phrase3 わたしの最推しピアニスト

 香ばしい匂いが鼻腔びこうに届く。

 ジュワッと肉が焼ける、至高の音楽まで聞こえてきた。

 間違いない。これは兄が奏でる、『ベーコンとソーセージのカンタータ』!


 こうしちゃいられない。

 ダイニングに一歩入りかけた足を、くるっと回れ右。

 キッチンにいるのが家事代行の米原よねはらさんだったらジャージ・デ・パジャマのままテーブルに直行しちゃうんだけど、二ヶ月以上に及ぶ海外活動から帰ってきたばかりの兄にこんな姿は見せられない。


 この時のために用意してあった服を着る。

 清楚系の白ブラウスと、エメラルドグリーンのフレアロングスカート。唇には控えめにピンクのグロス。毛先にウェーブのかかった長い茶髪を、ハーフアップでくるりんぱ。サイドに兄からもらった鍵盤デザインのヘアピンをパチリ。


「おはよう、朝食できてるよ」


 ダイニングに入ると、二ヶ月ぶりに光り輝く兄の笑顔。

 はわぁぁ。我が兄ながら、顔がいい。声がいい。今日も兄活アニカツがはかどりそうです。


音兄おとにい、おはようでお帰りー! 予定より帰ってくるの早くない?」

「本当は都内で一泊する予定だったけど、疲れたから昨日のうちに帰ってきたんだ」


 ってことは、ゆうべ、ここまでマネージャーさんに送ってもらったのか。全然気づかなかった。この家、無駄に広いからなあ。


 我が兄、ピアニストの川波かわなみ音葉おとは

 音兄には、一流の音楽家として生きるには致命的な弱点がある。とにかく、多数の人に囲まれるのが苦手なのだ。


 リサイタルのステージ上では長時間たった一人で自分をさらけ出さないといけないのに、ステージを降りた途端、数えきれないほどの人間に囲まれる。

 事務所の皆さん、調律師さん、楽器メーカー関係者、レコーディング関係者、ホール関係者、イベント関係者……さらに他のプレイヤー仲間や恩師の関係者、教育関係者、マスコミにファンの皆様と、数え上げたらキリがない。

 人の群れに疲れて途中で抜け出してしまうのも、今回だけではないのだ。


 わたしとしては、疲れた時に真っ先に帰ってくるのがこの家だと思うと、ただそれだけで嬉しい。


 タイミングよくパンが焼けた。カチャカチャと、兄が朝食を並べる音がする。わたしも手伝う。嬉しい。


「さっき、一度自分の部屋に戻ったでしょ」


 バレてる。


「そりゃ戻るよー。わたしジャージだったもん」

「ジャージのままでよかったのに」

「わたしがよくない! 複雑な乙女心ってやつです」

「複雑なんだね。今度の曲想の参考にしとくよ」

「音兄、今度何弾くんだっけ?」

理音りねのソナタ」

「またー。確か『居酒屋の踊り』に『死霊の群れ』、あと『悲愴』だったよね?」

「全部『理音のテーマ』でよくない?」

「よくなーい!」


 カリッとふわふわ厚切りトーストに、兄が焼いてくれたベーコンとソーセージと目玉焼き。

 いつものようにわたしの肩に乗ってる温玉ちゃんを見て、音兄が「卵の相棒バディ・エッグの前で卵料理って、なんかシュールだよね」と笑う。


「別にいいんじゃない? ペットの魚飼ってる人も魚食べるし」

「いつか温泉卵と間違えて食べたらごめん」

「間違えてないけど、そりゃ大変だ。で、今日は目玉焼きに何かけて食べるの?」

「理音に合わせる」

「またまたー、主体性がないよー。目玉焼きに何をかけるかって、戦争が起きかねないほどの一大テーマなのにー」

「俺、何味でも食べられるもん。味噌味でもキムチ味でも」

「鍋焼きうどんみたい」

「このコンソメスープに入れるという手もある」

「あ、美味しそう」

「香港の屋台で麺に乗っかったのもあったよ。目玉焼きって、ホテルの朝食の定番だし、どこの国へ行ってもだいたい食べられる。ガパオライスやロコモコ丼に乗っけるのもいいよね」

「世界に広がる目玉焼きの輪」

「でも、やっぱり日本の我が家流が一番落ち着く」

「じゃあ、初心に帰って」

「日本に帰って」


 二人でちーっと、醤油をかけた。



 * * *



 ひと通り食器を片付けた頃、兄が姿勢を正し、神妙な顔で言った。


「理音。今すぐ話さなきゃならない、大事な話がある」

「何でしょう」

「ツアーの途中で、お土産にケーキをもらったんだけど、賞味期限が二日後なんだ」

「わーっ、今すぐ食べよう! わたし紅茶淹れるね!」


 バタバタと、棚からティーセットを引っ張り出した。

 兄がいない時はほぼお茶漬け一杯で済ます「朝食」が、兄のおかげで優雅な「ブレックファースト」と「ティータイム」になった。こんな忙しさなら大歓迎!


 音兄は、一度自主練に入ると時間も忘れて引きこもってしまう。下手すりゃ夕食時間までレッスン室から出てこない。今のうちにしっかり食べてもらっとこう。


 茶葉を用意してると、「紅茶を蒸らしてる間、何か弾こうか」と、音兄がリビングにあるグランドピアノの蓋を開け、椅子に座った。

 優雅なティータイム・コンサートだ! 嬉しいな。


「リクエストある?」

「久しぶりに『革命』聴きたい!」

「いいよ」


 その瞬間、兄の両手が振り下ろされた。



♬フレデリック・フランソワ・ショパン作曲

 『練習曲エチュード 作品10-12』(『革命』)



 開始の瞬間から、右手の重い和音と左手の高速のアルペジオがピアノをうならせる。

 突如闇を切り裂く、雷鳴のように。聴く者の意識をハッとピアノの盤上に引きつける。


 高速で上昇・下降を繰り返す左手は、まるで暗闇の中を吹き荒れる嵐のようだ。


 ショパンを語るうえで、ポーランドという国の苦難の歴史を外すことはできない。

 1831年、ワルシャワでロシア支配に対する革命が起きたが失敗に終わる。異国の地でそのことを知ったショパンの、嘆き、怒り、悲しみがこの曲を生み出したといわれている。


 練習曲エチュードでありながら、あまりに情熱的な旋律、心を揺さぶらずにはいられない左手の鳴動。ポーランドが誇る、世界的に名高い名曲だ。


 音兄は、演奏中あまり大きく体を動かすことはしない。背筋は真っすぐ、表情もあまり変わらず、見かけだけは淡々と弾いている印象を受ける。それでも両腕が、両手首が、すべての指がしなやかになめらかに動き回るから不思議だ。


 個性をつけすぎることもしない。基本的に、楽譜をそのまま追うことを第一としている。

 それでも聴き手を惹きつけ、曲の世界に引き込んでしまう豊かな表現力。聴き手は兄の感情を、曲にかける思いをあますことなく受け取っているような感覚におちいる。


 誰もが兄の姿を目に焼きつけ、極上の音を摂取できる、この幸福な時間に酔いしれる。


 激動の時代に生まれたドラマチックなこの曲は、感情を入れ過ぎると悲劇的な気分に心臓をつかまれてしまうかもしれない。

 今、この曲を弾く音兄は、どんな思いを音に込めているのだろう。


 フォルテッシッシモで叩きつける四つの音。最後までドラマチックに、激しいままに曲が終わる。

 約二分半に渡る演奏の、最後の一音まで、ただただ心を奪われた。


「推しが尊い」。わたしにとっては、まさに、この時のためにある言葉。

 やっぱり、何度聴いても音兄の演奏は至高だ。わたしを俗世とはまったく違う場所へと連れて行ってしまう。他の音楽すべてがどうでもよくなるくらい、わたしの音楽脳、音楽感情を余すことなく奪い取ってしまう。


 音兄が両手を鍵盤から下ろすと、わたしは夢中で拍手を送った。


 ……あ、いけね。

 茶葉を蒸らすの、すっかり忘れてた。

 


 * * *



「理音、さっきから全然動かないから、忘れてるんだろうなーって思ってたよ」


 明るく目玉焼きの話をしたかと思えば、華麗に凛々しく難曲を披露し、今またふにゃっと柔らかな笑顔を見せる兄。このギャップ、たまりませんねぇ。


「ごめんー。すぐやるから適当に待ってて」


 ティーポットにお湯を注ごうとすると、音兄が椅子から立ち上がってこっちに来た。


「俺がやるよ。だから」


 目でピアノの方を示す。


「今度は理音が弾いて」

「え」

「理音のテーマ。『亜麻色の髪の乙女』、とか」

「…………」


 わたしの髪は、茶髪ではあるけど亜麻色よりももっと濃い色。でもやっぱり、兄にとっては「理音のテーマ」らしい。


 ふいに指が、少しだけ、わたしの髪に触れた。

 いつの間にか至近距離にいる音兄の指先が、鍵盤のヘアピンのそばをそっと撫でたかと思うと、思い直したように静かに下ろされる。兄の息が、わたしのすぐそばに熱を残す。


 こ、心の準備がっ……!


 二つの理由でドクンとはねた、わたしの心臓。とても落ち着かせられる気がしない。

 兄がすぐに離れてくれて、第一の理由が収まったことにほっとする。

 でもまだ、第二の理由が残ってる。兄が、わたしを見たまま、無言で演奏を要求している。 


 わたしが自分より下手な演奏したからって、音兄がマウント取ったりしないことはわかってる。にこにことご機嫌で聴いてくれるだろう。たぶん、親が幼い子供の演奏を見守る時のような笑顔で。


 でも、あれだけ見事な演奏を聴いた直後に弾けるほど、わたしのメンタルは強くない。


「理音、最近ピアノ弾いてる?」


 また、心臓がはねた。

 兄の声音こわねには、わたしを非難するような色は微塵みじんもない。でもきっと、それ以外の様々な感情がブレンドされている。今お湯を注ごうとしてる、ダージリン・ブレンドのように。


 音兄の中には、わたしに言えずにいる言葉がたくさん、放たれることなく積もり続けている。音兄の呼吸に、視線に、何気ない会話の端々はしばしに、それを感じる。


 ――音兄は、たぶん、わたしがピアノの道を断念したのを、自分のせいだと思ってる。


 わたしが音大へ進まなかったこと。コンクールへ出ることも、レッスンを受けることもやめて、ピアノをただの趣味にしてしまったこと。音兄と、同じ道を歩まなかったことを。


「たまにだけど、弾いてるよ。関川せきかわさんのお店で時々演奏させてもらってるし、この前も、友達に『パゴダ』聴いてもらったんだ」

「『パゴダ』でもいいよ。理音はやっぱり、ドビュッシーだよね」


 わたしがドビュッシーを弾くのが好きなことを知ってて、決してわたしの前ではドビュッシーを弾かないようにしてることも。


 違うよ、音兄。

 確かに、自分では決してたどり着けない天上の音楽を目の前で毎日のように聴き続けて、自分の音楽をみじめに感じたことがないと言えば、嘘になる。


 でも、身近にプロのピアニストがいなくても、ピアノを弾く者の前に、いつかは必ず現れる。

 自分のピアノの才能を、思い知らされる瞬間が。

 ほんの一握りの者だけが、それでもピアノに関わる道を探し、さらに指先のほんの数ミリにも満たない稀有けうの才能と実力と運の持ち主だけが、音兄のようなコンサート・ピアニストになる。


 だから、音兄のせいじゃない。わたしがわたしの実力を、将来に向けてきちんと見定めたというだけのこと。


 わたしには、人生をかけたいと思えるほどの推しがいる。

 だから、この先も、推しを支えるために生きていきたい。

 できれば、マネージャーとかに、なれたらいいな。


 なんて言ったら、音兄は怒るかな? それともあきれるかな?


「じゃあ、おおせのままに弾きますけど、代わりに二つお願いがあります。美味しい紅茶を淹れてくれることと、今度、音兄もドビュッシーを聴かせてくれること。よろしくね!」


 わたしは椅子に座り、両手をふわっと上げ、『パゴダ』の最初の和音に指を下ろした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る