思い出の『潮風食堂』-不思議な味どころ-

南瀬匡躬

第1話 ∞具《つま》の大根 



 三回忌も済んで、ようやく自分が空腹であることに気付いた二餅太郎ふたもちたろう。気の抜けた彼は、若い頃と同じ身寄りの無い天涯孤独の生活へと戻ってしまった。たった一人の家族、妻の多恵は笑顔の絶えない優しい人だった。肉親など誰も来ない小さな法事だったが、彼は満足だった。陰口も、遺言も、わだかまりも、争いもない法事は、まるで彼女の生前の行いを映しているような清潔さがある。

「あなたの妻で幸せでしたよ」

 透けるような白い指が、彼の手を弱々しく、精一杯の力で握る。彼女が意識のある時に残した彼への言葉が、脳裏で繰り返される。それだけで彼には十分な思い出だ。


 部屋の窓に目をやって、午後の日差しが差し込んでいることから時間が気になる。そして彼は自分が空腹であることにも気付いた。時計を見れば、午後三時、中途半端な時間だ。普通ならあと数時間待って、夕食頃に食事に出かけるのだが、この日はそこまで待つことが出来なかった。丸二日、なにも口にしていなかったためだ。彼は妻の金婚式のプレゼントだったジャケットを羽織ると、誰もいない小さな一軒家に鍵を下ろして、住宅地を歩き始めた。見慣れた町並みも、近所の野良猫も、何もかもがいつものままだ。ただ横に妻の多恵がいないことを除いては……。


 彼は無意識に妻と通った近所の食堂の暖簾を潜っていた。葛西公園の駅前にある食堂、『潮風食堂』は近所では評判のリーズナブルな飲食店だ。近所の人たちは皆、店主の青砥一色あおといしきの料理と妻の零香れいかの笑顔を求めてやって来る。三十歳過ぎの夫婦の切りもりする店だ。先代から暖簾を引き継いだ三代目である。それ以前は『葛西屋』という旅籠を営んでいたと聞く。


 見た目はどこにでもある普通の食堂だ。特徴はこざっぱりして貼り紙一つ無い店内。小上がりにある時計がらの座布団と衝立、店奥にある神棚。食器と調理道具を除けば、客の目に触れる場所には、物がほとんどない。

 店主は藍染めの前掛けと大漁旗のデザインされたTシャツ、黒のゴム長で厨房に立つ。厨房と客席のあいだの暖簾の前には、盆を抱えた妻の姿がある。


「いらっしゃい!」

 一色の声が響くと、愛想の良い零香がお冷やをコップについで用意をする。

「あら、二餅さん、こんにちは」

 二餅は軽く手を挙げると、にこやかに笑みをこぼす。

「そろそろ来てくれると思っていましたよ」

 フライパンを片手に一色が世間話を始める。

「うん。ようやく落ち着いたんでね」

「そっか、そっか」

 一色は、優しげに頷く。自分からは余計なことは口にしない。

「そうしたら、なにも食べていないことに気付いてね。ここで食べさせてもらおうと思って」

 二餅は仕方ない、というやるせない顔で言う。

「食べるの忘れちゃ、いけませんよ」

 零香は突き出しの黄金数の子をまぶしたイカそうめんの小皿を彼の座ったカウンターの前に置いた。しゃきしゃき感のある刺身のつまが添えられた皿だ。

「うん。大丈夫。気持ちはしっかりしているから」

「良かった」

 そう言って零香は定位置に下がる。

 厨房越しに、

「何にします?」と一色。

「メニューにはないものを、もらおうかな? 千円程度でおなかが満たされる和食系の良い物を……。あ、そうだ。妻が好きだった大根も添えてもらおう。出来る?」と変わった注文をする。

「ちょうど良い、下ごしらえした黄金色の大根がありますよ。汁気にあふれた柔らかい煮崩れ寸前のやつ」と一色。

「じゃあ、それで」

 ゆっくりと頷いてから、

「かしこまりました」と一色は冷蔵庫の扉に手をかける。ピカピカに拭き掃除がなされた冷蔵庫だ。そこからおでん種の練り物揚げを数種取り出した。

「黄金色の大根と刺身のつま、なんか縁起良いねえ」

 少しだけ元気を取り戻した二餅に、一色は頷きながら、温かな気持ちを抱いていた。


「零香さん、出来るまでに一本付けてくれる?」と二餅。

「はい、燗して良いですか?」

「お願いします」

 その言葉で零香も熱燗の準備を始めた。


 味の染み渡る大根の入ったおでんと美酒の熱燗は、二餅の心を少しだけ穏やかにしてくれた。おかげでその夜は、驚くほど寝付きもよく、快眠となった。


「あなた、起きて下さい」

 眠りも深くなり始めた頃に、二餅は起こされる。

「なんだよ、こんな時間に」と眼鏡をかける彼。時はまだ午前一時を過ぎた頃だ。

 驚いたことに寝間着浴衣の多恵が横に正座している。右肩に長い髪を束ねて微笑んでいる。

「多恵!」

 多恵は何も言わずに頷く。

「どうして? なんでそんなに若いんだ」

 見れば妻の姿は、三十歳前半ぐらいの風貌だ。

「それはあなたの心に焼き付いた私の姿をあなたが投影しているだけですよ。今の私は魂だけしかない実体です」

「どういうこと?」

「わたし、お願いして、あなたに伝え忘れていたことを言いにきたんです」

「伝え忘れ? 言いに?」

「本棚の上の私の編み物セットのかごの中に印鑑と通帳があります。今後の生活の足しにして下さい。私の保険金だけじゃ、大して出なかったし、あなたももうお給料の良い場所に行けない年齢でしょう」

 彼女はそう言って笑う。

「ちょっと待って? なにそれ」

「へそくりです」

 悪戯っぽく笑う多恵。若いときのままだ。そして、

「あなたと老後に日本全国温泉巡りの旅に出ようと、貯めてました」と白状した。

「おかずを一品減らしてごめんなさい」

 三つ指姿の妻は可愛い仕草で謝る。

「そっか。そんなこと……」

「……って、あなたなら許してくれると思っていました。とにかく時間がありません。伝えるべき事は伝えました。あなた名義の通帳です。若いときに勤めていた会社時代のお給料の振込先だった通帳をそのまま使っているので、自分で引き出しに行っても大丈夫です。ではこれで。本当にありがとう。また生まれ変わったら、あなたのお嫁さんにしてくれますか?」


 目頭が熱くなる言葉に二餅は「もちろんじゃないか!」と涙ぐむ。そして二餅は眠気とともに気が遠くなるのを覚えた。

 雀の鳴き声で二餅は我に返る。窓からは柔らかい晩秋の日差し。

 はっとして、彼は飛び起きると、多恵の部屋の本棚に向かう。編み物や裁縫の本や型紙が挟まってる本棚。その上に載った編み物セットのバスケットに手をやる。

 中には確かに若いときに彼が使っていた会社員時代の通帳が入っていた。そして頁をめくると、摘要欄に毎月一万円前後のお金がこの口座に貯金されたあとが窺える。多い月は三万円、少ない月は五千円程度、生活とやりくりを物語る形跡が垣間見える。まるで彼女の残したメッセージが数字として、何かを伝えているようだった。

『内助の功』なんて安っぽい話ではない、夫婦のささやかな夢の跡であるその通帳の文字は、彼の目には金色こんじきの宝石よりも光り輝いて見えた。ほろりと伝う頬の涙。お金と思い出のどちらの重みが重要かは一目瞭然の涙である。

「多恵」

 二餅は編棒を抱きしめるように、その場に項垂れた。

 

                           了





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