phrase10 レヴィンのうきうきオルガン講座

 ひときわ大きな音が響き渡った。


 なごやかだったこの場の空気を、一瞬で切り裂く鋭い音。聴いたことがあるフレーズだ。

 世界が強大な音に満たされる。教会の空気の全てが、奏者の指先から湧き上がり、わたしの意識に叩きつけられているような錯覚さっかくを覚える。


 いかにも試奏らしく立ったまま弾いていたリーネルトさんは、フレーズの合い間にさっと椅子に座り、足を使い始めた。


 高らかに響く序盤のフレーズの後、足の動きで、地の底から響き渡るような重低音が入る。さらに両手が、一つずつ重厚な音を重ねていく。そうして完成した不協和音が、禍々まがまがしいとも思えるほどの不穏な迫力で、鼓膜にビリビリと揺さぶりをかけてきた。


 重々しい不協和音は、音を伸ばしたまま、やがて純正の美しい和音へと姿を変える。

 人間の意識を地の底から押し上げ、輝く天上へといざなう。なんて崇高な響きだろう。


 音が消える。残響の長さに驚く。いつまでも、音に全身を包まれているみたいだ。


 レヴィンさんが、軽く手を振って合図した。


 バルコニー上から合図を目視したリーネルトさんが、演奏台コンソール右側のボタンをいくつか押し、別の一つを引っぱった。

 わたしが不思議に思っていた、ドアノブのような大きなボタンだ。


 また、リーネルトさんの両手が動き、新たなフレーズが響き始めた。

 これもまた、よく知っている曲だ。

 でも、音色がさっきとはまるで違う。柔らかな、夢の中にいるような可愛らしい高音。あのボタンは、音色を変えるためのものなんだ。


 少しだけ弾いた後、きりのいいところで演奏が締めくくられた。


『ありがとう、リーネルト』


 レヴィンさんが軽く手を叩いた。


『最初の部分だけですが、音のサンプルを聴いていただきました。いかがですか?』

「両方、知ってる曲でした。でも、わたしが知っているのとは、音が全然違う……」


 ほうけたようなわたしの反応に、レヴィンさんはまたにこやかに説明を続けてくれた。


『両方バッハの曲です。最初の曲は「トッカータとフーガ ニ短調」。オルガン曲としてはもっとも有名な曲の一つですね。プリンシパルと呼ばれる、オルガンの基本となる音色です。次の曲は「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声」。柔らかなフルート系の音です。まるで天使が遊んでいるような音ですよね』


 レヴィンさんは、話しながら、鏡を持ってまたバルコニーへと階段を上がっていく。


 確かに、両方ともわたしが知っている曲だった。

 でも、想定される楽器はハーモニウム(リード・オルガン)やチェンバロだったはず。同じ作曲家による同じ曲が存在していても、使われるはずの楽器がまるで違う。

 つまりこの世界は、ミラマリアさんの世界のように、わたしの世界とは全く違う世界で。

 本当に、この楽器――パイプオルガンは、わたしの世界にはない楽器なんだ。



 * * *



『リーネルト、いつの間にか弾けるようになってたんだね~』

『最初の方だけですよ。なんせ譜面が見つからないので』


 リーネルトさんが不満そうな顔で、まだ完全には片付いていない演奏台コンソール周りを指し示した。

 レヴィンさんは、助手アシスタントの不満顔もどこ吹く風、右側にある例のボタンを嬉しそうに引っぱってみせる。


『これで音色を変えるんですよ。壁に押したままの状態が、音が鳴らない状態です。音を止めているという意味で「ストップ」と呼ばれます。ドイツ語では「レギスター」ですが、海外の人にもわかりやすいように「ストップ」と呼びますね。で、これを引っぱると、音が解放されます』


 実際に鍵盤で音を一つ出しながら、引っぱられた状態の「ストップ」を押し戻すと、音が消えた。次に別のストップを引き、まったく違う音が鳴るのを確認できた。


『このストップと鍵盤、あと細かい装置もいくつかありますが、これらを操作することで演奏音が決定します。で、演奏台ここで指示された音が――リーネルト、この音押さえてて――このパイプから、出てくるんですよ!』


 話しながら、すぐ真上にある細いパイプの前で、ふりふりと手を振って見せてくれた。


『ここ、この「歌口」から風が出てくるんです! わかりますか?』


「歌口」とは、パイプの下の方にある、横に細長い穴のことらしい。

 残念ながら、画面越し、もとい鏡越しなので、風を直接感じることはできない。でもレヴィンさんのはりきった様子を見てると、本当に風が出ているのが感じられるような気がする。


『この辺にあるパイプが今の音、プリンシパルです』


 なんと、椅子の上に立ち上がり、パイプ群の中に手を突っ込んで、一本抜き取ってしまった。


『ほら、外すと音が消えました』


 元の場所に差し込むと、また音が出た。わかりやすい。


『音色はパイプのサイズ・材質・形状、歌口の調整によって決定されます。耳に聞こえないほど高~い音のパイプは、長さが約一センチ。一番音が低い物は、六メートル近くあります。端の方にある、あのデーッカいパイプですね』


 リーネルトさんに「一番低い音」を出してもらい、端っこまで駆け寄ってまた手をぴょこぴょこ振るレヴィンさん。

 さっきの『トッカータとフーガ 』でも聴いた、迫力の重低音だ。振動が、ビリビリとここまで伝わってくるような気がする。


 その後、パイプ群がずらりと立てられている「別室」にも案内してもらった。

 オルガン本体のすぐ裏側にある小部屋。人一人がやっと通れるくらい狭い通路を行き来して、サイズも材質も形状も違うパイプがどこまでも続く壮観な部屋を眺める。  

 この部屋は狭いはしごで三階まで続いているというから、本当に四千本ものパイプがぎっちりと詰め込まれているのだ。


『パイプは「風箱ウィンドチェスト」と呼ばれる箱の上に開けられた穴に、一本ずつ差し込まれています。この箱の中を風が通り、パイプの下側から風が送り込まれて音が鳴ります。「ストップ」は、どのパイプ列に風を通し、また通さないかを決定する装置なんです。どのパイプも、一本につきそれぞれ一種の音色と音程を持っているわけですから、多彩な曲を弾こうとすればするほど本数が多くなっちゃうんです。全部のパイプを見てくださる調律師さんには、ほんと頭が上がりませんよ~』


 八十八鍵のピアノの調律だって、あんなに大変なのに。気が遠くなりそうな規模だなあ……。


『風は、今は送風機を使うことが多いんですが、昔は人力でふいごを動かしてたんです。お金持ちだとふいご職人をたくさん雇えるから、オルガンの音の大きさで村や教会の財力がわかったなんて話もあります。ここのは送風機ですが、今でも人力で動かしてる所はありますよ。電動の機械はどうしてもモーター音などが音に影響してしまいますからね』


 言いながら、ぎっこんばったんと足や手を使って「ふいごで風を起こすジェスチャー」をして見せてくれるレヴィンさん。なんだかオルガンより、レヴィンさんの観察の方が面白くなってきた。


 それから、鍵盤から風箱ウィンドチェストまで「トラッカー」と呼ばれる木製の機構が演奏指示を伝える仕組みのこと、音の強弱の付け方、簡単なオルガンの歴史など、たくさんのことをわかりやすく教えてもらった。

 ミラマリアさんは、熱心に聞き耳を立て、バリバリにメモを取っている。たぶん録画もしてるだろう。楽器を研究する彼女にとって、わたしの世界に存在しない楽器の情報は、今しか得られない超お宝情報なのだ。


『ピアノは、ハンマーが弦を叩くことで音が出ますから、鍵盤楽器であると同時に弦楽器でもあり打楽器でもあります。オルガンは風で音が出ますから、鍵盤楽器であると同時に管楽器、つまり笛なんです。だからパイプのことを笛と呼ぶこともあります。小人から巨人まで、色んなサイズ・種族の人たちが一本ずつ笛を持って出番を待っている――なんて考えたら、ちょっと可愛くないですか?』

『別に可愛くないし、四千の視線が痛すぎて演奏どころじゃなくなりますね』


 リーネルトさんが容赦のない一言を浴びせる。

 彼は歯に衣着せない面もあるけれど、レヴィンさんの「うきうきオルガン講座」に辛抱強く付き合ってくれている。先生の指示に最速でこたえてくれる、有能な助手アシスタントさんだ。


『そーいうこと言うリーネルトくんには、また一曲弾いてもらおっかな~。ほら、今度弾く予定の――』

『嫌ですよ!』


 最速の反応。うん、さすがリーネルトさんだ。


『僕が弾くのは試奏だけです。いくらなんでも、初めて聴くオルガン曲が助手アシスタントの演奏じゃ、この人たちに悪いじゃないですか!』


 わたしたち、「悪霊」から「人」に格上げしてもらえたみたい。よかった。


『――それに、世界最高のオルガニストが目の前にいるのに……!』


 え。


 即座に、水を得た魚のようにミラマリアさんからヒソヒソチャットが入る。


『奥様奥様、ちょっと今の発言お聞きになりまして? 生意気属性の少年が、ついに師匠にデレましたわよ』

「しかと聞きましたわ。今夜は別ジャンルの執筆がはかどってしまいそうですわね」


 わたしたちのしょうもないチャットは置いといて。

 下を向いてしまったリーネルトさんの表情に、気づいているのかいないのか。レヴィンさんは、相変わらず楽しそうな口調でバルコニーを歩き回っている。


『僕程度を最高だなんて言っちゃダメだよ~。世界にはまだまだ、物凄い奏者がたーっくさんいるんだから。きみはまだまだこれから、世界に出てたーっくさんの音楽を勉強できるんだからね』

『…………』


 何かが、リーネルトさんの口から洩れたような気がした。よく聞こえなかったけど。


『リネさん、ミラマリアさん。すっかり話が長くなってしまいましたが、お時間は大丈夫ですか? ここまで説明を聞いていただいたことですし、私でよければ少し曲をお聴かせしたいのですが』

「ぜんっぜん大丈夫です! むしろお願いしますっ!」

『大先生の無料コンサート、大感激ですぅー!』


 すっごく濃密な時間を過ごさせてもらってるけど、時計を見ると、最初にミラマリアさんと通話を始めた時からまだ一時間ちょっとしか経っていない。

 まだまだ、夜は長いのだ!

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