二話: A Shadow Falls on Her

 雲も無いのにどこか澱んだ青空の下で、規則的な地響きの音が鳴る。

 その音の主――巨人の少女、真白は、アスファルトを埋め尽くさんばかりの瓦礫の山々を丁寧にゆっくりと踏み越えながら、建物に囲まれた道沿いを進んでいた。

 背の高いビル群から離れ、二階か三階建て程度の――それも多くは潰されるか崩れるかして、一階建て相当に圧縮されてしまっているが――住宅街へと移動したことで、その巨大さはまざまざと示されている。

 ただ、その時の彼女は、単に巨大であること以上に特異な雰囲気を纏っていた。

 両手、両足、継ぎ接ぎの衣服、右の頬、至る所に赤い染みが付着していた。まるで赤い手袋を嵌めているかのような右腕には手首から肘にかけて長い切創が走り、その手には奇妙な細長の物体、“エンタングル椎”を提げている。複雑に絡み合う細長い結晶体が、さらに蛇腹のように何節も繋がった形をした禍々しくも美しい虹色のそれは、真白の歩行に合わせて不気味に揺れる。

 腰には輸送コンテナが、ウエストポーチの如く太いケーブルでグルグルと巻きつけられている。その中から顔を覗かせているのは以前まで持っていたボロボロのナイフではなく、第一関節ごと引きちぎられた巨大で鋭利な一本の爪だった。


「……もうすぐだな」


 真白のもう片方の腕には、銀色の中型トラックが抱えられていた。その車内から開いたドア窓へ身を乗り出し、戦闘服を着た青年、総介が真白と同じ方向に目を向けている。

 二人の目線の先には、住宅街を二つに分かつ大きな川があった。川には何本かの橋が架かっており、車道のすぐ隣に鉄道橋も連なっている。あまり無事とは言えない状態の住宅街の中で、奇跡的にもそれらの橋は崩落せず形を保っていた。

 川は穏やかに二人を待っていた。真白の巨体を清めるには、十分な大きさだった。


◆◆◆


 真白が川の真ん中に座り込むと、みるみるうちに水は透明度を失っていく。片手で掬った水をもう片方の手にこすり当てる度、川の清廉さと自らの穢れとが交換されていく。


「……ごめん。わたしが、うまく戦えなかったせいで」

「気にすんな。真白も俺も、自分がやるべきと思ったことをやっただけだろ。真白も俺も死んでない。結果はそれだけで十分だ」

「でも……弾、残り少ないのに、わたしのせいで無駄に……」


 血と共にそのまま溶けてしまいそうなほどに項垂れながら、真白は水際にいる総介へ口を開く。その目はじっと、己が濁らせた赤黒い川水を見つめていた。


「やっぱり、わたしじゃ駄目だったんだよ。あの時、じゃなくてわたしが死んだ方が――」

「真白」


 ブーツを脱ぎ裸足になった総介が、川へ足を踏み入れる。浅瀬ギリギリ、腿までを赤い川水に浸けながら真白に近づいて彼女を見上げた。


「俺も、お前も、色んな奴らに助けられてここまで生きてきた。そん中には俺の尊敬する人も、俺より腕の良い人もいたよ。でも今生きてるのは俺と真白だ。たら、れば、なんて考えても、生きてるのは俺たちだ」


 川辺に停められたトラックの傍には、恐らく点検をしている途中だったのだろう、いくつかの物資が広げられていた。その中には誰かの名前が刻まれたものもある。総介ではない誰かの名前が。


「だからさ、俺たちなりの精一杯を尽くせば、それで良いんだと思う。あの時真白は、俺を助けようと精一杯のことをやってくれた。そうだろ? そこに後悔は必要ない」


 そう言って自分を見上げる総介に、真白は目を合わせた。優しげな風がそっと吹き、彼女の髪と服を微かに揺らした。


「なぁ、真白。俺たちは何のためにここまで来たんだ?」

「……生き残っている人を探すため」

「ああ。俺たちは命を探す旅をしている。そこで命を失っちまったら意味ないだろ」


 総介は笑うと、「っと、ズボンが濡れちまったな。着替えてくる」と川から上がっていった。トラックへ戻る途中ふと立ち止まり、こんな言葉を残して。


「残ったのが俺たちだけになった時、お前を絶対に死なせるもんかって決めたんだ。お前を守るためなら貴重なものだろうが何だろうが、俺は使う」


 総介がトラックの荷台へ消えた後、濁りのない透明な雫が一滴、川面へと音を立てて落ちていった。真白は空を見上げる。鳥の一羽も飛ばず、太陽だけがただ静かに光を真白の背へと注いでいた。

 そして、真白は立ち上がる。滝のように落ちていく水が川面を荒らし、赤黒い濁りが先へ先へと広がり流れ出る。肌は綺麗に洗われ、右腕の切創も止血していた。だが衣服の染みは薄れても、消すことまではできなかった。


◆◆◆


「もうすぐ日が暮れる。この辺りで休める所を探そう」


 川から離れ、真白は再び総介の乗るトラックを抱えて街を歩いていた。“エンタングル椎”は両端を束ねた電線で結び、袈裟懸けにされている。

 足元には煙も立たぬほどに燃え尽きた家々が広がる。マンションなどの高層建築物は恐らく全て倒壊してしまったのだろう、夕焼けは何にも遮られることなく世界を包み、かつてここに起きたらしい大火災を再現するかのように橙の光を浴びせている。

 真白は小高い丘を見つけた。丘には建物の残骸が規則正しく同じような形で残っていて、中央には池の付いた公園と思わしき空間があった。総介は真白の腕から残骸を見下ろし、この場所を「きっと団地だったんだな」と推測していた。

 トラックが公園跡に降ろされると、真白は残骸を動かし簡易的な塀作りに、総介は野営の準備にそれぞれ取り掛かった。

 携帯用の小型ガスコンロを点火し、池の水を汲んだ片手鍋を火の上へ。鍋の水には缶詰が二つ浸かっている。その間にも残骸の山が着々と積み上げられていく。その高さは真白の膝下にも及ばないが、姿勢を工夫して伏せれば丘の高低差も相まって真白の巨体さえうまく隠せそうである。見晴らしも良く、脅威があればすぐに気づくことが出来る。即席の要塞が、陽の落ちた暗闇の中に生み出されていた。

 総介はグツグツ温められた缶詰を二つとも取り出して、周りを拭いてゆっくりとプルタブを上げる。フワッ、と湯気が昇り、大ぶりな魚の切り身が露わになる。総介は真白が作業を終え彼の近くに座るのを待つと、プラスチックの箸を取り出して魚の身を小分けにし口に運んだ。

 静かに食事の時間が過ぎていく。ときおり真白が辺りを見回すが、何も聞こえず、何も見えはしなかった。かつて街中を照らしていただろう電燈は今や一本も灯ることはない。果てまで見通しても光るものはぼんやりと浮かぶ星と月だけで、照らされるのもまた真白と総介の二人しかいなかった。


「明日はまたビルのほうへ戻ろう。あそこはまだ調べきれてないからな」

「分かった。時間もまだ、沢山あるもんね」


 一つ目の缶を汁まで空っぽにし、二つ目を開けながら話しかける総介に、真白は地面に置かれた“エンタングル椎”をそっと触りながら答えた。絡まった糸のような結晶たちが、微かな月明かりを乱反射し怪しく輝く。

 再び静かな食事が始まった。だが途中で総介はふと箸を止め、真白を見上げる。総介のすぐ近くでペタンと座っていた真白だが、その目はどこか虚ろに残骸の塀の向こう側を向いていた。


「何かいたのか?」

「ううん……何も。何も無いよ、ここには」

「そっか。なら今日はもう休みな。今日は色々大変だっただろ」


 真白は右腕の切創をなぞると、ゆっくりと頷いた。そしてそっと横向きに体を伏せ、総介に顔をグッと近づけた。


「ねえ、総介さん――ありがとう。わたしを守ってくれて」

「ん? ああ、それはお互い様だろ。真白も俺を守ってくれてありがとう」

「守れるかな、わたし……総介さんを」

「まだ今日のこと気にしてんのか? 守れてるさ。今までも、今も」


 真白がギュッと背中を丸め、全身で総介と彼のトラックを囲んだ。まるで、宝物を抱いて眠る子供のように。彼女自身が総介の生きるシェルターになったかのように。

 総介は片付けを終え、トラックの中に消えていく。おやすみ、と互いに声をかけ、世界が月明かりだけになってしばらくした頃、真白はそっと呟いた。巨体に似合わぬ、誰にも聞こえないような小さな声で。


「そうだね。…………守りたい。総介さんだけでも、生きて欲しいから」


 そして真白もまた、目を閉じた。

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