四月一日

槙 真

第1話

        



私は何にでもなれます。大女優や可愛いアイドル歌手になれと言われたらそれは無理だけど存在しないあなたの理想の女の子になれます。あなたが望んだこと、私がそれに妥当だと思える何かを提案し対価としてください。シンプルにお金でもいいし、かわいいお洋服でもぬいぐるみでも良い。あなたが読まなくなった本を私が欲しいと言ったらそれをください。

そうすれば私は何だってするし何にだってなります。

私の中身はあなたが決めてください。あなたの想像にお任せします。

あなたの決めたとおりに私は動き、あなたに尽くします。





           ①

 

 夜中に降った雨が太陽光で気化されて、神様が人間をおいしく蒸し焼きにして食べようとしているんじゃないかと思うような暑さだ。庭の百日紅の花が水を含んで重みで落ちて、水溜まりを鮮やかに染め上げている。雲ひとつない晴天。この調子なら昼には水溜まりも乾き切るだろう。

「ねえ将司さん、今日はとっても暑くなりそうねえ」

夫に話しかけるも返事はない。もう、しばらく一人で喋る日々が続いている。いつからか夫に無視されるようになり退屈でいる。もっとも、もう四十年以上も連れ添っている分刺激は元々無いようなものなのだが。ああ腹が立つ。ご飯を用意しても箸もつけないので、後から私がラップをして冷蔵庫にしまって夫が出かけた後で結局私の胃袋に入る。お茶を用意しても口も付けずに冷め切った湯呑みに茶葉が沈んでいるのを私が眺め流しに捨てるだけだ。虚しい。こういう時に子供が欲しかったなと、諦めた夢をつい見てしまう。今年で六十歳になるお婆ちゃんの戯言であると自覚してはいるもののやはりどこかで諦めがついていなかった自分に気付かされひどく落ち込む。六十年も生きていると精神状態の余裕みたいなものは、後がないからか若い頃よりかえって無くなったように思えるものだ。

一体何をしに家を出るのか分からない夫が重たそうな腰を上げて玄関で靴を履き始めたので「いってらっしゃい、気をつけてね」と声をかけるがこれもまた返事は返ってこない。

退屈でつまらない毎日にも、楽しみはある。夫が家にいない時だけこっそりと開く夫のパソコンで、夫のTwitterアカウントを眺める。二◯二一年の三月十七日から更新はされていない。まさか私に見られているだなんて思っていないのだろう。他愛のない彼の日常がそこには綴られていて、ただ愛おしく感じる。私を無視する理由が呟かれるのを、私はずっと待っている。すでに何度も一番古い投稿から最後の投稿までを反芻しているので、楽しみといえば更新を待っているこの、好きな人とする文通の返事待ちの様なもどかしい気持ちだけなわけであるが、それにもそろそろ飽きてきた頃だ。その日初めてタイムラインを覗き見た。そこには顔も名前も知らない人々のくだらない日常が溢れている。主婦の「晩ごはん何が良い?って聞いたら何でも良いだって。その返答が一番困るって令和の常識だろ」という愚痴に、無視されていないだけいいなあと羨ましい気持ちになったり、「にんじんがすき♡にんじんになりたい♡」と書かれた短冊の写真を見てなんだかポカポカとした温かな気持ちになったり、夫以外の人間にあまり興味関心のなかった私にも中々面白く感じるものだった。そんな人々の日常の中に、一際目を惹かれる非日常の呟きがあった。


「私の中身はあなたが決めてください。あなたの理想の女の子になってあなたの前に現れます。詳しくはDMにて」


まだ十時にもなっていないというのに、ケータイ電話の天気予報アプリの温度計は三十六度だとか馬鹿みたいなことをぬかしている。待ち合わせの時間まであと二時間。退屈で平凡な日常に突如現れた私の非日常は、綿貫智世と名乗る十六歳の少女だった。あの日何故か惹かれて仕方がなかったあの呟きに私は思わず反応し、気が付いたら今日、彼女と顔を合わせるらしい。しかし待ち合わせの二時間前に到着してしまうだなんて、なんという浮かれ具合だ。年甲斐もなく恥ずかしくなり顔が火照る。本当に実在しているのだろうか?もしや美人局的な大変な詐欺グループの手先なのではなかろうか?外の暑さに我慢できず逃げ込むように入った喫茶店でアイスコーヒーのグラスに鬱陶しいくらい張り付いている結露を指でなぞりながらそんな事を考えている。腕時計の秒針が鼓動と連動する。恥ずかしさから始まった火照りはまだ止まない。こんなに胸が高なるのはいつぶりだろう。早く現れないだろうか、私の理想の女の子。

星空を閉じ込めたような瞳で、小鳥が水浴びするような潤った声で、どんな寵愛を受けたらこれほどまでに綺麗な指の形になるのか、頭のてっぺんから爪先まで、食べてしまいたくなるような可愛らしい女の子。

私が彼女に期待するものは一体、非日常なのか。もしかしたら存在したかもしれない日常なのか、もはや分からない。あの時幾度となく掴んだ希望が、絶望に変わらず希望のままこの世に生を受けていたとしたらその希望はどんな顔で、どんな声でどんな瞳で、どんな子だったのだろう。ずっとずっと会いたくてたまらなかった希望が現れる。

「着いたってメッセージ見てすぐ出てきたんだけど、ちょっと遅くなっちゃった。ごめん!待ったよね?」

「あ、いや全然、こちらこそごめんなさいね、焦らせてしまって。」             

「ううん!元気そうでよかったーやっと会えたねえ!」

水色のワンピースを元気にヒラヒラと踊らせて彼女はやってきた。昔からの、とても親しい友人であったかのような口振りで。本当に急いでやって来てくれたのだろう、彼女の頬にはグラスに付いた結露のように汗が浮かび、そこに綺麗な黒髪が一差し張り付いていてそれがとても尊かった。

「智世ちゃん、何か飲む?」

「いいの?じゃあメロンクリームソーダにする、好きなの。すみませーん!」

ご機嫌な彼女が私の向かいの席に座りながら大きな声でウェイターを呼ぶ。智世ちゃんと呼んでいい?と聞こうと迷ったが、なんだか野暮な気がしてそのまま呼んだ。正解だったみたいだ。鎖骨下まで伸びた真っ直ぐな黒髪が喫茶店のキツい冷房に揺らされている。彼女の瞳は本当に星空を閉じ込めたような綺麗な瞳だった。小鳥より元気な、大きめの鈴を転がしたような声に、華奢な骨格。短く切られた質素で小さな爪のついた手でおしぼりの袋を開けると、ハッカの香りが広がった。小窓から入る日差しで彼女の汗が光る。眩しくて目を閉じたいが、この光を見逃したくない。まばたきすらも躊躇われるほどに、この時点で私は彼女に夢中だった。

彼女の前にメロンクリームソーダが出される。シロップ漬けのサクランボがのっていて、メロンソーダの上のバニラアイスの縁がまた、彼女と同じように輝いていた。

「私ねえ、ここが好きなの」

メロンソーダとバニラアイスの接触面に浮いた薄緑色の泡を銀の柄の長いスプーンで掬って、唇に運ぶ。その所作のひとつひとつが楚々としていて、ますます目を奪われた。もう美人局でもなんでも良い。私は彼女と、今この瞬間を共有している陶酔感に浸っていた。

「私もメロンクリームソーダはそこが好きよ」

「わかっていらっしゃる」

と彼女は喜色満面だ。そんな様子に私は更に気が浮き立つ。見惚れているとあっという間にグラスは空き、残った氷のがら、という音でそれに気付かされた。私もグラスに残ったコーヒーを飲み干す。もう氷は溶けきっていて音は鳴らない。結露だけが相変わらず鬱陶しく残り続けていた。冷めたおしぼりで指を拭くとそれを見てか、香ったからか彼女が口を開く。

「ねえ、ここのおしぼりドロップの匂いだね。子供の頃はあの白いやつ、缶から出てくるとちょっとガッカリしてたけど今は好きなの。なんだか私の好きなものの話ばかりしてるね。夏希さんの好きなものも教えてよ。まずはメロンクリームソーダのふかふかの泡でしょ?アイスコーヒーも好き?あとは?」

「え、あ、そうね、ラークの副流煙とか、好きよ。」

「意外、吸うの?」

「ん、夫が吸うのよ、縁側でね。外から入ってくる風で副流煙がお台所までくるのね、その香りが好きなの。ほろ苦い感じで、まあ、タバコ臭いんだけど、おじさんの匂いって感じなんだけど。目に染みる感じとかも好きなのよ。うちは子供もできなかったから、禁煙のタイミングもなかったのね。でも、それで良かったの。私の好きなものになったのよ。」

最初は躓きながらも、話し出すと饒舌になる。彼女にもっと私のことを知ってほしい。メロンクリームソーダのあの泡をふかふかと表現する彼女の語彙の優しさたるや、それこそふかふかの布団の様。包まれると気持ちがよくて抜け出せない。

「夏希さん、私、夏希さんのお家に行ってみたいな。いい?」

突然の申し出に戸惑う。が、どうせ帰っても口もきかない夫が居るだけだし、夕飯も二人分作っても食べるのは私だけだし、丁度いいか。大人二人で暮らす4LDK、部屋を持て余すくらいだ、散らかりようもない。

「良いわよ、大歓迎。」

そう言うと彼女は

「やった!早く行こ!」

とまたご機嫌に席を立った。


待ち合わせの最寄り駅から山手線に乗り、日暮里駅で降りて十分ほどタクシーに揺られたところに私達の住む街は佇む。マンションの前で車を停めて貰って降りると外の暑さか眩しさか、はたまた歳のせいなのか眩暈がした。黄味がかった白の外壁に、黒色の手すりやベランダの柵が映えている。入り口に差し掛かっている茶色の階段が外壁のせいでカフェオレみたいに見えるキュートなマンションだ。

「立派なマンションだね、いいなあ」

「立派かどうかはわからないけど、かわいい建物でしょう?」

うん、と溜息を吐くように相槌をくれた彼女はマンションを下から見上げている。

「暑いから、早く中に入ろう」

彼女の手に触れ掴む。思ったよりもずっと細くて冷たい。真っ白で透き通るような肌は、この世のもの

ではないとまで思わせる。夏の昼間に吹くありがたい風が彼女のワンピースを泳がせ、それが更に彼女を幻想的に魅せて私は息が止まりそうだった。エントランスに入って右に進む一階の角部屋が私達の住処だ。一階は二部屋しかない造りで、この二部屋にだけ庭がついている。とはいえ四畳ほどの狭い庭ではあるのだが。一面に敷かれた砂利の隙間からしたたかに生えて来た雑草が、庭の右端に一本植えられた百日紅を羨む様に見上げている、そんな庭だ。玄関の重たいドアを引くと、開けたままの窓から入った風が廊下を抜けて私達を歓迎した。

「ただいまー、将司さん帰ってる?智世ちゃん、スリッパこれ履いて」

「ありがとう、ただいま」

「ふふ、おかえりなさい」

彼女の口から出た「ただいま」にどことなく懐かしさというか、馴染んだ様なものを感じて嬉しくなった。やはり夫からの返事はないが、今日は寂しくも虚しくもない。正面を向いたまま履いていたリボンのついた白色のパンプスを脱ぎ、私にお尻を向けない様にそれを揃える様子に感心した。大事に育てて、外へ出ても大事にされる様に育てたのだろう。子供を育てるってそういう事なんだ。私にはできない事だ、浮き立っていた足が地に着いた。

「将司さん?いないの?出かける時は戸締りして行ってって言ってるのに、もう。」

「将司さんって、旦那さん?」

「そうよー、もう何ヶ月も口もきいてくれないのだけどね。」

「ふーん」

リビングに進みソファに腰掛けた彼女が、クッションを抱きながら貴方達の夫婦事情なんて興味ないけど、とでも言いたげな表情でローテーブルの上に置いてあるサボテン鉢をつついた。その表情に妙に焦りを感じて話題を変える。

「智世ちゃん、ご飯食べて行く?」

私の問いかけにコロリと表情を変えて、乗り気な様子で彼女は私と目を合わせて

「やったぁ!」

と大きく頷いた。    

何故あんなくだらない事を口にしてしまったのだろう。私は夫に口をきいてもらえないことに傷ついているのだろうか?そうなのであれば、その傷を、こんな少女に慰めて貰おうだなんて愚かな事を考えていたのだろうか?そして何故、あの時の彼女のなんとも言えない表情、態度に焦りを感じたのだろう。あの態度にすら傷ついているというの?彼女に対するこの感情は一体何と形容されるのか。愛は必ずある。しかし百パーセントがそんな大層なものであるとは言い難い。私の好奇心から始まった彼女への憧憬は、彼女に会った瞬間、何かに形を変えたはずだ。自分に子供が居たら、とか、そんな陳腐な感情はゼロではないが違うはずだ。もっと何か、人生の分岐になる様な、そんな感じだ。気付きたい気持ちと、気付くのに怖気付いている気持ちの狭間で私はお茶の用意をする。とりあえずのお茶請けの羊羹を切りながら、包丁に付いた欠片を指ですくって口に運ぶと、それを見た彼女が

「私もそういうとこ食べるの大好き」

と言い餌を求める雛鳥の様にねだってきた。水っぽい薄ピンクの唇から覗く綺麗に生え揃った白い歯がとても妖艶でどきりとして、彼女の口元へ近づけた手が震えた。それを見透かしてからかうように

「かわいい人」

と呟きニヒルな笑みを浮かべるものだから恥ずかしい。顔から火が出るとはこのことだ。恥ずかしさをどうにか躱して口を開こうと頑張るが、喉が締まって上手く声が出ない。やっとの思いで捻り出した吃り混じりの

「か、から、からかっているでしょう、いじわるね」

と言う言葉に彼女は右側の口角を上げて

「照れてるの?」

と更にからかう。

少女時代を思い出しているのか、もしくは少女に戻ってしまったのか歯が痒い。いよいよ何も言えなくなってしまった。

何も言わない、言えない私に彼女はどことなくつまらなそうだ。結局会話が生まれる事は無く、気不味い空気が流れた。二切れずつ切った羊羹は気不味さをスパイスにあっという間に無くなってしまい、来客用のなんだかやたら小さく見える丸みの帯びた湯呑茶碗の底に茶葉の混じった水溜まりが寂しく残っている。気が付くと時計は五時をまわって連日の熱帯夜を無かったことにするように、今日はやけに涼しい風が吹き始めてレースのカーテンをひるがえした。

「智世ちゃん、食べられないものはある?何が食べたい?」と、あまりに長かった気不味さに蓋をする。

「なんでも食べられる!私ポトフが食べたいな」

具体的な返答は良い。考えることはエネルギーを消費する。夫はいつでも何にでも抽象的な返答だったり、もしくは「なんでもいい」がベターな人だ。それこそ今となっては返答すらしてくれない。彼女の答えになのか、破られた気不味い空気になのか、なんだか安心して鼻の奥が痺れた。目の縁から涙が溢れて、それを拭うところを見られてしまい彼女の丸い目が更に丸くなった。

「え!?ごめんなさい!大丈夫?私何かしちゃったかな?ごめんね?」

駆け寄り優しく肩に手を置く。焦った彼女の様子に私は自尊心が満たされる感覚を覚えて、そんな自分に嫌気が刺した。自分より五十近く歳の離れた子供の彼女にこんな事を思うだなんて本当に情けない。

「ご、ごめんねえ、こんな、本当に、大丈夫、なにもないからね」

と言うとワンピースの裾を託し上げて止まらない涙を掬ってくれた。

「さくっと作ってしまうから、ゆっくりしてて、ね」

彼女は何も言わずに首を縦に振ってまたソファに腰掛けた。この何とも言えない空気を楽しんでいるのか、家に着いてからただの一度もスマートフォンをカバンから出さずただ静かに、泰然自若といった様子だ。彼女のまわりには銀河が見える。なんとも神秘的で美しい何かが漂い、またそれを纏う彼女もなんとも神秘的で美しものだ。玉ねぎを手に取って皮を剥き、大きめに二等分する。こんな量じゃ硫化アリルも私の粘膜を刺激できないだろうに、やはりとめどなく私の目からは涙が溢れ、鼻の奥は痺れたままだった。とうとう泣き止むことはできないままに彼女が食べたいと言ったポトフが完成した。ここぞという時にだけ使うお気に入りのスープ皿に出来上がったポトフを注ぐ。バゲットを厚めに切ってトーストし表面にオリーブ油を塗って塩を振り、作り置きしてある南瓜とナッツのサラダを小鉢に盛り付け食卓に並べた。

「できたよ、食べようか」

声をかけると彼女は

「いいにおーい!おいしそう」

と言いながらソファから腰を上げてこちらへ来る。二人分の夕飯が並んだ食卓を見て

「あれ、旦那さんの分はいいの?」

と言う無垢な質問に内心ズキリと胸が痛んだが(本当はさっきの私の言葉から察してほしい、と彼女に期待していた事に傷ついたのだろう)、

「いいの、いいの。智世ちゃんそこ座って」

と平気なふりをして私の定位置の向かい側、夫の定位置に座るよう促した。彼女は私の促す通りに夫の席に座り

「いただきます」

と手を合わせた。丁寧に合わされた指の先を見ると、なんだか私の存在を丸ごと受け入れてもらったような暖かな気持ちになる。スプーンをポトフに入っている人参に刺し込んで食べやすい大きさに切り掬って口に入れると

「おいし〜!」

と眉間に皺を寄せながら笑った。

幸せは歩いてこないと水前寺清子は歌うが、呼べば山手線に乗ってやって来るんだなと思い可笑しくなって笑えたし、いつもモソモソとテレビを観ながら時間をかけて一人で食べる夕飯と違って箸も進んだ。二十分程度で私も彼女も皿を空にして、彼女の本心なのかお世辞なのか、本心であるならば嬉しい

「ご馳走様でした。本当に美味しかった、また一緒に食べよ」

という言葉に気を良くして

「また来てね」

と答えた。彼女に抱いているこの感情はきっと恋だと思う。甘くて、輝いていて離し難い、くすぐったくてたまに痛いこの独特な空気感になんだか長い夢でも見ているような気持ちだ。そろそろ醒めなければいけない気がする。彼女に渡す報酬は特に考えていなかったので打診すると

「あのサボテンがほしい」

とローテーブルに置いてあるサボテンを指差す。それだけではなぁ、と思い「心ばかり」と書かれたポチ袋に二万円包んでサボテンと一緒に渡した。

彼女を日暮里駅まで送るタクシーを手配する電話をかけると二、三分で着くと言うので彼女と家を出て外で待つ。はしゃぐ風が心地良い。 

「今日は寝易そうね、会ってくれて本当にありがとう。」

「夏希さん、旦那さんと仲良くね。」

「うん、ありがとう。気をつけて帰るのよ。」

「うん、さようなら。」

タクシーが彼女を乗せて、だんだん遠くなる。もう会うことはないだろう。そういえば、彼女のことを知ることも、彼女に私のことを知ってもらうこともろくにできなかったな。まあ、いいか。私はぼちぼち幸せだ。いい夢だった。見えなくなるまで見送って、また家に入る。寝室の横の部屋が私を呼んでいる気がしていつぶりだかも思い出せないくらい久しぶりにドアノブに手をかけ部屋に入った。埃の匂いが鼻をつく。夫の書斎にするつもりだったその部屋には段ボールが何箱か積み重ねてあって、買って以来使われているのを見たことのないテーブルの上には封筒が置かれていた。それには「夏希へ」と随分懐かしい筆跡で私宛ということが書かれている。開けようかと迷ったが、この夢にはまだ魅せられていても良いだろうと思い、手紙を読むのはやめた。

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