23. 桐生院聡之介 教授(歴史学)

 午後からの印刷会社の方との最終の打ち合わせで、研究科紀要の納品日が決まった。

 芭蕉ばしょう先輩に、納品日と、各大学に送るための梱包作業などをする日程を相談すると、《いま忙しいので、夕方に返信します》と返ってきた。


 下宿へ帰る前に桐生院きりゅういん先生に、来年度の授業について相談したい旨を記したメールを送ろうと思い、(いつも通り)敬語のチェックをしながら文面を打っていると、研究室のドアがノックされた。ドンドンとまではいかないまでも、強く響いてくるようなノックだった。


「おっ、ひさしぶり」

 ノックの主は、桐生院先生だった。白髭をあごまでたくわえた、優しい目をした紳士風の男性で、あと少しで定年になるということを、どこかで聞いたことがある。


「さっき、胡桃ことう先生に会ったら、鱗雲うろこぐもくんが相談に行くかもしれないと言っていてね。もしかしたら研究室にいるんじゃないかと思ってきたんだが……どうだろう? いまから少し話そうか」

「よろしいんですか?」


「もちろん。正直言うと、これから大忙しになるから、面談の時間を取るのが難しくなってしまうんだ。テストやレポートの採点をしなくちゃいけないし、学会発表の準備もしなくちゃいけないし……だから、ちょうどいてくれて助かったよ。じゃあ、僕の研究室に……いや、隣の教室が空いているから、もしよかったらこっちで話そうか」


 桐生院先生は、聞き取りやすい、ゆったりとした、心地よい口調で話してくれる。胡桃先生がむかし、「癒やし系」と評していたのを思いだす。


「来年度の授業について、色々お聞きしたいのですが……もし先生がよろしければ、隣の教室でお願いできたらと」

「もちろん。いま、暖房をいれてくれるように頼んでくるよ」

「あっ、ぼくが、事務室まで行ってきます」

「いい、いい。大丈夫だよ。ついでに、本を取ってこようと思ってるから。隣の部屋で待ってて」


 隣の教室は、講義が行なわれるところではなく、大学のある機関が主催する討論会などに使われている。机が正方形に配置された、あまり広くはないところだ。ステンレス製の本棚には、国際問題を専門とするジャーナルや、文芸誌や、時事問題を扱った雑誌が並んでいる。


 しばらくすると、教室に温かい風が吹きだした。


 芭蕉先輩いわく、桐生院先生は、学生と教員の間にあるパワーバランスのようなものに繊細なのだという。

 ぼくの前の大学のゼミの先生は、ゼミ生が研究の発表をしたあと事細かに、「ここはこうすべき」「そういうのは間違い」「正しいのはこういうこと」――という風にを押しつけてきた。

 するとぼくたちは、それに従うしかなかった。だって、それに毅然きぜんと立ち向かうにはリスクがつきものだからだ。


 先生は、ぼくたちが卒業できるかどうかの生殺与奪せいさつよだつを握っている。そういう意識が、「先生の逆鱗に触れないようにする」というふるまいに繋がり、みんな似たような形の研究をすることを受け入れるようになる。

 こうしたい、こういう方が正しいと思う、などと声を上げることはできない。学生と教員の間には、偏ったパワーバランスが存在するのだから。


 桐生院先生もそうなのだろうけれど、ぼくのいまの指導教員である胡桃先生も、神凪かんなぎ先生も、ぼくのことをこうから否定しないし、自分の意見を押しつけてこない。なんというか、ぼくの研究がよりよいものになるように、一緒に考えてくれているという感じだ。寄り添ってくれていると言っていい。

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