第3話 ∞不老長寿と焼き餅

 四ツ木ハナはいつものようにガラリと潮風食堂の引き戸を開けた。


「ごめんよ」

 午後の最後の客が会計を済ませた比較的ゆとりのある時間だった。モンペに絣の上着、頭にはほっかぶり、千葉の外房から海の幸である干物を売りに東京まで出てくる。週に二回、楽しみな時間だ。自分の商品を置いてもらうお土産物売店に自ら届けるのだ。その場で店の担当者に選んでもらい、その場で買ってもらう。それを二、三軒続けると、持ってきた海の幸はなくなる。手にした売り上げをほんの少しお小遣いにして、『潮風食堂』で遅いお昼ご飯を食べて帰るのがいつものことだ。


 空になった背負子しょいこを下ろして、いつもの席に腰を下ろす。ハナは入口に一番近い小上がり席、入口を背にした通路側を気に入っている。靴を脱がずに畳み気分を味わえるからだ。


 店主の一色は、

「ハナさん、今日は残りある?」と訊ねる。


「今日はおかげさんで、ほとんど無いんだよ。残っているのは、この軽めの自家製海苔一枚だけ」

 ハナは背負子にぽつんと残ったビニル袋に詰められた海苔をつまみ上げる。


「それウチで買うわ。いいかな?」

「そりゃいいよ。売るために持ってきてるんだから」としわくちゃな顔を嬉しそうにほころばせて頷くハナさん。

 妻の零香がハナにお冷やを持って行くと、そこに代金を置いた。

「ハナさん、何か良いことあった?」

 零香の質問に、

「若え時好きだった男の人と会ったよ。品の良い奥さんと野鳥公園を散歩していてね。私の許可証、公園のビジタープレートって、身分証見て、分かったみたいで、驚いていた」と言う。


 そして、

「この歳になって惚れた腫れたは無いけど、無事に幸せに知り合いが生きていてくれる、ってこの上なく嬉しいねえ。もし若返ったら、またロマンスにでもなったかねえ」と冗談めかして笑う。

「そうね」

 横に座って話を聞く零香。ほおづえで頷く。


 一色は厨房の奥から、

「いつもので良いのかな?」と注文を確かめる。

 ハナは気付いたように、

「そうだった。まだ注文してなかったね。うん、いいよ」と手を挙げて返事した。

 やがて話し込む零香とハナの前に、一色は珍しく自分で食膳を持って現れた。

「あら、ごめんなさい。話に夢中になって」と零香。自分の仕事を忘れたバツの悪い顔だ

「いや大丈夫。ハナさんのは持ってきてあげたいから」

 そこにはゴボウとにんじんの入ったマイタケのキノコ飯と、天然ナメコの味噌汁が載っていた。

「あれ、先代のとーちゃんのと全く同じだね。腕を上げたね、いっくん」とまた笑みをこぼす。

 そこに一つだけ見慣れぬ飲み物が載っていた。ハナはそっと小さなグラスに鼻を近づける。

「こりゃ桃の果実搾りだ」と頷く。

「これね。ネクテルっていうんだ。移動販売のクレープ屋さんをやっている女性がね、持ってきてくれたの。お店でおすそ分けしてるんだ」

「はあ、ネクテル?」

「そう。なんでもギリシア神話の神々がいつも飲んでた不老長寿の飲み物なんだって。ネクターの語源なんだってさ」

「へえ、そりゃおいしそうだ。ひとついただいてみるべ」

 ハナは嬉しそうにゴクリと一気にいった。


 里山の夜は早い。入り組んだ山の連なる谷間と入江の集落は六時前に、日の光は遮られる。ハナは入浴を済ませ、仏壇の夫に手を合わせてから、今日の売上金を神棚に載せた。そして柏手を打つと、早々はやばやと消灯して、布団に横になった。

「明日は千葉のお土産屋さんだ。早く寝んべ」

 彼女はそのまま寝落ちした。


 翌朝朝五時に起きると、ハナは今日の自分がとても動きの良いことが分かる。

「なんだろね。今日は体が軽いや」

 そう言って、ジャージーでてきぱきと庭先の吊しざるで干していたアジやイワシを手際よく袋づめしている。それを背負子に底の方から順に綺麗に置いていく。

 今日もって行く分が出そろったら、ハナは紅をさすために姿見に自分を映した。

「あれ?」

 そこには二十代の頃の自分に似た姿が映っている。

 首を傾げながら、左手を振る。当然鏡の左手も動く。今度は右手でトンボを捕まえるように、くるくると輪を描く。やはり鏡の向こうの女性もくるくると輪を描く。

「若返ったんか?」

 信じられず、ピョンと飛び跳ねる。もちろん鏡の女性も飛んだ。

「飛び跳ねるなんて、何十年ぶりだろうね」と滑稽に思うハナ。


 背負子を背負ったハナはいつもの駅に向かう。猫背も治っている。

「ねえ、ねえ。見慣れない顔だね。家のお手伝い? 偉いね」と車から声をかけてくる男。サングラスに黒の革ジャンでオープンカーを転がしている。

 対向車も来ない田舎道なので、彼女の歩く速度に合わせて横に並んでいる。

「危ないから、早くいきな」とハナ。

「乗せていってあげるから」と男。

「いらない。自分でこうして毎日歩いている」

 問答の末、駅までやって来たハナは、ローカル線の木造駅舎の無人駅から列車に乗った。

「今の若者は大変だな」

 列車の中でポツリと呟くハナ。


 千葉市内の海岸沿いにあるお土産物屋につくと、いつものように通用口のベルを鳴らす。担当の舞浜が顔を出す。三十代の女性だ。ハナを見て不思議そうだ。

「四ツ木です」と名乗ると、舞浜は、

「ああ、おばあちゃんの代わりだ。お孫さん?」と笑う。

 ハナはどうして良いのか困っていると、

「とりあえず品物を見せて」と言われ、言われるままに背負子を下ろす。

「ああ、良い一夜干しが十枚入っているね。これもらうね。後はねえ……」

 そう言って、ひとしきり選び終わると、舞浜は、一夜干しと干物類を手にして、伝票を作りに行った。

 暫くすると、舞浜は伝票と現金を持って、ハナの元に戻ってきた。

「はいこれ。代金の八千円と、それからおばあちゃんの代わりをしてくれた孝行者には、これをどうぞ。これでお昼でも食べなさい」とチェーンの喫茶店の商品券千円分を渡す。

訳も分からずハナはそれを受け取ると「ありがとうございます」と頭を下げた。

「なにもその格好、身なりまで四ツ木のおばあちゃんの真似しなくても良かったのにねえ」

 クスリと笑う舞浜は目の前の彼女がハナ本人とは夢にも思ってない様だった。


 家に戻ったハナは、いつものように仏壇の前に座る。夫の位牌を拝み、線香を立てる。

「じいさん、焼き餅焼いたな。もう勘弁してくれ。いっぱい拝んでやるから。あの一色に売った最後の一枚は焼き餅に付ける海苔だったか? もう若返りとかロマンスとか言わないから。年取ったら、それ相応の暮らしが楽だな」と苦笑いする。

 そして「不老長寿なんて、あたしみたいな凡人は必要ない。年寄りは年寄りの生活の方が楽だ。体はもっと動く方が良いけどね」と加えた。

 勿論、願いどおり、翌朝にはハナの体は元に戻っていた。果たしてその原因は、おじいさんなのか、ネクテルなのか、藪の中だが、若返りの願いは僅か一日で、あっけなく終わるのだった。

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