四話: The Red Calling

 二人がそこへ辿り着いたとき、太陽は既に真上まで昇っていた。

 くすんだ空から力なく注ぐ陽光は、経年劣化した昔の絵画のように独特な、しかし本来の姿ではなくなってしまった退廃感で街を淡く包む。

 二人の周りには色も形も似たようなビルが整列する。だからこそ、そのビルは大きく異彩を放っていた。

 十階建てのビルとも肩を並べられるほどに巨大な真白でさえ見上げるそれは、黒光りする壁面と高層に向かって細くなる緩やかな台形のシルエットを持つ超高層のビルだ。他のビルより頭一つも二つも抜きん出て高いそのビルは、廃墟となったこの街で――否、ここが廃墟になる前からも間違いなく、この街で最も高い建物だったのだろう。


「見た感じ、大きく壊れたりはしてないみたいだね」

「ああ。上ってる最中にぶっ壊れる心配はなさそうだな」

「嫌なこと言わないで。この高さじゃ、総介さんに何かあっても助けられない」


 総介も真白の左手の上でビルを見上げていた。膨らんだリュックを背負って、全身にフルハーネス型の安全帯を纏い、ロープの先は真白の人差し指に結ばれている。彼のトラックは路肩に停められていた。荷台の扉が開けっ放しだったが、ここには盗人も泥棒猫もいないので問題はない。


「どのあたりから入るの? 頑張れば、えーと、十九階らへんまでなら届くかも」

「つま先立ちになってまで上を目指さなくてもいいよ。このビルは台形になってる、前屈みになってバランスを崩したら良くない。お前の顔くらいのとこからで大丈夫だ」

「でもそれじゃあ、えーと……三十一? 階も上るの、総介さん?」


 綺麗に窓の並んだ壁面を指差して一階ずつ丁寧に数える真白の横顔に、総介は笑って答える。腕をぐるぐる回してウォームアップする様はやる気に溢れているようだった。


「大変じゃない?」

「別にバーティカルランニングするわけじゃないんだ、休み休み上るさ。あぁ、昼飯も中で適当に取っとくよ」

「……分かった。じゃあ、十階ごとくらいでいいから、合図してね」

「了解」


 ビルの窓はひび割れも見当たらない。だから真白は、総介のいる左手を自身の影に隠すと、右手の人差し指をぐっと丸めて親指で押さえた。それをビルの端っこのほうの窓にゆっくり近づけ親指を離す――直後、放たれた人差し指が大砲のように窓を弾き飛ばした。バリリィッ! と大きな音を静かな街中に反響させながら、ガラスの破片が宙を舞って飛び散っていく。


「気を付けてね」


 真白は開けた穴の中へと左手を伸ばし、総介がビルへと移り渡り、彼女の指から安全帯のロープが外されたところまでを確認してからそっとビルから手を離す。そしてケーブルで袈裟懸けにしていた“エンタングル椎”を胸の前でキュッと握り、ビルの中へ消える総介を見送った。顔くらいのところで大丈夫、と言われていたが、実際のところ真白が開けたのは身長から頭一つ分高い所だった。


◆◆◆


 最初の合図は僅か五分後だった。侵入階からきっちり十階の窓辺で手を振る総介に気づいた真白は、少し驚いた顔を見せつつささやかに手を振り返す。

 総介のほうはあまり息も上がっておらず余裕がありそうだった。真白を見て、その表情はどこか安堵したようにも見える。振り返れば不安になるのも納得できる光景があった。何もないのだ。たまたま空きテナントだったのかもしれないし、避難時に机一つ残らず運び出して退去した神経質か貧乏性な企業が入っていたのかもしれない。いずれにせよ、天井と床と壁しかないだだっ広い空間がそこにはあった。無論、電気系統は沈黙しているので明かりは窓から差し込む太陽光だけだ。その薄暗さと、空間の広さに対して自分ひとりだけしかいない孤独感も相まって、言いようのない不安感を与えてくる空間が生まれていた。


「――確か都市伝説にこういう場所の話があったっけなあ」


 そう呟き、総介は空間の中心部へ戻る。このビルには左右に三基ずつ、計六基のエレベーターが備わっていたが、電気が通っていない今はただの縦穴だ。階層移動の手段は唯一、無機質な金属扉の向こうで伸びる非常階段だけ。太陽光さえ遮断され、真っ暗で静かで冷たい世界が待ち構えていた。


「しんどいな……ある意味、バーティカルランしたくなる」


 懐中電灯のボタンを押して、足元の階段を照らし総介は上りだす。腰の拳銃に手を添えてしまうのは、昨日出会った“クリーチャー型”の経験のせいだろうか。小さな円で照らされる階段には装飾も塗装もなく、上を見ても下を見ても階段が続く。申し訳程度に壁に掘られた階数表示が無ければ、不気味な暗黒の閉所と永遠に終わらない無限回廊に心をむしばまれてもおかしくはないだろう。

 七分後、次の合図階へと辿り着いた。最低限の机と椅子が並んでいるだけのオフィスだったが、先の空っぽな空間よりは遥かに人の残滓を感じ取れる。それに、見下ろせば真白の姿もすぐに見えた。だが総介から真白が見えても、真白から総介が見えていないようだ。総介が手を振っても反応がない。

 とはいえそれくらい総介は想定済みだった。彼は窓に穴を開けることにした。そのための道具もリュックには入っていた。

 このビルの窓ははめ殺しになっているので、開けるには破壊するしかない。ここが地上から約一〇六メートルでなければ、不法侵入の手口にしか見えない絵面ではあった。それなりに時間はかかったが、直径二十センチほどの穴が生み出され、ほんのり冷えた外気が総介の肌に触れた。

 真白は最初の合図からずっと同じ位置に立ち続け、窓の位置を一階ずつ数えて次に合図がされるはずの階層に目を合わせていた。太陽光で窓が白く反射し中の様子が見えなかったが、その反射を生み出している窓自体に穴が開けばすぐに分かった。真白は手を振り、穴からひょっこり飛び出た腕が振り返されるのを確認した。

 総介はリュックから金色の物体を何か出そうとしていたが、真白が彼に気づいたのを見て途中でやめた。その物体が活躍するのはさらに十分後、総介がビルの屋上へと辿り着いた時だった。


「うお、風強っ」


 バキン、と少々強引に非常扉を開錠した総介は、吹く風の予想外の強さに驚いた。地上から約一三三メートル、遮るものもない屋上の風は少しの強さでも脅威となり得る。近場の手すりに安全帯を取り付けた総介は、先述の物体を取り出した。それは片側の口が大きく開いた金属の管で、中腹部分が二回ほど巻かれ、赤い吊り紐が付いていた。その名をビューグル――別名“軍隊ラッパ”という、金管楽器の一つだった。

 ビューグルにはトランペットなどのように音程を調節するバルブがない。なので吹く唇の形や息の強さでしか音の高低を生み出すことができない仕組みになっている。総介は単調な音色で、プ、プ、プー、プ、プ……とビューグルを吹き鳴らす。静かな街にビューグルの甲高い音はよく響いた。

 すぐに「りょーかーいっ!」と遥か下からとても大きな声が返ってきた。上空から見る真白の姿は、まるでジオラマ模型の中に迷い込んだ小人のようだ。しかし周囲に並ぶビル群も、それと肩を並べる真白も紛れもなく一分の一スケールであり、その声は辺りをブルブル振るわせて上空の総介まで一直線に飛んでくる。

 遠くに目を移せば、昨日の戦闘が起こった場所が見えた。“クリーチャー型”が縄張りにしていたエリアがあの辺りだったんだなと、建物の崩れ度合いと陥没穴で分かる。

 向かって右手が、今朝までいた住宅街だ。総介がポケットから取り出した方位磁石によって、住宅街は北の方角にあることが分かる。複雑な崩壊の濃淡はただ朽ちたわけではない、人がいなくなった後、誰にも記されない歴史がここで続いていたことを思わせる。


「静かに人が去った場所、化物が棲み付いた場所、一面灰になった場所……多重のレイヤーだな、これは」


 誘われるように、総介は反対側へと歩き出す。丁寧に安全帯を付け替えて、沈黙する多数の超大型換気扇の縁をなぞるようにゆっくりと、風に気を付けながら。

 そして、総介は見た。


「…………何だ、あれは……?」


 遥か東。

 海と陸のちょうど境目に立ち上がる、禍々しい赤の煙。

 何かを包み隠すかのようにゆらゆらと蠢くそれは、まるで血を吸った積乱雲が地に落ちてきたかのようだ。その赤煙から放射状に広がるのは、破滅。高層ビルと地形の起伏に隠されて今まで見えていなかった惨状を、総介は初めて目にした。

 爆発跡、建物に突き刺さる戦車、まばらに斃れる異形、巨大な動物、巨人。屋上で見たありのままを、二十分かけて真白の元へ戻った総介は彼女に伝えた。


「そんなふうになってたんだ……」

「発煙筒なんかじゃない。嫌な予感のする煙だったよ、あれは。――でも、だからこそ俺は近づいて確かめたい。もちろん真白が嫌だったら無理強いはしない――」

「行こう、総介さん」

「いいのか?」

「総介さんが行きたいのなら、どこでもわたしが連れて行く。……それに、いざって時はわたしが盾になれるから」

「……盾にはなるな。危ない時は、二人で一緒に逃げるんだ。それだけ、約束してくれ」

「…………うん」


 ビル街を離れる前に、電柱からケーブルを、周辺のビルからカーテンを少し拝借して、二人は簡素な旗を作った。それを総介が上った超高層ビルの中腹に結び付ける。オフィスで見つけた油性インクで刻まれたのは、日付と、向かった方角と、『巨人一人・人間一人』の人数構成。

 太陽は南中を越え、西に傾きを見せ始めていた。その太陽に逆らうように、真白はトラックを抱え歩き出す。遥か東、赤の煙へと。

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