28. かみ合わない会話
見事な夕焼けと形容したくなる、混じり気のない茜色の空が広がるなかを、夕陽に照らされて煌めく入江を下に臨んで、坂道をくだっていくバスの奥の席に、少し間をあけて、ぼくたちは横並びに座っている。
「…………」
そして、なんの会話もせずに、窓の向こうと文章の上に、それぞれ目を向けている。この気まずさは、いつになったら晴れるのだろう。ここは勇気をだして、ぼくの方から話しかけるべきなのかもしれない。ぼくたち以外にだれもいない車内の沈黙を破るために、深呼吸をひとつする。
「先輩は、春休みはどこかへ行ったりするんですか?」
「…………」
「先輩?」
「……行かない」
「そうですか、ええと」
会話を続けようにも、どうしても呼吸が合わない。
「ぼくは、実家に帰ろうと思ってるんです。三日ほど」
「そう……」
「バイト仲間と一緒に、小旅行のような意味もあるんですけどね……って、先輩?」
先輩は勢いよく本を閉じると、「裏切り者」と呟いた――と思うのだけれど、対向車線を走り抜けていった車のせいで、うまく聞き取れなかった。
「わたしは、彼氏とデートをするから」
「あっ、そうなんですね」
あのクリスマスの日、コンビニで見かけた彼氏さんの姿を思い浮かべる。そっくりな雰囲気をしていたし、いいひとと巡りあえたといっても過言ではない気がする。
「嫉妬とかしないの?」
「えっ?」
「だから、鱗雲くんは、わたしがデートをするって聞いて、どうも思わないの?」
「どう……というのは?」
「……もういい」
それからまた気まずい沈黙の時間が続き、駅で別れたあとも、どこかもやもやした気持ちが残った。美しい茜色の空も、下宿のドアを開けるころには、すっかり夜闇に置き換わり、凍てつくような風も吹きはじめた。
本が積まれて雑然としている机の椅子に座り、パソコンの電源を入れた。温かい風を送りはじめたエアコンの吹き出し口をじっと眺めたあと、閉めきったカーテンの方へと目線を移す。
次に先輩に会うのはずっと先のことだろうと思うと、なんだか重苦しい気持ちになる。ため息をしてしまう。「嫉妬とかしないの?」――という先輩の言葉が、さっきから頭の中を占領している。
先輩が幸せならばそれでいい、と言い切ってしまうと、少し寂しさが残ってしまうのは事実だった。
* * *
順序が逆になってしまったけれど、実家に電話をかけて3月頃に帰りたいという旨を伝えた。電話に出た母さんは、ぼくが帰省すると聞くと、嬉しそうな声に変わった。
ぼくには、なにかあれば帰る場所があるのだと切に思い、胸が熱くなった。
「具体的な日が決まったら、連絡してね。みんな待ってるから」
電話を切ろうとする母さんを、急いで呼び止める。
「あっ、あのさ!」
「うん? どうしたの?」
「えっと、ひとつお願いがあるんだけど……」
ぼくは、
「もちろん! ぜひ、連れてきてちょうだい!」
難色を示されるかと思っていた分、母さんのどこか興奮したテンションにびっくりしてしまう。こんなにすんなり事が進むとは思わなかった。
「ようやく素敵なひとと巡りあえたみたいでよかったわ。これで一安心できそうねえ。じゃっ、楽しみにしてるわね。まだ寒さは厳しいと思うけれど、身体を大事にしてね」
「うっ、うん!」――ちょっと、なにか違和感のある受け答えな気もするけれど。
「なにか足りないものとか、困ったことがあったら、連絡しなさいね。それじゃ、またね」
無事に交渉が成功してよかったけれど、なにか困ったことが起こりそうな気もしないではなかった。
帰省は、研究発表会から一週間後くらいに見積もった方がいいだろうか。もちろん、美月の体調のことは予測できないし、家族の方のご都合もあるし、「メゾン」のことも考えないといけないし……とにかく、次のバイトのときにオーナーに相談してみることにしよう。
コーヒーの湯気が香るコップをコースターに置く。デスクトップの「第1章2節」と名づけられたファイルを開き、先行研究の整理の部分の手直しを再開する。細かくファイルを分けて、こまめにバックアップをしなければ、なにかのトラブルでいままで書いてきたものが消えてしまったときに、対処できない。
先生たちからは、切りの良いところまで書いたら、プリントアウトするといいとも助言を受けている。卒論の提出間近に、パソコンのトラブルで、いままで書いてきたものが消えてしまい、卒業できなかった学生が毎年必ずいるという。
進学を機に購入したこの新しいパソコンだって、壊れないという保証はないのだから、十分に気をつけなければならない。
とにかく、これからしばらくは――実家に帰るまでは、修士論文の執筆を黙々と進めていくことにしよう。
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