2.

 その日はどうしても断れなくて、会社の部の歓送迎会に理乃は参加していた。

 きりきりと痛む胃を抑えながら、愛想笑いをしていると、ふいに理乃の耳に「高槻」という名前が飛び込んできて、胃が締め上げられた。ぎりぎりぎり。

「向こうに行っても頑張れよ! 戻ってきたら出世コースだな」「はい! ありがとうございます! 頑張ります!」

 皆が、県外に異動になる高槻を激励していた。理乃はそれを横目で見ながら、カシスオレンジを舐めるように飲んでいた。

 ふいに肩を叩かれ、「佐藤さん、同期でしょ? ビールついできたら?」と同じ課の先輩に言われて「はい」と笑顔を浮かべ、ビール瓶を持って理乃は高槻のところへ移動した。

 高槻と目が合う。

 彼は陽気に酔っていて、しかも仕事に対する熱意もほとばしっている目で、理乃を見た。

「佐藤さん」

「高槻さん、おめでとうございます。向こうでも頑張ってください」

 理乃は笑顔で、彼のコップにビールを注いだ。そのとき、「高槻と佐藤さんは同期だったよなあ」という野太い課長の声が、理乃の耳に届いた。

 理乃が曖昧な笑みを浮かべていると、高槻は実に元気に「そうですよお」と応えた。

「佐藤さん、高槻みたいな男と結婚するといいんだぞ。実にいいやつじゃないか」

「そんなこと、ありませんよ。佐藤さんみたいな美人と俺は釣り合いませんよ」

 男同士が大声で言い合って、楽し気に笑い合う。

 理乃の胃はぎりぎりと音を立てたが、そこからどうやって立ち去っていいか分からずに、理乃はすぐに空くグラスに、「何言っているんですか」などと言いながら、笑顔でビールを注いだ。

 何度目かビールを注ごうとしたとき、「佐藤さん」と呼ばれた。

 振り返ると、川添がいて「ちょっと、いい?」と手招きをしていた。理乃はほっとした気持ちを隠しながら、「じゃ」と高槻たちに挨拶をして、川添のもとに行った。「どうしたの?」「うん、ちょっと。あ、荷物は鞄だけ? 鞄持って来てくれる?」

 宴会場から鞄を持って抜け出すと、川添に導かれるままに理乃はお店の外に出た。熱気の籠った店内から出て吸う外の空気が気持ちよくて、理乃は深く息を吸った。

「あの、用事は?」

「あ、うん、もう済んだよ」

「え?」

「あの場にいたくなかったでしょ? このまま帰ろうよ」

「え? あの?」

 川添は理乃に顔を近づけて、言った。「高槻さんとつきあっていたでしょ? でも転勤するから別れたんだよね?」

「どうして」

 確かにその通りだった。でも、高槻とつきあっていることは誰にも言っていなかった。高槻が「面倒なことになると嫌だから。結婚するまでは皆に黙っておこう」と言ったからだった。理乃は三年の間、恋人の存在を誰にも言わないで過ごしていた。

「どうして、知っているの?」

 理乃は急に氷の海に落ちたように感じて、震える声で言った。

「偶然。偶然、見ちゃったんだ。佐藤さんと高槻さんが車に乗っているのを」

 高槻とのデートはいつも車だった。その方が、会社の誰かに見られることがないだろうから、と。

「それから二人を会社で見て――分かったんだ」

「そう。……他にも気づいている人、いるのかしら」

「いないと思うよ。僕だけだと思う。……で、別れたのも分かったんだよね、なんとなく。当たっているでしょ? ――それで、あの中にいるのはきついよね」

 氷の海の中にいたはずの理乃の目が、急に温かくなった。何か、温かいものが次から次へと溢れて来た。

「佐藤さん?」

「え?」

「泣かせちゃったね。――ごめん」

「……あたし、泣いているの?」

「気づいてないの?」

 理乃はそのままずっと泣き続け、「佐藤さん、そろそろ帰らない?」という川添の言葉にも黙って首を振った。人が行き交う夜の猥雑な往来で、理乃は涙を止めることが出来なかった。そう言えば、高槻と別れてから泣けていなかったことを、理乃は思い出した。「転勤するから」と別れを告げられて、「遠距離恋愛って、俺、出来ないんだよね」「結婚? まだそんな話していないよね?」と言われ、理乃は怒ったりすることも出来ずに、ただ「分かった」としか言えなかったのだ。「理乃のこと、本当に好きだったよ」と高槻は最後に優しい顔をした。その顔が、理乃はどうしても忘れられないでいた。

「佐藤さん」何度目かの川添の呼びかけに理乃は「川添くん、ありがとう。先、帰って。あたし、まだ帰らない」と言った。本当は「帰れない」の間違いだった。高槻がよく泊まりに来ていた自分の部屋に、今日はどうしても帰る気持ちになれないでいた。

「……分かった。ちょっと待っててくれる?」

 川添はしばらく姿を消し、それから少し先の大通りへ理乃を導いて、理乃をタクシーに乗せ自分も乗り、自分のマンションへ理乃を招いたのだった。

 

「適当に座ってくれる? それから、これ」

 川添はコンビニの袋を差し出した。見ると、メイク落としや化粧品などのお泊りセットが入っていた。理乃は思わず笑いながら「ありがとう。鏡、借りていい?」と言って、洗面所に行った。鏡に映った理乃の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていて、素顔は恥ずかしい気もしたけれど、お化粧が崩れ切った顔の方が見苦しかったので、お化粧を落として理乃はすっきりした気持ちになった。洗面所には女性物の化粧品が置かれていた。

「ごめん。彼女と暮らしているんだよね」

「うん、そう。でも今日、アイツは実家に行くから。あ、メイクを落としたゴミは持って帰って。ごめんね」

 川添はそう言って、ホットコーヒーを理乃の前に差し出した。

「ううん、ありがとう。……おいしい。……今日はごめんね」

「気にしなくていいよ」

 川添もそう言って、コーヒーを飲んだ。

 理乃は川添と目が合って――その目の中にゆらゆらと揺れるものを感じた。その揺らぎは自分の中にもあるように思えて、理乃は川添の唇に自分の唇を寄せたのだった。

 そうして、理乃は川添とぬるい海の中でたゆたうようになった。

 理乃には欠落があって、川添にも同じ欠落があるように感じた。

 川添には、噂によれば十年つきあっている彼女がいるらしかった。会社で見る川添は長年つきあった恋人を大切にしている好青年だった。でも、理乃と二人でいるときの彼は、やはり理乃と同じ欠落を抱えているようだ、と理乃は思っていた。

 理乃は川添と「友だち」になってから、シンと出会ってつきあうことにした。それでも、理乃の心の中にある欠落は埋まらなかった。それと同じなのだ。

 もちろん、川添といても、欠落は埋まるわけではない。

 理乃はそう感じているし、川添もそうだろうと理乃は思っている。

 だけど、ぬるい海の中で、お互いがお互いを感じているときだけ、理乃は安心出来る。言葉は要らない。ただ、躰だけがあればいい。目を閉じて、吸い込まれるように沈んでゆき、そしてぬるんだ中でたゆたう。ゆらゆらと。

 そうしている間だけ、欠落のことは忘れられる。


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