04. 神凪湖畔 教授(国際法)
ぼくからしてみれば、「面倒見のいい先生」という好印象しかないが、神凪先生と親しくしている
肩にかかった明るい茶色の髪を引き立てるようなメイク。紅色のインナーの上に長い丈の橙色のワンピースを羽織っている。先程まではベージュのガウンコートを着ていた。黒色の靴は、まとまった洋服をよく引き立てている。
わかわかしいその姿は、学生と見まがうほどだ。しかも、着ている服によって声色も少しだけ変わるときもある。「琥珀紋学院の教員陣のお洒落番長」だと、胡桃先生は冗談っぽく言っていた。
しかしそんな見た目のことより、やはり「面倒見のいい先生」ということの方が、ぼくには圧倒的な魅力で、クリスマス・イヴの今日、ぼくの用事に合わせて、一度飛んだ授業の補講を開いてくれた。
休講を報せるメールには、「今後、体調管理には気をつけるので、今回は大目に見てほしい」というようなことを、丁寧な言葉で書いてくれていた。
神凪先生が専門としているのは「国際法」だ。その関係で、民族紛争に関する研究もしている。また、「移行期正義」と呼ばれる、紛争をはじめとする大規模な暴力が起こったあとの、国家の立て直しのプロセスに関する研究成果もいくつかある。
胡桃先生と違うのはアプローチの仕方で、紛争後の戦争犯罪の「裁き」の方に重点を置いている(一方の胡桃先生は、人々の間の「和解」を中心にしている)。その関係で、国際刑事裁判所の記録などを一次史料としている。
「じゃあ、《安保理決議872》などの、当該国への派兵の是非、及び人員の増減に関する取り決めが、内戦においてどのような意味をもっているのか。その報告から、お願いします」
「あっ、こちらが作ってきた資料です」
「ありがとう。3、4、5……5枚かな?」
「はい、5枚です」
「かなりの量があるね、マジメにやってくれてて嬉しいよ。とくに……これから発表してくれるんだろうけど、ざっと見た感じ、内戦中の安保理の議事録をほとんど読んだみたいだね。偉いよ。じゃあ、報告をお願いします」
胡桃先生にしろ、神凪先生にしろ、ぼくの研究に真剣に向き合ってくれるからこそ、それに
* * *
時間通り授業が終わり帰り支度をしていると、携帯が振動した。
「わるい、わたしだ」
ガウンのポケットからスマホを取り出すと、先生の頬がみるみる染まっていき、小声で「祐二……」と呟いた。
そして「よいお年を!」と、るんるんとした調子で言い残すと、教室を出て行った。
窓の外を見ると、ひらひらと粉雪が舞っていた。このまま吹雪くとイヤだな……今日は夕方からバイトだ。いつもよりゆとりを持って向かわないといけない。そんなことを思いながら、電気を消して院生指導室のドアを閉めた。
今日も階段でアリス・ロベール先生とばったり会った。
「こんにちは! 今日も補講ですか?」
白色のインナーの上に、薄めのブラウンのガウンをラフに羽織り、まったく同じ色の白のズボンの裾が、濃いブラウンのブーツの口でだぼっとしている。シンプルながらお洒落なコーデで、神凪先生に引けを取っていない。
「はい。神凪先生の授業です」
「そうですか!」
ロベール先生の
「コハンとさっきすれ違ったけど、なんだかウキウキしていましたね」
「そうですね……」――ぼくは、苦笑するしかなかった。
「わたしも、ウキウキしています」
と、ロベール先生は言い、にこやかな表情をした。
「どうされたんですか?」
「来たる26日――八千、九百、二十六組もの漫才コンビの頂点が決まるんです」
先生は大のお笑いファンで、むかしは「なんでやねん」という相槌をしていたこともあったらしい(正しいと思っていたらしい)。
きっと、年末にあるという「漫才ワングランプリ」のことを言っているのだろう。
「わたしの大好きな《ダイナマイト柑橘類》が、初の決勝進出です! 観なければ!」
どうやら、推しの漫才コンビが決勝の舞台に立つらしい。
そういえば昔、こんなことを聞いた。
一昨年、同僚のボアティング先生が、ネットニュースで「漫才ワングランプリ」のファイナリストを偶然見かけて、「そういえば、だれだれが出るみたいですよ」とロベール先生に伝えた。
そのとき、ロベール先生は忙しかったらしく、動画サイトの公式チャンネルにアップされている、決勝進出者発表の動画をまだ見ていなかった。先生は自分の目で、決勝に進む9組を知りたかったらしく、ネタバレをくらった形になった。
それをきっかけに、しばらくボアティング先生と絶交をしていたとのことだ。
先生は、それくらい、「漫才ワングランプリ」を楽しみにしている。
「いまにも泣きそうです……ラスト9組目で名前を呼ばれたときに、深く抱き合って喜んでいたふたりの姿……もう三十回は再生しましたよ」
当日の
「じゃあ、またね!」
ロベール先生は、にこやかに手を振って階段を上がっていった。
もう大学は冬期休暇に入っており、すぐ近くのバス停に列はなかった。ときおり車の行き来はあるものの、山から海へと吹いて雪を斜めに走らせる風の音ばかりが響いてくる。
バスにも、乗客はほとんどいなかった。
* * *
入り江の向こうに水平線が見える。
砂浜に沿うように県道が走り、そこから市街地へ分岐するT字路に「メゾン」がある。
フランス語で「家」を意味する女性名詞は、アルファベットで表記されていない分、昭和の
この寂れた個人経営の
最新のゲームもメジャーなタイトルしかないし、建物を作るブロック系の玩具も数年前のものばかりだ。だから、一昔前の建造物の完成図をパッケージに描いた箱が棚に並んでいる。
しかしこの店の最大の特徴は、レジから見て奥の方に、カードゲームショップにあるようなショーケースが三つあることだ。『グローリア』というトレーディングカードゲームのカードが置かれたこの一画は、店の中であまりにも浮いたスペースだ。これは、オーナーの息子の(むかしの)趣味が反映されている。
オーナーの息子の正樹さんの父親、美月の祖父である伝兵衛さんが経営しているこの玩具屋で、ぼくは夏からバイトを始めた。バイトをしているのは、ぼくと美月だけだ。
大学院生は忙しくてアルバイトができない。
というのは、よく言われることだけれど、この「メゾン」はかなり融通がきくし最低賃金を大きく上回るバイト代をもらえる。学業にそれほど影響を受けずに、金銭面で恩恵にあずかることができる。
ところで、ここで働かせてもらうようになったきっかけは、美月とぼくの最初の出会い――ある事件が関係している。
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