第36話


 皇后・香玲の居室へ急ぐ皓宇と朱亜。それに明豪。そこは出産の真っ最中で、多くの白い服を着た医官や女官たちが慌てた様子で出入りしている。


「どうやら、難産のようですね。時間がかかるかもしれません」


 明豪が不安そうに呟く。どうやらこれも占っていなかったようだ。


「中に入ることはできないの? 皓宇もダメ?」

「当たり前だろう! 私なんて入って行ったら、すぐに追い出される。居室に入ることができる者はごく僅かだ」


 いっそ真っ白な服を着て医官のふりをしたら……と朱亜は考える。ふとその時、羊水や血の臭いに混じって、花街で嗅いだような甘い匂いもすることに気付いた。香が好きだと聞く皇后妃。きっと心を穏やかにするために部屋で焚いているのだろう。


「……あれ?」


 その甘い香の中に……なんだか変なものが混じっているような気がした。じわじわと首がしまるような息苦しさを感じる。絶対に良いものではない、と根拠なく確信する朱亜は鼻をくんくんと動かして、周囲を探る。


「どうしたんだ、朱亜」


 あちこちの匂いを嗅ぐ朱亜を見て、あの女官に襲われた夜のことを思い出していた。彼女はあの時、鼻を利かせて邪王との繋がりを指摘していたはずだ。


「まさか、あの時のように邪王の臭いがするのか?」

「いや、邪王城の臭いとは違うんだけど……すごく嫌な感じ……」


 それは香玲皇后の部屋からではなく、遠くから匂ってきて、どんどん近づいてきているようだった。朱亜は鼻を動かしながら廊下を逆戻りしていく。その背中を追う皓宇。それと明豪。


 朱亜は美しい細工が施された箱を丁重に運ぶ2人の医官とすれ違う。俯きがちで急いで歩き、白い服に白い被り物で、口元にも真っ白な布を巻いている。まるで顔を隠しているかのよう。すれ違いざまに、医官のうちの一人と目が合った。まだ若い男で、目元に見覚えがあった――似たような目の男を毎日見ている。朱亜はハッとして足をピタリと止めた。バッと勢いよく振り返り、2人の姿を見た。それは先ほどまで追いかけていた背中だ、こんなもの見間違えるはずもない!


「そいつら捕まえて!」


 朱亜はそのうちの一人、若い男の方に飛びかかる! 驚いた男は運んでいた箱を手放してしまう。逃げようと駆けそうとするが、朱亜はその速度を上回った。腕を掴んで、強引に床に引きずり倒す朱亜。周囲から叫び声が聞こえるけれど、気に留めている場合ではない。逃げ出さんばかりに藻掻いている男の腕を強くひねり上げると、痛いのか男は叫んでいた。朱亜が顔を上げると、もう一人の男もちゃんと明豪によって捕らえられている。


「コイツ、沈泰然だ!」


 朱亜は顔を覆っていた白い布を取り去った。皓宇も続くように、明豪が捕らえた男の顔を覆う布をはぎ取る。隠されていた顔を見た明豪は驚き、声を上げた。


「おや……なんと! 秀敏様ではありませんか!」

「明豪……! お前、何をしている! おい、誰かこの不敬な者をひっ捕らえろ」


 泰然が落とした箱の中から、香炉と茶色い香の粉が入った袋が零れ落ちた。皓宇はそれを拾い上げた。


「朱亜、変な臭いとはこれか?」


 朱亜の鼻先に香を近づける皓宇。くんくんと嗅いでから、朱亜は強く頷いた。泰然は朱亜の体の下で藻掻いている。まるで、それに触れて欲しくないかのような表情だ。


「普通の香の匂いだけじゃなくて、なんか別のものも混じっている感じがする。きっと良くない物だと思う」


 皓宇も臭いを嗅ぐ。彼には兄・颯龍から話を聞いたことがあった、美しく香しい香に似せた恐ろしい凶器のことを。見るのは初めてだったが、泰然の顔を見て確信する。


「きっとこれは毒の香だ。焚いたら部屋中に毒が充満し、吸った者たちは死に至る」


 皓宇にそう指摘された泰然。彼の瞳がどんどん曇っていく。


「これを部屋で焚き、中にいる者を、皇后陛下含め全員を殺そうとしたんだな」

「そこの孟秀敏に命令されただけだ! 俺は、俺は何も知らない!」

「違う! 冤罪だ! 私はただ、皇后様が好んでいる香を贈りたくて」


 皓宇は二人を見下す。


「ならば、その医官の変装はなんだ? ただ贈るためだけならば、そのような変装もする必要はないだろう!」

「私は何も知らない! その毒だって、泰然が勝手に持ってきて……痛っ!」


 明豪はその腕を強くひねり上げる。


「往生際が悪いですよ、秀敏様」

「お前まで私を裏切るのか! 俺はお前の恩人だぞ、面倒見て、ここまで出世できたのだって俺のおかげだろう!」


 この騒ぎを聞きつけた兵士たちが続々と駆け付けてくる。皓宇が兵士に毒の香の説明をしているときに、明豪が疲れたのか拘束が緩くなり、孟秀敏は一目散に逃げだしてしまった。あとを追う兵士たち。朱亜に捕まっていた泰然は、ずっとぶつぶつと呟いている。観念したのか、体の力もがくっと抜けていた。


「え? 何? 聞こえないんだけど!」


 朱亜がそう尋ねるけれど、もう逃げられないことを悟った彼は虚空を見つめてしきりに言い訳めいたことを繰り返していた。


「全部……全部あの日から狂ったんだ……」


 あの日? 皓宇は首を傾げ、彼のつぶやきに耳を澄ませる。


「あの日、太子が目覚めた日……王宮の宝物庫を開けっ放しにした者さえいなければ……」


 その呟きに、皓宇の意識が向いた。どうしてだろう? なぜか胸に引っかかる。


 呆然としている泰然を兵に引き渡す朱亜。彼は抵抗することなく連れていかれた。孟秀敏もそんなに遠くには逃げられないだろう。きっとすぐに後を追っている兵によって捕まるはずだ。


「これで皇后様はもう大丈夫かな? ねえ、皓宇?」


 朱亜は皓宇の顔を覗き込む。朱亜とも目を合わせず、何かを真剣に考えているようだった。明豪を見ると、彼も首を傾げている。


「先ほどの沈家の後継ぎが話していたことが気になるのでしょうか? 太子云々、宝物庫云々などと言っていたような気がします」


 太子。皓宇はその言葉に引っかかっていたのだ。それに気づいた瞬間、体中に鳥肌が立ち、まるで冷水を浴びせかけられたように頭が冷たくなっていく。


 どうして今まで気づかなかったのか、気づこうとしてこなかったのか――この可能性に!


 5年前からこの国ではじまった数々の異変。そのすべての発端は――


「……雨龍だ」


 

 邪王と契約すればが、その身は依り代となり邪王は蘇るという伝承。


 王宮の宝物庫にあったかもしれない邪王の印は、いつ消えたのか。


 盗難事件発覚と前後して死線を彷徨い、神がかりのような力で目覚めたのはだったか。


 万家当主の心臓が持ち去られたのはいつだったのか。


 血命薬の、そのは。それを【】は【】か。



「朱亜、雨龍だ」

「太子様?」

「いや、まさか……信じられない。けれど、雨龍が全ての元凶ならば……」


 皓宇の頭は混乱している。あの素直な子が、まさか……と口元を押さえる。朱亜は皓宇の背中に手を添えた。


「わかった。まずは太子様に話を聞きに行こう。何かあれば、ウチが絶対皓宇の事守ってあげるから!」


 明るく、力強く笑う朱亜。暗い廊下の中だと一段とまばゆく、目が眩みそうになる。まるで太陽のような強烈な光を放ち、その背中に添えられた手も陽だまりにいるみたいに温かい。


「……よし。二手に分かれよう。明豪は朱亜と共に行ってくれ」

「もちろんです、殿下」

「一人だと危ないよ、皓宇!」


 皓宇は首を横に振る。その仕草は頼りなかったけれど、有無言わせぬ意志の強さが秘められている。


「私なら大丈夫だ。共に明るい未来を目指そう、朱亜」


 朱亜も、渋々頷いた。納得いっていない様子だが、皓宇に背を向けて歩き出す。明豪もそれに続こうとするが、皓宇が彼の袖を引く。


「頼みがある、明豪」

「私は朱亜様のモノ。もう朱亜様以外の命は聞きません」

「朱亜を守るためなんだ、力を貸してくれ」

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