カエル沼

右左上左右右

第1話 香弥

 それは、夏の暑い日だった。小学校に上がる前の最後の夏。引っ越して来た最初の夏。抜けるような青空と真っ白な入道雲、そして濃い緑が視界を占める。山には、子供達が【カエル沼】と呼ぶ小さな水溜まりがあった。カエルが沢山いるから【カエル沼】だ。水草が水面を覆い、所狭しと大小の茶色や黒いカエルが顔を出す。そして、ゲコゲコと鳴くのだ。夏のこの時期、オタマジャクシからカエルへと変わるカエルを取りに、男の子達は一度はカエル沼を訪れる。それは、夏休みの宿題の自由研究のためであったり、観察日記のためであったりしたが、母親達からは口を酸っぱくして「危ないから行ってはいけない」と言われていた場所でもあった。それでも、男の子達は大人の目を盗んでカエル沼へと行く。上級生が下級生の面倒を見る形で連れ立って行くのだ。流石に一人では行かない約束になっていた。それは、男の子達の気持ちが理解できる父親達からの提案であり、大人達からの最低限の譲歩でもあった。

 この年、この地へ引っ越して来ていた拓海も、従兄達を羨ましがり、カエルを取りに行きたがった。だが、まだ就学前と言う事もあって、年上の従兄達には置いて行かれてしまっていた。

「チビどもは来年な」

 などとあしらわれ、広い畳の間に寝転がり、不貞腐れていた。田舎の広い祖父母の家は掃き出し窓が開け放たれ、外と家の境など無いかのように濃い空気の塊が家中を吹き抜ける。

 拓海がアレルギーを発症したのは、四歳の頃だ。両親と共に病院に通い、治療を続けるも一向に良くならない事に両親も拓海も疲れ果てた事で、父方の祖父母が同居を申し出てきた。祖父母と言ってもまだ若い。三十代の拓海の父の親はまだ還暦にもなっていない。それに拓海の父の実家には、拓海の従兄妹一家も居る。大人達が農家をやりながら、お互いにフォローを入れる事は難しくなさそうだった。かくして、今年の夏から、拓海は祖父母宅で生活する事と相成ったのである。

「ねぇー、ねぇねぇねぇ」

 十畳は軽く有る畳の部屋で寝転がる拓海を揺するのは、同い年の従妹の香弥だ。肩で揃えたサラサラの髪を揺らし、ピンクのTシャツにジーンズの半ズボン。どちらも香弥の好きな日曜朝のアニメキャラクターのイラストが入っている。

「おきてー。あそぼー」

「やだよ。かやちゃん、いじわるなんだもん」

 田舎へ引っ越して約一ヶ月。拓海は既に香弥に何回も泣かされていた。

 香弥には兄ばかり三人も居る。小六、小四、小二の兄達ばかりの香弥の【遊び】は、拓海には乱暴に過ぎた。

 曰く、カメムシを集めてガチャガチャの空カプセルに詰める。それはもうミッシリと詰める。

 曰く、アリの巣に酢や醤油を入れる。テーブルに置いてある物を使うので、祖母や母達に見つかれば怒られる。が、香弥は懲りもせずに何度もこれを繰り返す。

 曰く、芋虫や毛虫を千切る。手で千切る事もあれば、オモチャの包丁で潰し切るコトもある。そして飼い犬の餌皿に入れて「さぁ食べなさい」と言うが、犬は迷惑そうにするだけだ。

 曰く、拓海の背や腹に飛び乗る。恐らくは祖父や父や兄にするように、同じようにしているだけなのだろうが、いかんせん、田舎育ちの香弥よりも拓海の方が細くて軽い。しかもアレルギーのせいで食も細く体も弱い。五歳の子供が自分より大きな体格の子に飛び乗られ、平気でいられる筈もなかった。これには、香弥の父母も祖父母も香弥を叱った。

「ふーんだ、なきむし」

 香弥が兄の口調を真似て言う。

「なきむしで、いいよ。かやちゃん、いじわるなんだもん」

 プイと寝転がったまま背を向ける拓海に、香弥が言う。

「ねぇ、カエル沼行こうよ」

「ほんと? でも、小さい子だけじゃダメだよ。怒られちゃうよ」

 拓海は勢い良く起き上がった。従兄達に置いて行かれているのだ。行けるものなら行きたい。

「兄ちゃん達が居るんだから大丈夫だよ」

 香弥は拓海の手を強引に引っ張り、縁側のサンダルを履く。拓海も引き摺られるように縁側でサンダルを履いた。

 拓海の足では、カエル沼迄はかなり遠かった。いくつもの畑の間を抜け、雑木林を突っ切り、山の麓迄に一時間半。ビーチサンダルの鼻緒が親指と人差し指の間の皮を削り、ヒリヒリと痛んだ。山を登り始めると、香弥はするすると登り、もたつく拓海と手を繋ぐのを嫌がった。「ねぇ、まだ? なんでそんな遅いの?」と何度も聞きに戻って来る香弥は、汗一つかいていない。対照的に拓海は滝の汗とゼイゼイと鳴る喉で声すら出ない。プンプンと顔の回りを飛び回る小さな虫が気持ち悪い。山の中は日が遮られ薄暗く、斜め下は真っ暗に見える。こんな所で置いて行かれたら帰れるかどうかもわからない不安から、拓海は必死で香弥の背を追い掛けた。ややあって、漸くカエル沼に到着した頃には、既に太陽が真上に来ていた。初めてカエル沼を見た拓海はポカンと口を開ける。やや開けた場所に、木漏れ日で反射する緑色の水面。沼の向こう側はどこからどこまで水が有るのかわかりにくく森に溶けるように一体化している。水草が花を咲かせ、大きめの葉の上でカエルが3匹重なって日向ぼっこしている。時折キラリと光るのは魚だろうか? 盛り上がった葉の下にもカエルの顔が見えた。まだ尻尾の取れないオタマジャクシからカエルになる途中のやつが泳ぐのも見えた。カエル沼の縁から水面を覗き込む香弥ごと、一枚の絵画の様に美しかった。

「すごい! すごいね! すごい!」

 ふらふらとカエル沼へ近付き、掠れた声で拓海が言うと、香弥が拓海を見る。次の瞬間、香弥が水音と共に消えた。慌てる拓海の手を、水面から伸びた手が掴む。

 水の中から、香弥が見ていた。

 悲鳴を上げながら引っ張り上げ、香弥の顔が水面から出たのと同時にしりもちを付く。

「助けて! たっくん!」

 恐怖からだろうか、香弥が笑ってるように見えた。一瞬弛んだ拓海の手から香弥の手が離れる。

 そして、香弥の顔から表情が消えた。

 ズルリと一息に沼に引き摺り込まれるように、香弥が沈んだ。

 香弥の名を叫び、拓海は水面に手と顔を突っ込んだが、強い衝撃で後ろへと跳ね飛ばされた。

「下がってろ!」

 ゴロゴロと転がり、木にぶつかって止まった。顔を上げると、香弥の兄達が騒いでカエル沼を覗き込んでいる。目に、何かが入って、視界が赤く染まる。兄の一人が大人を呼びに走る所で、拓海の意識が途切れた。

 拓海が目を覚ました時、線香の匂いがした。祖父母の家の、一室だった。広い畳の部屋は襖を閉めきられ、人の気配が遠い。

「……っ」

 声を出そうとして、喉がひりつくのを感じる。コポリ、と耳の中で音がした。枕元に置いてあったペットボトルの水を口に含む。生臭さに思わず吐き出すと、何かが喉に絡んだ。指を口に突っ込んで、嘔吐していると物音に気付いた母親が駆け込んで来た。

「拓海! どうしたの!? 苦しいの?」

 母親の声が、やけに遠い。

 母親が、拓海の口に指を突っ込み、触れた物を一気に引き抜いた。それは、水草だった。布団の上に撒き散らされた嘔吐した水は生臭く、拓海の喉の奥から引き抜かれた水草には、カエルの卵が絡み付いていた。


 香弥の葬儀は、しめやかに行われた。祭壇には花と写真が飾られ、お坊さんを呼び、祖父母の家の庭に受付を作って、沢山の拓海の知らない大人が集まった。襖を開け放ち、沢山の座布団が並べられ、隣の部屋には沢山の料理がどこから集められたのかいくつものテーブルに乗せられている。女性はみんな黒い服の上からエプロンをして慌ただしく動き回っていた。

父親に白いシャツとズボンへと着替えを促される。引っ越し前に通っていた幼稚園の物だ。紺のズボン、白のシャツ、幼稚園の紋章の入ったネクタイ。ぼうっとした頭で、拓海は鏡を見た。まるで、引っ越し前のような、あの頃から何も起きてないような、幼稚園に通っていた時の拓海が、そこには居た。

促されるまま祭壇の近く、前の方に座ると、両隣に両親が座った。先に座っていた男性達の間に、女性達が座っていく。そして、最後に金と紫の袈裟を纏ったお坊さんが祖母に案内されて奥から現れ、祭壇の真ん中、香弥の写真の真ん前に、腰を下ろした。読経が始まり、木魚と鈴が鳴らされるが、拓海の耳は、水が入ったかのように上手く聞き取る事ができなかった。 お坊さんが何を言っているのかもどのタイミングで木魚と鈴が鳴らされるかもわからない。ぼんやりとしている内に、お経は終わり、気付くとお坊さんが自分の方を向いていた。そして、お坊さんの視線が、父の横、従兄達を一人ずつ捕らえていく。

 そして、何やら難しい話を始めていたと思う。

 隣の部屋へと促され、食事会が始まったが、母に眠いと訴え、部屋へと戻った。寝巻きに着替え、綺麗な布団に横になり、目を瞑ると、全部、夢だったのだと思えた。コポリ、と、また耳の中で水が鳴る。

 葬儀の翌日、雨が降った。朝から降りやまぬ雨の音の中に、カエルの鳴き声が聞こえた。

 疲れ切った表情の香弥の両親と祖父母、それに兄達の誰も、誰一人として、拓海を責めなかった。拓海の足ではカエル沼まで遠過ぎる事も、拓海がカエル沼の場所を知らない事も、拓海が率先して山の中に入る事はしない事も、理解していた。だから、だろうか、拓海の耳に“それ”が聞こえ始めたのは。

 ザアと鳴る雨音に混じり、カエルの声が聞こえ、カエルの声に混じり、子供の声が、聞こえた。「……たっくん……」と、はっきりと、香弥の声が、拓海には聞こえた。やっぱり、香弥が死んだなんて夢だったのだ。

「拓海? どうしたの?」

「かやちゃんが、お外にいるの」

 立ち上がり、玄関へと走り出そうとした拓海を、母親が抱き締める。

「香弥ちゃんは、香弥ちゃんはね……」

「なあに? かやちゃんが呼んでるから、ぼく、行かなきゃ」

 抱き締めて泣き崩れる母親をぼんやりと眺める。なぜ、お母さんは泣いてるんだろう?

「香弥はオジサンが見に行くから、拓海はご飯を食べなさい」

 香弥の父親が立ち上がると、拓海の頭を一つ撫で、玄関へと向かった。ガラリと戸の開く音がして、雨の音と匂いが強くなる。そして、ややあってから、香弥の父親が戻って来た。煙草の臭いがした。誰も、何も言わなかった。

 それから、拓海には、雨の日にはカエルの声に混じって香弥の声が聞こえるようになった。だが、それを言うと、香弥の一番上の兄が滅茶苦茶に怒ったので、以来、その事は口に出さなくなった。


 拓海の小学校入学前に、拓海と両親は再び引っ越しする事となった。拓海の様子からカウンセリングを受け、このまま留まるのは、拓海にとって良くないと大人達で話し合った結果だった。どうしたって、香弥の家族は、死んだのが香弥だったのか? なぜ拓海が無事で香弥が死なねばならなかったのか、と考えてしまう。恨みたくない。その内、恨んでしまいそうで怖いと、香弥の母親の言葉が決定打となった。

 引っ越し当日。

 小雨の中、荷物を詰んだ車の回り、びっしりと何十匹ものカエルが取り囲んでいた。

 目の合った一匹のカエルが口を開く。

「……たっくん……」

 香弥の声で。

「……たっくん……」

 他のカエルが口を開いた。

「……たっくん……」「……たっくん……」「……たっくん……」「……たっくん……」「……たっくん……」「……たっくん……」「……たっくん……」「……たっくん……」「……たっくん……」「……たっくん……」

 数十匹のカエルが口々に香弥の声で、拓海を呼ぶ。

「……たっくん……」

「拓海、どうし……やだ何このカエル!?」

「かやちゃんが…かやちゃんがカエルになっちゃったよおお」

 泣き叫ぶ拓海を母親が後部座席に押し込み、抱き締める。

 運転席に乗り込んだ父親が、お構い無しにカエルを踏み潰し、出発させた。途中、ガソリンスタンドでガソリンを入れるついでに、洗車機へ車を突っ込む。その頃には、拓海は泣き疲れたのだろう、眠っており、カエルの残骸を洗い流すと、県を幾つか跨いだ新居へ到着するまでには、拓海はすっかりと落ち着いていた。

 新居の鍵を開け、荷物を運び込む。その中には真新しいランドセルもあった。

 拓海のための子供部屋が与えられ、次の休みには勉強机とベッドを買いに行こうと無理矢理笑顔を作る両親に、拓海は笑顔を返す。そして、その向こう。

 窓の外、すぐそこの電信柱に、一羽のカラスが、留まっていた。

 目が、合う。

 カラスは、何かを咥えていた。

 ピクピクと元気に手足を伸ばすソレは、カエルだった。

 拓海が息を飲んだ瞬間、カラスがカエルを丸呑みにした。

 グッグッと喉の奥に押しやられ、跡形も無くなる。そして。

「……たっくん……」

 カラスが、香弥の声で、拓海を呼んだ。

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