17.遠久野ライカとは

 少しだけひび割れたライカの声に、タカローがお茶を濁す言葉すらも返せずにいると、


「ライカさん、こんばんは。社長ではなくて申し訳ありませんが」

『こんばんは。あれ、タカローは?』

「社長は明日のライブを中止するかどうか、うだうだと女々しく懊悩しております」

『…………えっ、やらないの?』


 珍しく間の抜けた声音での問い合わせ。

 それが意味するところに辿り着いて――


「ふっ、ははは……」


 思わず笑い声を漏らしてしまった


『……? タカロー? いるの?』

「ああ、うん。ひとつ、訊きたいことがあるんだけど、いいかな」

『構わないけど』


 電話の向こうにいるライカはとぼけた様子すら感じさせない。

 素のまま、ライブは開催されて当然だと考えている。タカローがそちらを選択すると、知っている。


「ライカ。……こういう話をするのは久し振りな気がする。君にとって、『遠久野ライカ』は、何だった?」


 おそらくは、ゆっくり語り合える最後の機会だからだろう。今まで訊きたくても口に出せなかった問いをしていた。

 彼女の声を耳にした時、すでに覚悟は決めていた。


 ライブは開催する。なぜなら、タカローが観たいからだ。


 けれど、もし、ライカがもはや何の感傷も浮かべていないというのなら。タカローは幕を落としたまま、遠久野ライカの命を終える覚悟を決めた。それはタカローの観たい遠久野ライカではないから。


 ライカの声を聴いて、ようやく決心がついた。

 秘書の言葉は正しい。会社の未来だの、ファンの危険だの、全く余計な要素だった。


 プリズムヴィジョンはタカローが始めた舞台だ。いつ舞台を畳むのかはタカローが、鷹詰貴朗が決める。

 もはや『遠久野ライカ』が存在しないのであれば、そんな舞台に硬貨三枚の価値は捧げられない。


 吸って、吐く。

 呼吸分の無音がスピーカーから流れる。


『――光』


 謡うように彼女は囁いた。


『私にとっても、希望だったことは間違いがない。タカローには感謝してる。だから、明日はタカローにも楽しんでほしい。最後だけど、頑張るからさ』


 タカローは眉間を指先で強く押して、声を張って答えた。


「ああ――楽しみにしてる。今日はもう寝れないと思うよ」

『懐かしいこと言ってる。子供の頃、社会科見学でパン工場に行く前の日も、同じこと言ってたのを思い出した』

「そうだったかな……。そうだったかもしれない」


 二十年近く昔の色褪せた記憶を引っ張り出してみたが、パン工場に行ったという事実しかタカローのハードディスクには残っていない。エピソードはいつの間にか劣化して、再生できなくなっていた。


『結局、寝不足で見学中も半分ぐらい寝てた。明日は寝ないでよ』


 エピソード記憶が破損している理由を知った。ライカもよくよく覚えているものだ。


 決心さえしてしまえば、とりとめのない話に花を咲かせる楽しさをも思い出せた。

 雑談配信がコンテンツとして成り立つ意味がよく分かる。好ましい相手の話は、中身がなかろうとも声を聞けるだけで楽しい。

 ここ数ヶ月、ライカと話をすると考えただけで胃が痛んでいたのが嘘のようだ。


『……あのさ』


 不意にライカが話を切った。


『ごめんね』

「いいよ」


 正直なところ、何について謝られたのか察しはつかなかったが、タカローは反射的にそう言っていた。


「自称良い女から聞いたことがあるんだけど、多少男を振り回すくらいが女はちょうど良いんだってさ」

『私の場合は、人生を捻じ曲げるぐらいだったと思う。もっと、普通だったら』


 適当な台詞を探してみたが、どうやら及第点だったらしい。

 なぜ謝罪の言葉をかけられたのか理解して、タカローは湧いてきた笑いを今度は噛み殺した。


 自分が普通じゃないがためにタカローを拘束していると、ライカは勝手に罪悪感を抱えている。

 それを今ここで初めて知った、自分の察しの悪さに呆れるばかりだ。


「もしもライカが世間一般的な女の子だったら、一億人も観測者は現れなかっただろうね」


 当然、それはライカの勘違いだ。


「そして僕もきっと、死んだ魚みたいに濁った目をしてやりたくもない仕事をしてたんだろうと思うよ。君が普通の少女じゃなかったことで、僕は幸せな時間を少なからず過ごせた自覚がある」

『でも私が普通だったら……、タカローはもっと別の人生を歩んでいて、もっと幸せになれたかもしれないよ』

「それはない」


 タカローは断言した。


「僕は君の……遠久野ライカのファンだからさ。ライカの存在しない次元は考えられないね」

『……私なんて、いくらでも代わりがいる』

「本当にそう思う?」

『思ってる。私がいても、いなくてもこの世界に大した変化は無い』

「それなら君に考えを改めてもらわなきゃいけないな。僕らは君の存在を感じられる、それだけで生命の力を滾らせるほどファン狂ってるってコト」

『……変態的な行為はダメだから、タカロー』

「しないよ!?」


 唐突にブッこまれた下ネタに過剰に反応してしまった。

 秘書が舌打ちをして、「すればいいのに、ヘタレ」と小声で蔑まれた。年々、扱いが雑になっていく。


『へたれー』

「うるさいな!?」

『あはは』


 秘書の囁きが聞こえていたらしいライカはタカローをからかうと、楽しそうにカラカラと笑った。


 スピーカーから漏れる笑い声が消え、そして代わりに沈黙が横たわる。

 ここ何年か、二人の間に空白が並ぶ度に気まずさを覚えていたタカローだったが、今に限っては程よい疲れがあった。

 かつてのように、無条件で楽しいと思えるほど子供ではなくなってしまった。けれど、沈黙を心地よく感じられるようになったのは、ようやく大人に成長したからか。

 諦念から来るやけっぱちな精神状態が、この快感すら漂う疲労をもたらしたとはとても考えられない。


 すでにタカローが持つ手札はゼロ。

 新たな手札を用意するにも、もう一度日が落ちたらそこで時間切れ。

 山札からドローしてくる余裕すらなかった。

 万策尽きた。


 だが、胸の奥底に燻る昂揚感が言っているのだ。


 ――まだ最期の瞬間は来ていない、と。


 それを確かめるべく、タカローは再びライカに尋ねた。


「ライカ、もう一つ訊いてみたかったんだけど……。君は『アイドル』の資質って何だと思う?」

『今日はなんだか難しいことばかり訊いてくる。アイドルの資質……』


 バーチャルの世界で。インターネットの中で。

 いや、現実においてもトップアイドルと評しても過言ではない人物、遠久野ライカはしかし、そっと呟いて、口籠った。


 仮にファンの数で選挙をしたら、あらゆるジャンルを超えて世界でもトップクラスの得票間違いなしのバーチャルアイドル。

 彼女が考えるアイドルとは一体何なのか。


『……うん、訊かれる今の今まで考えたこともなかったけど。たぶん、存在感を創れるかどうかじゃないかな』

「存在感、ね」

『この十年を思い返してみたけれど、私がずっと求めてきたのはやっぱりそれだから。“私を見つけて”――世界中で誰よりもそう想ってきたのは絶対に私で……、そう祈って創った写し身たる『遠久野ライカ』はたくさんの人に見つけてもらった。広い広いゼロイチの世界で、無限にあるゼロとイチの集合体でしかない遠久野ライカを観測してくれたのは、みんながライカの何かを捉えたから』

「想いの発する力が、遠久野ライカが誰をも惹きつける存在感になったって? 君には他にも魅力があると思うけど。レベルの高いライブパフォーマンスとか、気を使いすぎなほどの優しさとかさ」

『歌の巧さもダンスのキレも、その先には存在感の増大がある。どれだけ上手くやったところで、他者に認知されなければ意味のない行為。歌が巧ければ、キレのあるダンスが踊れるなら、ゲームを良い感じにプレイ出来たら、人と楽しくおはなし出来るなら……。ライカを認知した人の中で、ライカの存在が大きくなる。でも、そこは後々の努力で埋められる箇所。遠久野ライカを認知していない人にとっては何の意味もない要素』

「ああ……、一から十にすることは簡単だけれど、零から一を創り出すことは難しい。そういう話で合ってるかな」

『そう、かな。ファーストインプレッション――初見、最初の一秒で遠久野ライカを、私の存在を、脳髄に刻み込んでもらわなきゃいけない。じゃなきゃ、私は瞬く間にみんなの記憶からも消えてしまう』


 道を行く人のどれだけを覚えていられるだろうか。

 何人とすれ違ったか、五分前にすれ違った相手の性別はどちらか、身に付けていたのはショルダーバッグかハンドバッグか。およそ自身に関係のない、あるいは興味を持たない相手の存在は脳みその記録に載ったとしても時間と共に失われる。


 ライカに至ってはその時間すら与えられずにいる。


 わずかな時間で誰もを振り向かせる『何か』。

 それはヴィーナスの如き世界に冠する美貌でも良いし、セイレーンのように聴く者を惑わせる歌声でも良い。


 その一瞬で、記憶に存在を刻みつける力。

 ライカが魂から欲するモノ。


 ――確かな実在。


「なるほどね……。ライカの言うことはよく分かるよ」


 深く頷きながらタカローはライカの答えに納得を示した。


 人の意志の力というのは実際のところ馬鹿に出来ない。注目を集める女性の多い会社を運営するにあたり、視線という不可視のファクターを度々耳にする機会が増えた。その大半は女性に向けられた男性の劣情がキモいという陳情なのだが、つまりは明確に不可視の意志を感じ取れる人がいる、そうとも取れる。

 殺気や威圧など、ライカも習い事を通じて意志の力を感じることは多々あったと見受けられる。


 他者の意識に干渉する力を重要視するのは理解出来た。


『……なんだか、私の答えに不満あり?』

「いや、よく分かると言っているだろう」

『上から目線で「フフッ、なるほどね」って言うのは、違う意見を持ってる三下説明役の台詞』

「そんな風に聞こえてたらごめんね! 他意はないよ!」

『冗談』


 こんな冗談を言う子じゃなかったのに。成長に悲しみを覚えつつ、タカローは溜め息を吐いた。


「でも違う意見を持っているのは確かだよ」

『……三下説明役だった?』

「いいよ、もう、それで」


 少なくとも明日にかけては言葉通り、説明役にしかなれないモブなのだから。


「アイドルとは何なのか。どういった資質がアイドルを育てるのか。僕なりに、君たちを見てきて出した答えは、君とは異なるって話だ」


 一般的には、アイドルに求められる要素は多岐に渡る。

 容姿や歌、踊りといった身体的な要素。愛嬌やコミュニケーション能力といったメンタルファクター。

 どれか一つではなく、複数の項目を高いレベルで備えなければならないのが昨今のアイドル業界であり、その高いハードルが供給側と需要側に浸透してしまっている。

 過去の蓄積が人間としての最高峰ハイエンドを超えるべきハードルに据えてしまっているのだから、生半可な努力や才能ではそこを飛び越えるのは不可能だ。


 羽鳥ツバサや遠久野ライカはその超人的スペックで、記録に残る分野で超えられるモノは全て超えてしまった。

 後は高いハードルの前に絶望して走るのを止めてしまう者たちだけが残る。


 ――本当に?


『ふぅん……。タカローが考えるアイドルの資質? それが私にも、アリアにも、他のプリズムメンバーにもあるということ?』

「ああ。それは常に感じられるモノではないし、瞼を閉じて開いたら見逃すほどわずかな瞬間の煌めきに過ぎないかもしれない。けれど、確かに君たちは持っている。ライカ、アイドルとは何だと思う?」

『お人形さんで、どうかな』


 先程と同様に考えたこともないのだろう。遠久野ライカが世間的に何と表現されるかは、彼女の興味が及ぶところではない。

 アイドルI doll.という表現は彼女の活動において、会社とファンから与えられた後付のコンセプトなのだから。

 タカローはアンサーを舌に乗せた。


「僕の考えるアイドルとは、時代性の塊。象徴。偶像。時代が求める偶像に当てはまる人物をアイドルと呼ぶんだ」

『そんなに都合よく現れるモノ?』

「人間の歴史は人間が創る物だからさ、現れないのなら創ればいい。多くの人間を共感させる人物をアイドルとして創れば、そこには固有の時空間が生まれる。つまり、そのアイドルを知っているということに価値がある、という時代性だ。その時空間にどれだけの人数を巻き込めるかは、そのアイドルの持つ資質がどれほど優れているのかが関わってくる」

『卵が先か、鶏が先か、みたいな話をされている認識をしておく』


 ライカの感想にタカローは苦笑した。

 確かに、全くその通りだと思ったからだ。


 生まれついてのアイドルなんて史上に一人もいない。

 その性質上、誰かに観測されて初めてアイドルはアイドル足り得る。

 時代は、一人では創れない。基本的にアイドルとは後付の認知しか有り得ないのだ。


 言葉の上ではそうなるが、認知される直前までにアイドルとなっていなければ追認は成されないとも考えられる。

 認知されるよりも前にアイドルでなければアイドルには成れないという矛盾。あくまでも結果に対する評価表現、概念の一種でしかないのだろう。

 あえて商業的に使用すべく、職業として定義ローカライズされて、ようやく同じ時間域を生きる人物に当てはめられるようになった。


『それで結局のところ、資質とは? いい加減に眠くなってきた』


 あくびを隠さずふわぁとスピーカーに呼気を挟むライカ。

 時間を確認してみれば、もうすぐ日が変わろうとしている。明日も朝早くからリハーサルなど会場の準備で忙しい。台風の対応も当然ある。話を終わらせる時間が来ていた。


「ごめん、ごめん。つい話が長くなってしまう……。歳をとったせいかな」

『話が長いのは昔から』

「悪かったよ。それでアイドルの資質だけれど……これは言うだけなら簡単なことなんだ」

『タカローの言葉は回りくどいから簡単じゃないかも』


 その指摘に頭を掻くしかなかった。度々、指摘される項目だが一向に改善の余地が見られないからだ。タカローとしては気を付けているのだが。

 ゆえに、一言にまとめてみた。


「アイドルには――揺らぎの幅が必要なんだ」


『んん……やっぱり簡単じゃなかった。説明』

「えぇ……。せっかく短く表現したのに」

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