第9話

「おいどうしたんだ栃木、冬子?!」

「お、なかが……痛いよォ、ガハッ」

「何、これ……?!」


 ショッピングモールの一角。一二時を回って盛況を極めるはずだったフードコートは、阿鼻叫喚の地獄絵図と成り果てていた。

 料理を鉄分に満ちた朱が塗り潰し、清掃員が開店前から手塩をかけて磨いた床には粘性の高い液体が乱舞する。鼻がひん曲がる程に濃密な香りは戦場か、もしくは旧時代の処形場を否応なく人々に連想させた。

 その場に蹲り、新たな赤を排出しているのはいずれも若い女性や子供。困惑している男性や老人達も、常識の埒外にある異常事態に右往左往する他にない。


はな、華ッ?!」

「な、なに、これ……!」


 唯一状況に朧気ながら理解が及ぶ幸子さちこにしても、眼前で血反吐を撒き散らす鷹見を前にしては思わず何度も呼びかけてしまう。

 彼女に周囲からの呼びかけに応じる気力はなく、最早体内の血が尽きるまで血反吐を撒き散らすばかり。何度か繰り返す痙攣は、周囲の地獄と比してさえも影響が強い証か。

 意識を手放したくなる程の激痛が身体の内より湧き上がり、しかして意識を手放そうとしても内側から覚醒を強要される。五臓六腑を捩り倒される慮外の痛苦が正常な判断力を低下させ、人一人の人格を単なる苦痛の出力機構へと改造する。

 見るも無惨な様相の鷹見たかみを前に幸子は目蓋を硬く閉じ、そして決意を秘めて開く。

 開かれる勢いで飛び散った数滴の水飛沫は、動く少女に弾かれて消えた。


「ちょっとバッグの中を……!」


 痛苦に喘ぐ鷹見が手放し、床に転がっている血反吐に塗れたバッグを拾い上げて中身を物色。

 開いた直後に叩きつけられる悪意の奔流から顔を逸らし、幸子は手を突っ込んだ。誰のものかの判別もつかない程、濃淡が描かれた朱の中に危惧していたものは発見できた。


「やっぱり、コトリバコ……!」


 それも御札が残らず剥がれ、剥き出しの木目を晒す立方体として。御札は封印ではなく熟成を司っていたのではないかと疑問に思う程、内部に満ち足りて開放の時を待ち望んだ魔力を淀んだ呪いへと昇華させていた。

 瞬時に握力を強めて握り潰さんとする幸子。

 しかし、呪いを力づくで破壊すればどうなるか分かったものではない。

 逡巡の隙を突き、コトリバコはパズル状の隙間から赤黒い血を垂らして少女の腕を濡らす。


「……?」


 意図、そして対策が分からず幸子は小首を傾げる。

 楯無たてなしへ連絡を取ろうにも、呪いが解き放たれた空間は電波をも遮断するのか。携帯は沈黙して漆黒の液晶を表示するばかり。

 まさか現場を放置して鷹見邸へ走り出す訳にもいかず、ただ呆然とする他にない。


『何故、呪われぬ』


 低く、重く。

 常人が耳にしようものなら全身に怖気が走る、悍ましい声音が耳元で囁く。

 咄嗟に幸子は声の方角へ振り返るものの、そこに広がっているのは血反吐を巻き散らかす屍鬼累々たる有様ばかり。意味の伴った声を出す余力のある者は、少なくとも少女の付近に居はしない。

 ならば声の主は一体どこに。

 湧いて当然の疑問への解を求め、幸子は視線を左右に振る。

 その時、右手を俄かに締め付けられる感触が走った。

 大した苦痛ではない。精々が紐で血管が多少圧迫される程度。呪いによって苦しむ人々は言うに及ばず、彼女らをただ見守るしかできない無力な旦那や老夫婦とは比較にもならない。

 再度紡がれる弁は、手を一層強く締め付ける感触と連動して。


『何故、呪われぬ。何故、呪われぬ。

 呪いが足りぬか、呪詛が足りぬか。あぁ、それとも贄が足りぬか』

「何を、言ってるの……?」


 呆然と幸子が呟いた刹那、不意にかかった力によって右手が弾けてコトリバコが宙を舞う。

 箱そのものが意思を持ったとしか思えない事態、そして追随する薄布が破れる音。

 箱の隙間から漏出していた赤黒い血諸共に手元から離れた合図であり、強引に引き剥がされたことで幸子の腕も皮膚が剥がれて白磁の奥に潜む筋線維が大気に晒されていた。

 更には。


「あッ、シャツの端がッ!」


 僅かに舞う血痕に紛れて、半袖の端切れをも風に揺れて視界を動く。

 時間にすれば数秒にも満たない極短時間。目立った脅威の存在しない環境下に於いては油断となり得ない数瞬の積み重ね。

 しかして秒を切り刻み、刹那の時間稼ぎを希求するコトリバコにとっては天の恵みにも等しい意味を持つ。地面をバウンドする度に周囲の血痕を衣として装い、外套の如くはためかせて転がり進む。

 向かう先はフードコートを抜けた果て、五階から一階へと通じる吹き抜け。


「逃がさないッ!」


 遅れて逃走の意思を掴んだ幸子が足を折り曲げて屈み、力を蓄積。

 数瞬の間に獲物へ跳びかかる直前の肉食動物が如く肥大化した筋肉が開放の時を待ち望み、膨張したバギーパンツの繊維が断末魔の叫びを上げる。

 そして開放の瞬間、風が薙ぐ。

 音の壁を突き破るかどうかの衝撃で破裂した大気が床に無数の亀裂を生じさせ、フードコート周辺の硝子を激しく揺らす。血反吐の海が波を立て、真上を飛ぶナニカの影が瞬く間に姿を消す。

 初動でこそ遅れを取ったが、落下する間際に掴み取ることが叶う。

 そう確信を抱き、幸子は腕を伸ばす。


「届け……?!」


 直前、コトリバコが今まさに転落防止の柵を潜り抜けた瞬間。

 幸子は足をめり込ませる勢いで地面へ叩きつけ、強引に加速を〇にする。慮外の加速力は彼女に極端な前傾姿勢を余儀なくさせ、もしも腹筋が見た目通りの少女であらば静止の甲斐なく直撃していたと確信を抱かせる程に。

 そう、丁度女性に肩を貸して進む男性へと。


「え、あ……は?」


 顔面へ叩きつけられる風圧と突然現れたオーバーパーカーの少女に困惑した男性は、意味もなく足を止めて周囲を見遣る。

 そこに込められた意図はともかくとして、幸子にとっては今すぐにでも退いて欲しいのは明らか。


「早く運んであげてッ!」

「え、あは……はい!」


 歯軋りを一つ。怒声を伴って睨みつければ、男は再び女性を連れて進み出す。その歩みは愚鈍だが、女性側が殆んど引き摺られていることを加味すれば、仕方ない速度であろう。

 遅れて幸子は柵から身を乗り出してコトリバコの落下先を見つめ、直後に身体を仰け反らせる。

 赤黒く血生臭い、冥府へと誘う腕の接近を認めたが故に。


『呪いを、呪いを、呪いを』


 血反吐を素体に形成されしは、骸の集合。

 四つの背骨が螺旋を描き、出鱈目に生やされた腕は合わせて八つ。地面より無限に湧き立つ血河には魑魅魍魎の腕が群れを成し、今もなお周辺の血反吐を集積して現世への進軍を果たす。

 吹き抜けの天井を擦る頭部には上顎までの頭蓋骨が四つ。上下左右に混ぜ合わせた十字状の頭が純然たる呪いを以って幸子を睨む。


『彼の家に呪いあれ、繁栄へ災いあれ』

「呪ってダメだったから、次は殴ろう……みたいな?」


 頬に冷や汗を一筋垂らし、幸子は一人零す。

 彼女の推測は正しい。伸ばされた腕が掌を向けたかと思えば、無数の腕が濁流となりて飛来したのだから。

 怒涛の勢いで殺到した腕を前に、少女は溜め息を一つ。

 最早体面を取り繕っている場合ではなく、要求されるのは速やかな状況解決。圧倒的な魔術の脅威を前にして、必要とされるのは一人の少女ではない。


「せっかく買ってもらった服が、ダメになる……」


 諦観気味に呟くと、真紅の瞳に宿るものが姿を変える。

 刹那、空を切る音と共に濁流の流れが塞き止められた。


『何故だ、何故なおも呪われぬ』


 問いかけるコトリバコ。もしくは彼に人格と呼べるものはなく、あくまで場面に沿った言葉を発しているだけの存在なのかもしれない。

 それでも幸子は、口を開く。

 右腕──正確には二の腕から蟷螂の刃を形成したとしても、自分は一人の少女であると証明するために。


「幸子さんは未来の西東幸子さいとうさちこさんなのだ」

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