黒のマジョと理のハコ

伊月千種

プロローグ

シンと魔法の貸本屋

 魔法使い見習いのシンの日課は魔法のお師匠のお使いのために街中を駆け回ることだ。


 魔法関連の用具店に魔法の研究の材料や備品を買いに行ったり、魔法使い仲間に伝言を頼まれたり、街の金持ちに依頼された携帯可能な簡易魔法を届けたり……。


 朝から街を走り回っているとあっという間に夕方になってしまい、結局今日もシンはお師匠から魔法について一つも教えてもらうことなく一日が過ぎてしまった。


 弟子入りしてからだいぶ経つのに、お師匠は一向にシンに魔法を教えてくれない。何度か魔法を教えて欲しいと頼んでみたけれど、その度に「まだ早い」と言われて雑用を押し付けられてしまう。


 シンと同じ年頃の他の見習いたちもシンと同じように雑用に駆り出されているが、お師匠はその子たちには時間を見ては魔法の基礎を教えている。だからシンは自分だけが除け者にされているように感じて、最近は朝にお師匠のお邸に行くのが憂鬱になってきているのだった。


 夕暮れの街の大通りを疲れきった足を引きずりながらとぼとぼと歩いているシンは、今日何回目になるかわからないため息をついた。


 お師匠はいつになったら自分に魔法を教えてくれるのだろうか。それとも一生教えてくれないつもりなのだろうか。自分は大きくなってもずっとお師匠の小間使いのように働いて、魔法使い見習いのままなのだろうか。


 胸によぎる不安を振り切るように頭をぶんぶんと勢い良く振ると、シンの伸ばしっぱなしの真っ黒な髪の毛がビシビシと顔に当たった。それを手で払いのけて視線をあげるとシンの目に飛び込んできたのは一本の裏通り。


 ここ最近、お師匠のお邸からの帰りにいつもやるように、シンはそっとその通りを覗いてみる。大通りよりも細く暗く続くその道の向こうを見て、シンは先ほどまでの疲れを忘れたように目を輝かせた。


 シンの視線の先には看板が一つ。その看板が灯りに照らされている。それはその店が開いていることを示す合図。


 シンは鼻の穴を広げるとその通りへと迷うことなく入って行った。店の前まで来てもう一度店の軒先にかけられた看板を見上げる。魔法文字で書かれたその看板は、やはり煌々とした灯りで照らされているが、シンには魔法文字がまだ読めないのでこの店の名前はいまだにわからなかった。


 大通りから一本入った細い道にひっそりと構えられたその店はごくたまにしか開いていない。ひと月の内に開いている日数よりも閉まっている日数の方が圧倒的に多いほどだ。どうやら店主の気まぐれで開かれるらしい。


 シンは興奮した面持ちで店の扉に手をかけた。そしてそっと扉を押すと、それは音もなくするりと開く。ちょうど自分の半身が入るくらいまで扉が開いたところでシンはうかがうように顔だけ店の中に入れてみた。


 扉の目の前に、大人ひとりがようやく通れるぐらいの隙間を残して店の天井まで届く大きな棚が置かれている。その棚のせいで入り口からは店の奥がどうなっているのか見渡すことはできない。


 入り口付近をキョロキョロと見渡して目に見える場所に誰もいないことを確認すると、シンは店の中に体を滑り込ませた。


 店の中には入り口に置かれている棚と同じような棚が所狭しと並べられ、まるで迷路のような様相だ。その一つ一つの棚にはびっしりと本が収納されていて、それでも足りないといわんばかりに床にも本が積み上げられている。

 

 棚と本との間にできた細い通路を、時にくずれかかった本の山を避けながら縫うように奥へ進んでいくと、ようやく少し広い空間に出た。


 その空間の真ん中に置かれた小さな丸机には、やはり小さな本の山と何かを書きかけた紙が散らばりペンが無造作に放り出されている。そしてそのペンの横にはまだ湯気の昇るカップが一つ。まるでつい先ほどまで誰かがここにいたかのようだ。


 シンは周りを見渡して、もう少し店の奥へ進もうか逡巡した。ここより奥には行ったことがない。薄暗い店内のさらに暗くなっている奥。そこへ続く通路を覗き込もうとシンが一歩足を踏み出すと、ちょうどその通路から人影が現れた。シンが立ち止まると、その人影は「あら」と声を出した。


「いらっしゃい。思ったよりも早かったわね」


 そう言って驚いたようにシンを見下ろしたその人物は、その翡翠色の瞳をにっこりと微笑ませた。その手には机の上に置かれているのと同じ柄形のティーカップ。


「こんばんは、店主さん。お久しぶりです」


 シンがそう言うと腰まで伸びた豊かな銀髪をたなびかせた店主は机まで歩を進め、机の傍にあった椅子に腰を下ろすともう一脚の椅子をシンにすすめてくれた。


 すすめられるままに椅子に腰を下ろしたシンの目の前に店長がさっきまで持っていたティーカップが置かれる。


「冷めない内にお上がりなさいな」


 そう言った店主の耳に飾られた、その瞳と同じ色の耳飾が薄明かりに反射して鈍く光る。


 店主はシンがこの店を訪れると、いつもそれが前もってわかっていたかのようなタイミングで飲み物やお菓子を用意して待っている。何度か理由を尋ねてみたけれど、店主はただ笑って「何となくあなたが来る気がしたのよ」と言うだけだ。


「いただきます」


 ティーカップに口を付けると喉が焼けるような甘い香りと味が口中に広がる。それを一息に飲み下してシンは口から息を吐いた。


「甘すぎたかしら?」


 店主が顔を傾げたのに、シンは「おいしいです」と慌てて答えた。本当は甘いものは苦手なのだけれど、せっかくの厚意を無駄にしたくない。


「そう。良かった。私もうちの子も甘いものが好きだから、ついついお客様にも甘いものを出しちゃう時があるのよね」


 店主には子どもがいる。ちょうどシンと同じぐらいの年頃だと聞いたことがあるけれど、シンはその子を目にしたことは一度もない。店主は笑うと机に放り出されていたペンを手に取った。


「好きに見ていって良いわよ」


 店主はシンに横目で合図するとサラサラと紙の上に何かを綴りはじめた。シンにはまだ読めない魔法文字だ。紙の隅に、時に真ん中に、まるで何かの図形を描くように美しく彩られていく文字たち。


 お師匠がちゃんと魔法を教えてくれていたら、これも読めたのかな。もしかしたらシン以外の見習いのみんなはもう読めるのかもしれない。そう思うとシンは暗い気持ちになる。


「僕、ずっと魔法使い見習いのままかもしれません……」


 塞ぎこんだ気持ちでそう言うと、店主は紙に視線を落としたまま「あら、どうして?」と尋ねてきた。


「お師匠は僕には雑用ばかりさせて魔法を教えてくれないんです。他の見習いの子たちはみんなゆっくりだけれど基礎を教えてもらっているのに。僕はお掃除やお使いばっかりで、魔法文字もまだちょっとしか読めないんです」


 そのせいで最近では他の見習いのみんなにもバカにされているようにさえ感じる。


 休憩の時間にみんながお師匠に与えられた魔法の課題に励んでいるのを横目にシンは一切れのパンと水を口に流し込む。みんなが話す魔法の本の話にシンだけはついていけない。


 それが悔しくて悲しくて、シンはいつも泣き出してしまいそうになるのだ。


「お師匠は僕が嫌いなんでしょうか? だから僕にだけ魔法を教えない意地悪をするんでしょうか?」


 老年に差し掛かったお師匠の、あの鋭くて厳しい目を思い出す。お使いを上手くやってこられなかったり時間までに帰ってこないとお師匠はあの鋭い目でシンを睨みつけ、お邸中に響き渡るような大声で怒鳴るのだ。


 シンが、はあっと大きくため息をつくと店主は持っていたペンを机の上に置いてシンのほうに向き直った。美しい銀髪がさらりと揺れて、店主の切れ長の瞳が優しくシンを見つめる。


「嫌いだから意地悪で魔法を教えないなんて、そんなわけないわ。お師匠はあなたを大事に育てたいのよ」


 慰めるように言った店主に、それでもシンは納得いかずに「そうでしょうか……?」と呟く。


「もちろんよ。私は見習いをとったことはないけれど、魔法使いが見習いをとるっていうのはとっても責任重大で大変なことなのよ。知ってるでしょう?」


 確かにこの国では魔法使いの見習いをとるというのは、その見習いが一人前になるまでの責任をすべて師匠が負うということだ。ある一定のお給金を払わなければならないし、見習いを一人とるにつき国にも税金を払わなければいけない。見習いの失敗はすべてお師匠の責任になる。しかし自分の弟子が将来的に大成すればそれは同時にお師匠の名誉になる。


 優秀な魔法使いほど経済的に豊かな場合が多く、その分見習いの数も多い。見習いが多いというのは魔法使いにとって誉れ高いことだ。しかしそれは同時に大きなリスクを抱えることにもなる。


 だから魔法使いが見習いをとるときには必ずその素質、気質を見極めるのだ。そして魔法使いは見習いをとった後でその見習いに素質なし、または人格的問題を抱えていることに気づくと即座にお払い箱にしてしまうことが多い。


「でも、もし明日お師匠のところに行って見習いをやめさせられたら……」


 不安で不安で、シンは近頃夜もろくろく眠れない。このまま朝が来なければ良いのに、なんて思ってしまうときもある。


 シンが膝の上で震える手をぎゅっと握り締めると、店主は優しくシンの頭を撫でた。そして少し身を屈ませてシンの目を覗き込む。


「そんなに心配しなくて大丈夫よ。この黒くて美しい髪と瞳を持つあなたを手放すお師匠なんて世界中どこを探してもいないわ。きっとお師匠にはお師匠の考えがあるのよ」


 不思議な色を放つ目の店主にそう言われ、シンは自信なくうなずいた。


 良い魔法使いになるかどうかの素養は勉強や研究、訓練によってある程度補える。だけど魔法使いになるための絶対条件である魔力の有無は生まれつきのものだ。


 そして魔法使いの魔力の大きさはその髪の色や目の色で、ある程度決まっているとされる。


 例えばシンの目の前に立つ店主。銀の髪。翡翠の瞳。それらは例え片方のみだとしても大きな魔力を持つ証左と言われる。魔法使いの多く集うこの街でさえ、銀の髪や翡翠の瞳のどちらか片方の特徴でも持つ魔法使いにはなかなかお目にかかれない。


 そしてさらに特別と言われるのは黒髪、または黒色の瞳を持つ魔法使いだ。黒の色を身に宿す者は、時に権力者がその総力を上げて国中を探しても見つからない場合さえあると言われる。


 その特徴を持つ者たちの多くは、途方もない魔力量を身に宿し、伝説的な魔法使いとして歴史にその名を残している。


 シンは黒髪と黒の瞳の両方を持っている。つまり魔法使いの中でも、そして黒を身に宿す者としても、稀に見る莫大な魔力の持ち主として生まれてきてしまった。


 それは殊更に人目を引くようだ。昔から人々はシンのことを奇異な眼差しで見た。それはそうだ。シンだって生まれてこのかた自分以外に黒髪の人にも黒い瞳を持つ人にも出会ったことがない。


「でもこんな髪と目の色をしていても、僕は魔法なんて一つも使えません……」


 自分の容姿はシンにとっては重大な悩みの種だ。お師匠の見習いとしてお使いにいくと、時にあれやこれやと質問攻めにしてくる魔法使いがいる。それなのにシンはそれに上手く答えることができず、そうするとみんな一様にがっかりした顔をしてシンを見下ろすのだ。


 もしかしてお師匠も同じような気持ちで僕を見ているんじゃないのかな。魔力ばかり大きいだけで役立たずな自分。情けなくて悔しくて、またシンは泣きたくなった。


「魔力があっても最初は魔法を使えないのはどんな魔法使いだって同じよ。あなたはまだ見習いなんだもの。そんなに気に病むことはないわ」


 そう言うと店主はシンの手を優しく握った。


「大きな魔力を持つっていうのはね、素晴らしいことだけれど同時に恐ろしいことよ。お師匠はそれをよく知っていらっしゃるの。だからあなたを大事に育てたいのよ。お師匠を信じてあげて。きっとあなたのことをちゃんと考えてくれているから」


 店主の真剣な瞳につられてシンは弱々しくもうなずいた。


 本当にそうかな、という疑問はまだあったけれど、それでも今はその言葉にすがりたい気分だ。店主は満足そうにうなずくとシンの手を離した。


「今日は本はどうする?」


 さっぱりと切り替えたように言った店主はもう一度ペンを手に取る。


 この店は様々な種類の蔵書を抱える貸本屋だ。それこそ子供向けの絵本から料理本、歴史書、空想小説、難解な研究書など広く深く取り揃えている。


 シンはこの店に通うようになって様々な物語に出会った。最初は店主のお薦めからはじめ、最近は装丁が気になった本を自分で選んで借りるようになっている。


 しかし中には店から持ち出し禁止の本や子供向けではない本もあるため、読みたい本を見つけたときは表紙を開ける前に必ず店主に見せるのが約束だ。


「あ、あの、この前気になったのがあったのでそれを借りていってもいいですか?」


 椅子から立ち上がるとシンは背にしていた棚を振り返った。棚の真ん中あたりに視線をやって、目当ての本を見つけると背伸びしてそれを引き抜いて店主に見せる。店主はちらりと本に視線をくれると「ああ……」と何か考え込むような顔をした。


「少し、難しいかもしれないわね」


 店主のその表情に、シンは胸の前の本を見下ろしてからまた店主の顔を見上げた。


「ダメですか……?」


 おずおずと尋ねてシンは首を傾げる。


「その物語の舞台はね、魔法が存在しないとされている世界なの」


 魔法が存在しない世界。


 そんな世界、シンには想像できない。手に持ったその本を見下ろすと、その装丁は文字とも模様ともつかない美しい線で彩られている。


「そうね……。まあいいわ。持っていきなさいな」


 店主はそう言うとシンの頭を柔らかく撫でて微笑んだ。


「ありがとうございます」


 本を胸に抱え、シンは店主に微笑み返す。そして店を辞したシンは足早に家に戻り、すぐに硬い寝台の上に腰を下ろした。


 夕食の支度をしなければ、と頭の隅で考えながらも手にした本がまるでシンに早く開いて欲しいと訴えかけてくるようだ。


 まるでもらったプレゼントを開ける前のようなワクワクとドキドキ。精緻な模様の描かれた固い表紙。もしかしたらこの模様も魔法文字なのだろうか。


 その表紙に手をかけて開いた奥には、薄い紙上にまたもや美しい図柄が描かれている。そしてその真ん中に書かれた文字は、今度はシンでも読むことができた。


「ゆめみるしょうじょ……」


 たどたどしく読み上げて、シンはその薄い紙をそっとめくった。


 

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