 開かれた唇から差し込まれる舌が、七音の中を這う。生まれてこの方、味わったことのないものに、眩暈がした。

「は——っ」

 息がうまく吐けない。必死に酸素を求めると、鼻の先から抜けるような、甘い声が洩れ出た。七音は、自分の声に驚いて目を見開く。すると、獅子王の顔が間近に見えた。

(僕の体、どうしちゃったんだろう……)

 先ほど目にした光景が官能的だったからだろうか。七音の体の奥も、まるで火がついたように熱い。獅子王の熱と自分の熱が重なって、溶けてしまいそうだ。

 混乱しているというのに、体は獅子王を求める。七音は瞼を閉じると、獅子王の肩に腕を回した。すると彼は更に深く深くと七音の中に入り込んだ。口角から滴り落ちる唾液にも構わずに、角度を変え、貪るように互いを求め合う。

(先輩と。……もっと。こうしていたい。僕は、先輩と——。繋がりたい……)

 そう思った瞬間。唇が離れていった。その唇を追って背を伸ばすと、七音の頬に獅子王の大きな手が触れた。

「時間だ。続きは後で、だな」

 獅子王を求めている自分を見透かされたようで、七音は耳まで熱くなった。

「おれは。お前を傷つけたくはない。けれど。お前が望んでくれるなら……。お前と繋がりたい。一つになりたいと思っている」

 獅子王の瞳は、七音を欲している目だった。熱が籠ったような。それは、いつもの獅子王の瞳の色とは違うもの。

「一つに……?」

「そうだ。このメイド服。お前にすごく似合っている」

「それは……」

 目の前がチカチカと火花が散っているようだ。

「おれは。お前を必ず守り切る。歌川のような思いはさせない。おれはお前を守る」

 獅子王の目は、まっすぐに七音を見ていた。七音は彼の思いを知った。比佐に問われた答えが、わかった気がした。

(先輩への『好き』は。本当の好き。僕は先輩が好き。僕も、先輩と。繋がりたい……)

 これは比佐への思いとは違うもの。憧れ。感謝。そんな気持ちとはまた違う「好き」。獅子王となら、体を重ねてもいいと思った。

 眩しい獅子王の笑顔に、七音の心はキュンと締めつけられる。

(嬉しいだけじゃない。心がキュンと苦しくなる。けれど、嫌じゃない)

 獅子王は「さあ、まずはステージを成功させよう。七音と初めてのステージ。楽しみだ」とにかっと笑みを見せた。その瞳は、いつもの獅子王のものだった。


 歌川はステージ開演数分前に姿を現した。その横顔はいつもの彼だった。冷静で眉一つ動かさない。波紋一つない湖面に浮かぶ水鳥のようだ。向日葵色のドレスはウエストで絞られて、それとお揃いの花冠の下には、鳶色のクルクル巻き毛の髪が垂れていた。

「美しすぎる」と感嘆の声を上げる部員たちを他所に、七音はじっと彼を見つめた。

(あんなに綺麗なら。先生だってメロメロになる。それに引き換え……)

 七音は自分の恰好を眺め回してからため息を吐いた。すると、隣にいた優が七音の肩を叩いた。

「気持ちはわかる。比べるほうが間違っているよな」

 優は「なにも言うな」と言わんばかりに、静かに首を横に振っていた。

 なんだかがっかりしてそこに立っていると、ふと歌川が七音を見ていた。慌てて頭を下げる。すると、彼は「可愛いな。お前は」と笑った。

「か、可愛く、な、ないです。せ、先輩……き、綺麗です」

「そうか。嬉しくない言葉だな」

「す、すみ、ません。で、でも。本当のことで……」

 どうしても北部とのシーンが頭から離れない。真っ直ぐに彼を見ることができないのだ。しかし。歌川は笑った。

「いくらたくさんの人にそう思われたとしても。たった一人の大事な人にそう思ってもらえなければ意味がない。だから、大事な人以外からの賞賛の言葉、おれはいらない」

(大事な人……。北部先生)

 歌川のほっそりとした腕が伸びてきたかと思うと、七音の頭を撫でた。

「そばにいてあげて。獅子王はああ見えて、気持ちが揺らぐ弱いところがある。虚勢を張っている部分もある。あいつのことだけを見て。七音」

(獅子王先輩が?)

 七音にはそうは見えない。けれど。ずっと一緒にいる歌川が、そう言うのであれば、そうなのかもしれない。七音は「はい」と答えた。

「な、なにができるのか。わかりません。け、けれど。僕——。獅子王先輩と、い、一緒にいたいです」

 すると、歌川は満足したように笑みを見せた。それから彼は有馬たちのところに歩いて行った。

 ステージは大成功を収めた。燕役の有馬が、親指姫役の歌川を抱えて逃げ去るシーンでは、観客から黄色い声が多数上がった。よくよく見てみると、七音の母親と姉の奏も、大興奮で悲鳴を上げているようだった。

(未知なる扉を開いてしまったようだ……)

 七音はステージに立つ恥ずかしさよりも、家族の醜態に恥ずかしさを覚えた。




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