僕は誰も来ないであろう、二階の中央エスカレーターより南側に位置しているトイレに籠った。


 子供二人を置いてきた罪悪感はない。二人仲良くしている限り何も問題ないだろう? 知ったこっちゃない。僕は子守じゃないんだ。


 あいつらなんなんだ。彩のことを何も知らないくせに。


 褐色の肌も、薄いピンクのグロスも、溌溂とした声も、肌に張りつくような露出の多い服も、僕を連れ立って先へ行くモデルのような歩き方も、馬鹿にしたときのつんとした仕草も、僕を罵倒してブラウンの髪を振り乱すのも、僕の涙を拭う指先についたオレンジのマニキュアも、苛立って僕の肩に何度も拳をねじ込むのも、たまに僕の頭をわしづかみにして壁にぶつけるのも、普段の垂れ目が怒りでつり上がるのも、ときにすべてを忘れさせるとろけるような柑橘系の香水の匂いも、肌を露にして子供のようにねだる姿も。


 トイレの鏡を見る。自分の顔が酷く老け込んで見える。


 彩について語っていいのは僕だけだ。あの二人、初対面のくせに好き勝手に言いやがる。子供だから? 子供だから何をしても許されると思っているのか?




『子供を殺さないとモールから出られな……』




 はっ。


 仮面の殺人鬼の言葉を思い出した。あいつもループしている?


 でも、あいつはまだ増えていない。


 僕は頭を左手でかく。


 一番最初に変だと思ったのは奴のスニーカーだ。僕の履いている白のスニーカーと同じだった。それから。


 僕は自分の右手を見る。今は靴紐でしっかり巻いて止血してあるが、相変わらず中指から小指は動かせない。激痛も走る。骨と筋繊維が裂けたままだもんな。小指は病院に行けば、繋ぎ合わせてもらえるだろうか。


 この怪我は仮面の不審者によって負わされた。もう一人の僕は、僕が仮面の不審者を屋上から突き落としたから負傷していない。今はまだ。


 仮面の不審者はどうだ? あんな目立つ凶器は何のために用意している? 包丁四本より、一本を握る方が一点に力は集中して標的を刺しやすいだろう。それを、わざわざ四本用意し指の間に固定している。それも、真っ赤に派手なバレンタイン会場のリボンを巻いてだ。ふざけていると思っていた。でも、そうじゃない。


 カモフラージュ。バレンタインの気狂い殺人鬼を装っているのは、右手を隠したいからだ。そして、止血も兼ねているのでは。


 いや、あり得ない。そんな馬鹿なことがあってたまるか。僕は僕一人っきりだ。あとから来た僕が僕と同じ人間だという証拠もないだろう?


 あとからもう一人の僕が現れたということにより、僕よりも先にこのモールを徘徊している僕がいるという可能性が出てきた。今までペットボトルの痕跡などはあったが、確定ではなかったのだが。


 認められるわけがない。僕は僕一人きりで、僕は唯一本物の僕なんだ。


 落ち着け。仮面の不審者がカモフラージュしているのかどうかを、検証しなければならない。そもそも、リボンで包丁をしっかり固定できるのか? 一本ならともかく、四本だぞ。


 僕は一階に降りる。誰に会っても、もうどうでもいい。誰も僕を救ってはくれないだろうし。それに、僕は僕自身にも腹が立っている。もう一人の僕は今頃、甲斐甲斐しくまさくんの面倒を見ているのだろう。


 まさくんは僕を睨んだんだ。あのぼうっとした顔で実のところ内心は僕のことをカメレオンだと嘲笑っているのだろう。


 もっちーもマリー・ガガも、僕の恋愛が上手くいっていないことを見抜いている。違うんだ。僕らはごく普通の双方が幸せになるハッピーな恋愛をしていないだけだ。片方が地獄に落ちても愛すことができる。ただそれだけだ。僕らは相手の苦しみも愛した。そうだ。思い出した。彩からは一度だけ助けを求められたんだ。




『お金がないの。でも、そうこうしているとお腹が大きくなっちゃうわね。二十一週と六日。それまでにどうにかしたいわ。ウダガワくんもお金のこと、いっしょに考えてね』




 十月のことだ。部屋を真っ暗にした彩のアパートで切り出された。


 全裸でベッドに潜り込んでいた僕は黙って這い出し、服をそそくさとまとった。ベージュのカーテンから洩れるかすかな夕日を頼りに、部屋のライトを点けた。


 僕は部屋を去るためにトートバッグを引っさげる。最後に、部屋に漂う彩の化粧の匂いをそっと鼻から口内に溜める。そうして、靴を履きに玄関に向かった。京都から僕の家までは一時間二十分かかる。




『黙ってないで助けてよ。あたし、もっとウダガワくんとヤリたいの。ううん、あなたじゃなくても、浜田くんともね。ウダガワくんは、あたしを妊娠させたのよ。責任を取ってもらわないと。そう、このまま帰らせないわ。もう一回ヤラないと帰らないわよ』


 彩は僕の背後からいっしょに口をつけたワイングラスを投げつけてきた。背中に当たって落ちて割れた破片には、彩の薄いピンクのグロスが付着していて、僕の唇の痕で半分消えていた。




 僕は少し頬を赤らめる。まだ、羞恥心があることに驚いた。僕は彩の言いなりで何も抵抗できずに押し倒されてばかりだった。


 一階の中央エスカレーターのすぐそば、センターコートにあるバレンタインイベント会場まで降りて、僕は佇んだ。


 仮面の不審者が奪い去ったと思われるリボンを手に取る。メインステージの左右にあるプレゼント箱から飛び出したような、花のオブジェについていたリボンだ。


 見れば見るほど彩の卒業制作作品と似ている気がする。僕はこれを最初に見たときには彩がこういうのを作りたいと思っていた。彩の作品はもう完成間近だったと思い出す。


 彩の作品は主に赤で統一されていた。クリスマスの街中でショーウィンドウを覗けば見られるようなものだ。つまりプロの作品となんら遜色そんしょくない。


 僕が見せてもらったのは十月の半ば頃で、彼女の美大の展示室でだ。


 ショーウィンドウを意識させるためにガラス張りにし、その中に作品を並べている。


 各生徒の作品はそれぞれスペースが設けられており、彩のスペースは横六メートル奥行き二メートルだった。奥行きはあえて狭くしたらしい。それも本物の百貨店のウィンドウをイメージしているのだとか。


 卒業制作の発表は来年三月なのに、もう半分以上骨格はできていた。


 右には赤いオーナメントで覆われたツリーがある。作品テーマはバレンタインというが、バレンタインにもツリーがあるとはなかなか面白い。ツリーが右端にあるので、真ん中は何を置くのかと思ったが、どうやらオーナメントで飾られた植木鉢を中央から左にかけて順番に並べて置くらしい。一番派手なツリーが右側にある構図だ。


 彩の作品には大量の赤いリボンが使われていた。ツリーを巻いたり、植木鉢に植えられた木にオーナメントよりも目立つぐらいに巻きつけていた。


 あのリボンとこのモールにあるリボンは同じものなのではないか。同じサテン地だが、リボンの多くはサテン地だから確証は得られない。


 彩のリボンだと直感で思う。もし、この地獄が僕の夢なら夢に現れるのは彩のリボンしかないだろう。


 ため息を吐く。もっと大らかになりたい。僕はリボンの残りを拝借し、自分の右手に巻いてみる。すると、どうだろう。止血のために巻いた靴紐が隠れる。これに包丁を四本取りつければ、仮面の不審者になるのは間違いない。


 僕はあいつと同じことをしている。そんなことがあるのか。吐き気がする。


 あんな愚行を犯せるのか。子供を殺せるのか? 罪のない子供たちを。


 仮面の不審者が僕なわけがない。僕はここにいる。そして、一度はまさくんを守った。僕は守護者であり、殺人鬼ではない。


 じゃあ、あのスニーカーはなんだ。


 あれは、偶然同じ靴だったんだ。仮面の不審者は二階のスポーツ用品店で同じ靴を見つけたんだ。


 じゃあ、右手を負傷しているのはなんだ。


 奴も右手を怪我をしたんだ。


 苦しい言い訳だ。


 よく思い出してみる。仮面の不審者がいつ怪我をしたのかを。


 僕と対峙しているとき、奴は打撲しか受けていない。僕は刃物を持っていなかったのに、あいつは勝手に出血する。はじめから傷を負っていて僕と取っ組み合う内に傷口が開いたと考えるのが自然だ。


 仮面の不審者は僕と会う前から右手を負傷していることになる。これの意味するところは。考えたくないが、考えないといけない。


 肌が粟立つ。嫌だ。僕はそんなことをするような人間じゃない。僕は、僕は。包丁を持ってなんか。


 そうとは言えないんじゃないか。灰色の肩掛けトートバッグの中身は包丁だった。

 僕はこのモールを訪れた時すでに、包丁を所持していたことになる。

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