人魚に魅入られた男のこと

 人魚を捕まえたいと知らない男が話しかけてきた。

 一目で分かった。こいつは人魚に魅入られている。血走った眼で男は人魚の話をする。岩に腰掛けているのを岬で見た、下半身が魚の白い肌をしたうら若き乙女だった、憂いを帯びた顔をしていた。早口で止める暇もない。

 おれの家は親父の代まで人魚釣りをしていたからこういうやつが来ることもある。陸のやつは海に慣れていないからか人魚と目を合わせてしまう。魅入られたら終わりだ。なんやかやと抵抗しても最後は餌になりに海へ入っていく。

 道端でまだなにかしら語っている男を強引に振り切って走る。家に押し入られてはたまらない。扉を締めて鍵をかけた。

 さて面倒なことになった。

 このあたりの海のやつなら人魚に魅入られて海に入っても気の毒にで済んでしまう。あの男は陸のやつだろう。陸のやつに海の道理は通じない。やれ事件だと騒がれてはたまらない。先手を打って集落の相談役に話を通しておきたいが、外に出れば男に捕まりかねない。

 考えているうちに腹が立ってきた。見知らぬ男がひとり馬鹿な真似をするのに巻き込まれてしまった。話しかけられてしまった以上知らぬ存ぜぬはできない。人魚が憂い顔をしていたからなんだというのだ、そういう顔つきだろうと人魚にも腹が立つ。

 ふと家の奥においてあるガラスの器が目に入った。キョウチクトウの人魚の花がゆらりと揺れている。もう残り二枚になった濃色の花弁はまだ捨てられない。首から下がったお守りにも花弁が一枚入っている。あの人魚は憂い顔などしない。頭をかきむしる。

 どんどん、と扉を叩く音に正気に返る。開けてください、人魚を捕まえたいのです。男が繰り返す。開けてください、開けてください。無言でやり過ごそうとしたが諦める気配がない。流石に薄ら寒いものを感じてつい返事をしてしまう。

「人魚釣りは父の代で廃業した。おれには無理だ」

「そんなことは言わずに、お願いします」

 扉を引っ掻くような音がする。金ならいくらでも積むとか他に当てはないとか気を引こうと男が声を張った。

「無理なものは無理だ」

 扉を壊すほどの力はないのだろう。どんどんと響く拳の音を耳をふさいでやり過ごす。正気でない人間と問答などできない。あたりが暗くなるとようやく音がやんだ。家から離れていく足音がする。

 男が戻ってこないのを確かめてから、灯りを手に集落の相談役を訪ねた。それは大変だったと労いを貰い晩飯を相伴になる。人魚釣りの後継を集落にひとり残させた負い目があるのかたいがいの人間は優しい。なにかあってはいけないと宿泊をすすめられて言葉に甘えた。

 数日のうちは平和だった。男が再び訪ねてくることもなかったし、近隣の漁師も妙な余所者に人魚のことで声をかけられたと配慮してくれた。

 ある朝いつもの場所へ釣りに出たときのことだ。餌を食べていた鉱石人魚がなぜか沖を見た。餌から意識をそらすなど珍しい。つられて沖を見る。

 小舟が一艘ぽつんと浮かんでいた。海から白い腕が二本すうっと伸びる。男が小舟から身を乗り出して白い腕に触れた。

 男がひっぱられて海に還るのを声もなく見て、釣具を片付ける。相談役に一報入れておく必要があった。

 男の言う人魚はやはりキョウチクトウの人魚ではなかった。

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