人混みに流されて

 はぐれないようにお嬢様の小さな手を引いて普段から通っている侯爵家御用達の洋菓子店に向かう。

 その店は侯爵家の屋敷からそう遠くないので馬車を使う必要はなく、せいぜい歩いて十分と少しと言ったところだろう。普段通りなら、だが。


「人が多いのだわ⁉︎」


 人混みに流されそうになりながら、必死にソフィーの手にしがみつく小さなお嬢様は悲痛な叫び声を上げた。


 普段はこんなに人通りは多くないはずの道が、今日は随分と多くの人で溢れかえっていた。

 ソフィーがお嬢様の手を握りながら耳を澄ませると、彼らはあの果物が安い、いやあっちの洋服がお手頃だ、などと口を揃えて言っていた。

 それを聞いてソフィーは数日前の新聞の折り込みチラシにこの通りでセールを開くと書かれていたことを思い出した。


「ああ……」


 完全に失念していた。ソフィーは思わず後悔の意を口から漏らしてこうべを垂れた。

 一店舗だけならともかく、今回のセールは通りの店すべてが対象になっている。つまり果物、服、日用雑貨。それらすべてがセール価格でお買い得なので各々の目当ての品を求めて街中の人が、いやもしかしたら隣町からも人が集まって来ているのかもしれない。


「お嬢様……!」


 普段はソフィーたちの数歩後ろに控えている護衛がセールで興奮する人混みを強引にかき分けて来るとお嬢様に手を伸ばして近づいた。そしてそのままお嬢様を抱きかかえた。


「一度この通りを出ましょう」

「はい、その方が良さそうですね」


 お嬢様の安全を確保した護衛とアイコンタクトを交わし、護衛はその自慢の体力を持ってお嬢様を抱きかかえたまま人混みをかき分けてもう一人の護衛の元まで戻る。

 ソフィーもそのあとに続こうとしたのだが、


「あっちの鮮魚店に新鮮な魚が届いたってよ!」

「なんでも高級な魚も仕入れたって!」

「マジか、見に行かねぇと!」

「きゃ!」


 どうやら通りの端の方にある鮮魚店に新しく魚が仕入れされたようで、人混みはソフィーの進みたい方向とは真逆の奥へ奥へと向かって移動を開始した。


 護衛とは違い、がっしりとした体格ではないソフィーはいとも簡単にその人の波に攫われて、通りの奥の方に押しつぶされながら流されてしまった。


「あの!」


 人混みから脱出しようと試みるが、ソフィーの声は興奮した人々の耳には届かない。護衛のように人の流れに逆らうこともできず、ソフィーが一息付けたのは人の多い通りを抜けて、しんと静まり返った路地に出たときだった。


「どうしよう、お嬢様たちとはぐれてしまったわ」


 お嬢様には護衛が二人付いている。なのでお嬢様は無事だと考えていいのだが、問題はソフィーだ。

 実のところ、ソフィーはあまりこの周辺の土地勘がない。

 出身はそもそもこの街ではないし、普段買い物に行く店もこちらの通りではないので、ぶっちゃけるとこの路地には初めて来た。


 ちなみにソフィーたちの目的地だった洋菓子店は絶賛セール開催中のあの通りにしれっと立ち並んでいる。つまり、ソフィーはあの洋菓子店より向こう側には行ったことがなかったのだ。


「みんなと合流したいのだけど……このまま通りに戻ってもまた人混みに流されるのがオチよね」


 ソフィーの視線の先の通りには興奮冷めやらぬ客たちでごった返している。

 無理に通り抜けすることは出来ないと判断して、指を顎に添えると人が落ち着くのを待つべきか考える。


「……いや、遠回りして戻ろう」


 この路地に続く道は一つではない。人の多い大通りとはべつの道を通って行けば屋敷の方まで戻れるだろう。おそらく護衛たちも買い物は断念して先に屋敷に戻っているはずだ。

 屋敷までの道のりを誰かに聞くことができればそれが一番良かったのだが、あいにくと人はみんな大通りに集まっているようで周囲に人影はない。ソフィーは大通りをズレて隣の路地裏のような少し薄暗く人が一人もいない道を歩んだ。


「大通りと屋敷は歩いて十分近く。なら多少道が逸れていても同じくらいの時間で屋敷まで戻れる、はずだよね」


 見慣れない道をただ独り。少し孤独を感じて心細くはあるが、屋敷でお嬢様が心配しているといけないのでソフィーの歩く足は止まらなかった。

 間違って路地裏の奥に入り込まないように気をつけて進んでいく。道の端に寄せられたごみ箱の蓋の上であくびをしている野良猫を横目に、体内の方向感覚だけを頼りにして屋敷を目指した。

 一歩、一歩と足を動かしていると突然ガシャン、と大きな音が鳴ってソフィーは肩を揺らした。


「な、なに⁉︎」


 背後から聞こえた音に慌てて振り返ると、そこには走り去る野良猫の姿があった。地面にごみ箱の蓋が落ちていることから、先程の音は野良猫がごみ箱から降りたときに蓋が滑り落ちた音だったようだ。


「なんだ……」


 ソフィーはほっと胸を撫で下ろすと視線を前に戻した。再度歩こうと右足を浮き上がらせる。


「こォんなところで女の子がひとりでうろついていると危ないよォ?」

「えっ?」


 しかしどこからかねっとりとした声が聞こえてソフィーの動きが止まった。

 歩き出そうとしていた足を地に着け、周囲をきょろきょろと見渡す。だがソフィーの視界には誰の姿も見当たらない。

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