窮鼠猫を嚙む

マノン・ル・ルー(宮廷女中)

――ちいさなねずみのたった一匹の与えた噛み傷が、ねずみの群れの勇気を掻き立てたとき。猫とて油断ならぬ惨状となるもの。皮肉なことに、人間の世界における猫のような存在は、ねずみのそんな性質すら知らない。ねずみ駆除など、自分ですることが無いので。それは、恐らく私自身も然り。


 水入りバケツの重みに腕を引っ張られながら宮殿の煌びやかな廊下を歩く女中がいた。バケツの他の持ち物は、雑巾が一枚、それだけだった。迷いなく、ある部屋の戸を叩き、中に誰もいないことを確認すると、女中は中に入って扉を閉める。その部屋の住人の享楽的な性格を表すように、部屋の中は乱雑に、思いのまま過ごして放置されたような有様だった。まずその部屋を見まわし、長椅子の上と、重力で滑り落ちたのであろう、床の上にも散乱した多くの手紙を発見した。確認すると、どれも未開封だった。ひとまずそれは全て拾って長椅子の上に戻し、チェスの散乱した駒を盤上に戻し、部屋のあちこちで読みっぱなしになっていた本を本棚に戻した。最後の本の山に手を伸ばしかけて、彼女は手を引っ込めた。先ほど置いておいた手紙の束を取って、棚の引き出しの中にしまう。あらかた物を片付けても部屋の主は来なかった。時計を見ると、主が出席するという会議の終わる時刻をまわって少し過ぎたところだった。女中は持っていた雑巾を濡らして絞り、窓を拭き始める。


 そうしていると、扉が開いた。入ってきた男は部屋の中の様子とそこにいる女中を見るなりつかつかと女中に歩み寄った。


「おい、何度言えばわかる。こっちから頼まないのに掃除をするな」

「申し訳ありません、シェロン伯爵様」


 無感情な顔で、女中は頭を下げた。伯爵はそんな女中の耳元に寄せて、従えない女中に存在する意味などないな、とささやく。なおも顔色ひとつ変えない女中は、前に組み合わせていた手だけ、微かに強く握り直した。


「手紙は何処へやった」

「その、引き出しの中に」


 伯爵はため息をつきながら、メイドに示された引き出しを乱雑に開けて手紙の束を取り出し、棚の上に広げた。そのうち一つを開封して、うって変わり甘ったるい顔をして読み始める。


 女中はしばらく様子を見て、自分に対する意識が逸れていることを確認する。その様子を伺う目を逸らさないようにしたまま、そっと足元のバケツの持ち手に手をかけた。


 そろ、そろと近寄って、バケツを勢い付けて振り上げる。


 伯爵は頭に衝撃が走った途端、読んでいた手紙を棚の上に取り落とし、脚の力が抜けてがくっと倒れた。


 呆気ない。

 バケツを置いて、女中は本の山に目をやった。意識を失った伯爵の上半身を持って体の向きを変えさせる。後頭部の傷を本の角に合わせて寝かせ、足元にバケツの水を全てばら撒いた。空になったバケツはすぐに暖炉に放り込む。


 ふと床に目をやると、先ほどバケツを置いたところに血の染みがついていた。あぁ、バケツの底の角が当たったから。底の形をなぞるような跡がついていた。女中は雑巾でそれを綺麗に拭き取り、雑巾も暖炉に一緒に放り込んだ。


 部屋を見回して点検をして、そっと部屋の戸を開けて外を覗く。人がいない事を確認してからすぐに部屋を出て扉を閉めて、急いで廊下を走った。洗濯場の綺麗な雑巾を新しく手に取って、また同じ部屋に走って戻り、扉を開ける。死体以外、誰もいない。女中はまた走って、一番最初に見つけた兵士に声をかけた。


「あの、すみません、伯爵様が……倒れていて……血を……」


 息を切らしながら言うと、そこに2人いた兵士達は顔を見合わせた。

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