第7話 放射冷却

 実は、この冷凍保存の方法に、放射冷却の原理が使われているというのも聞こえてきた。

 そもそも放射冷却というのはどういうことなのかというと、

「物体は絶対零度の者ではない限り、電磁波を発するという、そして、電磁波によって放射されたものは温度が下がるという習性があるそうなのだが、だから、冬の間などに、地面が、冷え切ってしまって温度が下がっていると、電磁波によって、そのエネルギーは、宇宙空間に逃げようとしているという。

 その時に、曇っていて雲があったり、雨が降っていて、湿気があったりすると、宇宙空間まで逃げていかず、地表の温度がそこまで下がることはない。

 だから、冬の朝など、雲ひとつない、晴れた日には、宇宙空間に逃げようとする電磁波を遮るものがないので、どんどん、気温が下がってくるので、晴れた湿気のない日の朝は、急に冷え込むのだという。

 しかし、そもそも、直射日光を浴びているわけなので、次第に気温が上がり始めて、放射冷却というのは、朝晩と昼間との間で気温差が激しいのだという。

 放射冷却というのは、何も、冬の時期だけに起こるものではない。他の時期にも起こっていることであるが、夏などは、涼しい方がいいので、放射冷却はむしろありがたい。

 しかも、普段と温度差を感じるという感覚がないので、意識しないというだけのことなのだった。

 冬になると、放射冷却が顕著になって、寒さから、霜が降りたりするのを感じ、さらに息の白さからも、冷たさが、感じられる。

 それを感じさせるものが、長治の住まいの近くにあるではないか。

 そう、樹海の奥の屋敷の先にある、コウモリが住んでいる洞窟である。

 その洞窟に入っていると、コウモリは、自分で電磁波を出して、障害物をよけるようにして、目の見えないという自分の欠点を補っているのであった。

 そんなコウモリだったが、電磁波を出すことで、自分の身体に跳ね返ってきた時、温度が低下することを分かっていたのだろうか?

 どうやら、その時に、超音波と一緒に、温度が下がらない工夫をするための、能力が備わっているようだ。

4 その状態が、

「冷凍保存における、身体が凍り付いても、意識が死んでしまうことなく、キチンと凍り付いた正体で、意識だけが遠のいている。あるいは、意識が戻った時に、凍り付いてしまったその瞬間の記憶を、まるで時間が経っていないかのように思い出せる能力に結びついていく」

 ということになると気が付いたのだ。

 ただ、その超音波をいかに手に入れればいいのかということに、なかなか気づかないでいた。

 それが、

「放射冷却のなせる業だ」

 ということに気づいたのは、少し経ってからのことだった。

 しかし、本当は気づいていたのかも知れない。

 それを認めることで、自分の意識が間違った方向に行ってしまうというような発想に至るのではないかと考えたからであって、

「コウモリのような気持ち悪い動物を、どうして俺は研究していたんだろう?」

 と考えていたが、その理由が、子供の頃に読んだマンガが原因だったような気がする。

 それは、SFマンガであり、ロボットを題材にしたマンガだった。

 テーマとしては、

「ロボット工学三原則」

 というものの、

「優先順位に対しての矛盾」

 に対しての話であった。

「人を傷つけてはいけない」

 もう一つに、

「自分の見は自分で守らなければならない」

 というのがあるが、それは、高価な金で作ったロボットが、いくら他人の命令だからといって、

「自殺をするような場合には、この条項が有効になる」

 というものであった。

 高い金を使って作ったロボットに、簡単に壊れられては困るというものである。

 そのマンガにおいて、元々の大きなテーマが、ロボット工学三原則の矛盾への挑戦だった。

 元々、ロボット工学三原則という発想は、別に、物理学者などの科学者が考えた発想でも、人間の考え方の元になる心理学の先生の発想でもなかった。

 あの考え方を提唱したのは、SF小説作家だったのだ。

 自分のSF小説を書いていく中で、出てくるロボットに対して起こりえる、いろいろな問題を、近未来の話として、舞台が宇宙に及んだりして、ロボットと人間の葛藤が描かれていた。

 これが書かれたのは、戦後数年後であった。だから、今から70年くらい前だといっていいのではないだろうか?

 その頃には、ロボットはもちろん、まだコンピュータというものも、ハッキリとした形であったわけでない。ロボットという発想や、近未来にどうなっているかなどというものを、文章化しているのは、すごいと思われた。

 時代的には、朝鮮戦争が始まった頃で、日本は、まだまだ占領時代だったというアメリカでのことである。

 著者の名前は、

「アイザック・アシモフ」

 という。

 その作品は、SF短編集となっていて、その中で、彼は、

「ロボット工学三原則」

 というものを提言し、ロボット開発の上で、必要な機能だということで、実用化されたロボットが、さまざまな場面にて、この三原則の中での優先順位の矛盾について、前述のような内容を小説の中で提唱しているのである。

 この作品は、大いなる問題提起を引き起こし、その後のマンガやアニメ、特撮などのSFフィクションに多大なる影響を与え、特に、ロボットアニメなどの黎明期には、それらの発想に近いものをアニメや実写による特撮として、現れていた。

 その中のロボットマンガの一つに、ある科学者が、他の金持ちの科学者から期待され、ロボット開発の資金を得ながら、人間と同じような形のロボットを開発し、人工知能を作り上げた。

 博士は、そのロボットに、ロボット工学三原則という基本的な回路を取り付けると同時に、いわゆる、

「良心回路」

 と言われる、善悪の心を持つことができる回路を取り付ける予定だった。

 それは、自分に援助をしてくれた人の本当の狙いが、金儲けと、ロボットを使った、自分の帝国のようなものを作るという野望だった。それに気づいた博士が、悪の組織をいうことを聞かないロボットを作ったのだ。

 しかし、寸でのところで、悪の組織に襲撃され、ロボットには、不完全な良心回路しか入れ込まれなかったので、悪と戦う中で、その不完全な部分と、完全な部分が葛藤し、苦しむというものであった。

 そこで出てきた悪のロボットに、コウモリ型のロボットがあった。

 彼がいうには、

「俺に以前博士は、良心回路のようなものを入れた。それはお前に入っているよりも、もっと粗末なものだったので、それほど苦しむことなく、悪に心を奪われることになった。それでも自分はかなり苦しんだ。まわりからは、気持ち悪いと言われたり、日和的だって言われたりしたものだ。だから、俺は自分を中途半端な形でこの世に生み出した博士を憎んでいる。しかも、お前は、俺なんかよりももっと性能がいいそれでも中途半端な良心回路をつけているので、俺の何倍も苦しいはずだ。もう苦しまなくていいから、お前も苦しみから解放されて、俺たちと一緒に悪のために行動しよう」

 といってきたのだ。

 主人公のロボットは葛藤したが、それには、中途半端ながらに、良心が、コウモリロボットに比べて、かなり正義に近かったのだ。

 その苦しみはハンパではなかったが、結局正義に芽生えて、悪を懲らしめるわけだが、

これも、ロボット工学三原則の矛盾に苦しむことになる。

 要するに、何も考えずに三原則を純粋に守っていれば、そこまで苦しむことはない。しかし、そこに良心回路などというものが、なまじ入っていることで、正義のロボットはいつも苦しむのだ。

 しかしこれは、人間の思春期、つまり、成長過程において陥る、誰にでもある葛藤を、、ロボットに身を借りる形で、物語にしているわけである。

 そのテーマのために、悪のロボットをコウモリ型にしたというのは、作者なりの、思い入れがあったに違いない。

 作者が、イソップ寓話の、

「卑怯なコウモリ」

 という話を知っていて、ロボット工学三原則に対する話のキャラクター、つまり、ロボットのモデルとなるものに、コウモリを選んだというのは、実にタイムリーなことではなかっただろうか。

 卑怯なコウモリという話を知らない子供たちであっても、コウモリというものが、

「鳥や獣に似てはいるが、その中途半端な様相に、日和見的な発想が見られる」

 という考えが浮かんできたことは、容易に想像ができるのではないだろうか?

 しかも、コウモリというのは、目が見えないという特徴があり、

「そのために、超音波を使って、あたかも目が見えているかのような状況を作り出している」

 という発想を与えられ、しかも、そんな風な状況にされてしまったのが、

「どちらにもつかずに、うまく立ち回っていた」

 という卑怯なエピソードから来ていると繋がった時、

「悪のロボット」

 という発想と結びつくのだった。

 正義の主人公も、中途半端な状況なので、この同じシチュエーションではあるが、

「正義と悪」

 という正反対のものに同じような側面を見させることで、

「果たして、正義と悪、どちらが正しいのか?」

 という、ロボットの悲哀を考えることをテーマにしていた。

 ただ、これはあくまでも、大前提として、ロボット工学三原則があるということは、

「絶対的な優位性は人間にある」

 ということであった。

 だから、ロボット同士が敵である理由は、その対象となる人間に対しての考え方であった。

「人間を傷つけるものは、悪であり、人間を助け、人間のために戦うものが、正義なのである」

 という考え方。

 これは、

「主題はあくまでも、ロボット同士の戦いであるが、基本的に、人間というものをロボットがどう考えるか?」

 ということをテーマにしていた。

 そもそも、良心回路の、

「良心」

 というものは、ロボット工学三原則に見られるものを、ロボット独自の判断で、さらに進化させ、

「人間を助けるにはどうすればいいか?」

 ということで、人間にとって、都合のいいものが、正義だという考えだ。

 つまり、人間こそが神であり、ロボットを作った人間には逆らうことはできないのだ」

 という、

「人間から見た神」

 と同じ発想である。

 人間だって、心の底では、

「神には逆らえないものだ」

 と思っているから、神仏を敬ったりする意味で、崇拝物を作ったりしているではないか。

 宗教によっては、崇拝物を禁止しているものもあるが、基本的に、

「人間は神を崇めるものだ」

 という発想に変わりはない。

 そういう意味で、

「ロボット工学三原則の根本は、宗教にある」

 といってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「しょせんは、人間が人間を支配するために考えられたものが、おとぎ話であったり、寓話のようなものではないか?」

 と思える。

 そういう意味では、

「おとぎ話や寓話は、神話を子供用にしたものである」

 といってもいいのではないだろうか?

「宗教というのは、人を正悪のどちらに導いているのだろうか?」

 ということを、考えさせられるのだった。

 そんなコウモリに対して、長治は深い造形を抱いていた。

 決して表に出ないようにしているように見えるコウモリであったが、一度、

「卑怯なコウモリ」

 として、脚光を浴びた。

 それは、確かにまわりに対して、

「卑怯とも思える方法で生き残る」

 という、印象としては、最悪なものではないだろうか?

 しかし、それでも、コウモリはコウモリなりの方法で生き残ろうとしている。それを卑怯だという言葉だけで片付けていいものだろうか? 戦っても勝てるわけのない相手に対して、何とか生き残ろうとするのは、それも、その動物の習性であり、本能のようなもの。そういう意味では、

「戦ったとしても、頭を使ったとしても、生き残った者が勝ちなんだ」

 といえるのではないだろうか?

 そんな中において、獣と鳥の戦が行われている間は、何とかそれぞれにいい顔をして生き残ってこれたのだが、戦が終わってしまうと、お互いに冷静に話をするようになった。

 その時、コウモリの話が話題になり、

「あいつは、どちらにもいい顔をして、なんてやつだ」

 ということで、皆から、総スカンを食らうようになる。

 だが、だからと言って、コウモリは滅ぼされたわけではない。

 子供向けの童話なのだから、滅ぼすというのは、少し過激と考えたのか?

「いや、他にももっと悲惨な話だってあったではないか?」

 ということを考えると、十分に滅ぼされてもしょうがない状況だったはず。

 それが滅ぼされずに済んだということは、

「コウモリのようなやり方が、決して悪いというわけではないんだ」

 ということになるのだろう。

 何としてでも生き残るというのは、

「卑怯であるが、悪いことではない」

 ということで、コウモリを、孤独で寂しい場所に追いやることにしたのだが、それがコウモリにとっての、

「不幸中の幸い」

 だったのだ。

 確かに、寒くて暗くてジメジメした孤独な場所に追いやられたことはたまらないことなのかも知れないが、逆にいえば、

「他の連中から攻められることも、衝突することもない。自分たちの世界が確立されて、その中で生きるのだ」

 ということであった。

 そのおかげで、それ以降、他の動物と関わることもなく、目が見えないというハンデも克服できるようになると、

「実は、これほどいいところもない」

 と思うようになったのだろう。

 人間の世界の言葉に、

「住めば都」

 という言葉もある。

 最初、追いやられた気分になっていても、住んでみて慣れてくると、これほど都合のいい場所はないというものだ。

 というのも、住んでみると、自分たちだけの世界を作ることができて、目が見えないと思い、不便な生活を強いられていたのは、最初だけ、そのうちに、

「超音波を使えばいいんだ」

 と、昔から自覚していた力を使うことを覚え、不自由もなくなった。

 しかも、他の動物から干渉されることもない。

「もしあっちの世界が欲しくなったら、俺たちの超能力で、いくらでも何とかできる」

 と思っていた。

 コウモリという動物に限ったことではないのかも知れないが、

「立場が劣勢になればなるほど、眠っていた潜在能力を容易に引き出すことができる力を持っているのだ」

 と思っていた。

「その力は、自分たちだけに、今は許されているものだ。だから、コウモリという動物は、人間なんかよりも、よほど、高等な動物なのかも知れない」

 と思っているに違いない。

 そんなコウモリという動物は、

「自分たちだけに許された、パラダイスを手に入れたんだ」

 と感じていた。

 住めば都どころか、それ以上のものが、ここにはある。それを思うと、他の動物に感謝したいくらいだ。

「そんなに戦が好きなら、お前たちは一生、戦にあけくれて生きて行けばいいんだ。俺たちが、このまま、ずっと戦のない世界で静かに暮らしていけばいいんだ」

 と思っていた。

 他の動物から、

「そんなジメジメしたところで、孤独に暮らしてもか?」

 と言われたとしても、

「孤独かも知れないが、それを寂しいと思うか、嫌だと思うかは俺たちの勝手だろう? 住んでみれば、これほど快適なことはないさ」

「負け惜しみじゃないのか?」

 と言われたとしても、満面の笑みで返してやるだけで、相手は、きっと、こちらの気持ちを悟ることだろう。

 それさえ分かっていればそれでいいのだ。自分たちだけのパラダイスに、他の動物に入ってこられて、踏み荒らされても困るからな。

 コウモリは、他の動物がコウモリを気持ち悪がったり、仲間ではないという思いを抱くよりも、自分たちが他の動物に感じている嫌悪の方が、かなり強いということを分かっていた。

「あいつらも、呑気なものだ」

 と、却って、殺伐とした世界に生きている連中を、何を根拠にしているのか分からないが、

「呑気だ」」

 という言葉を使うのだった。

「俺たちは、他の動物と違って、自由は手に入れたし、何よりも、困ったときには、超能力を発揮できるだけの能力を持っていて、絶対に滅びることはないんだ」

 と、もし、他の動物、とくに人間が、自分たちがあ滅びるだけでなく、他の動物まで巻き沿いにして滅亡させようとしても、最期に、現存している動物が生き残るとすれば、それは自分たち以外にはいないだろうと思っているのだった。

「コウモリという動物は、本当に獣でも、鳥でもないのだろうか?」

 と、学者のくせに時々、そんなことを考えたりする。

「実際に自分たちが知っているコウモリ以外に、他の種類のコウモリがいて、そのコウモリが、自分たちの知らない世界の、その洞窟の中に潜んでいて、暗躍しているのではないだろうか?」

 などとも考える。

 いろいろなことを、考えていると、学者である自分が、実は、小説家や妄想家にでもなったかのような気がしてきた。

 別に学者だからと言って、今までの先駆者による発明や発見と、

「絶対に正しいことだ」

 と思う必要などない。

 確かに先駆者の発明、発見は素晴らしく、敬意を表して感じないといけないものだと感じるのだが、だからと言って、

「それがすべての真実だ」

 という思い込みを持つ必要はないだろう。

 むしろ、

「他にも考え方があるのではないか?」

 と思う方が自然で、柔軟な考えになるのではないかと考えたりする。

「そうだ、意外とコウモリというのは、そういう柔軟な考えが持てる動物なのかも知れない」

 と考えると、

「人間だって、実際に弱いから、頭の良さが発達したのではないか?」

 と思うと、

「卑怯なコウモリ」

 という話は、人間臭さを表している話だと思うようになったのだ。

 ということは、コウモリほど、人間に近い動物はいないと言えるのではないだろうか?

 コウモリを研究することが、我々人間研究に一番近いものではないかと思う。それは、コウモリたちにも分かっていて、人間にそれを悟られないように、人知れず、隠れているのではないか?

 つまり、

「卑怯なコウモリ」

 という話は、彼らにとって逃げ出したくなるような問題を、何とか人間から離れるために、人間に敢えて、錯覚させるような話を、コウモリ側が作って、人間に勘違いさせようとしたのかも知れない。

 もし、コウモリがそれほどの高等な動物であれば、人間なんて、簡単に滅ぼされるかも知れない。

 と感じた。

 今まで人間は、他の動物に対して、さほど恐怖を感じたことはない。むしろ、自分たちが滅びる場合は、自分たちの行いによるものだという発想が、大半を示していた。

 例えば、核戦争であったり、自然破壊によっての異常気象からくる、天変地異のようなものであったり。だからこそ、人間は自分たちに対し、警鐘を鳴らすような話しばかりを書いていたのだ。

 そういう意味では、他の動物から滅ぼされるというような話を見たことがあっただろうか?

 確かにそんな話は見たことがないような気がする。

 今までの自分たちがどんな生き方をしてきたのか、人間はどんな動物よりも賢く、優れているという発想であり、それは地球上の生き物に限ってのことだった。

 人間を滅ぼそうとする動物は地球上には存在しない。

 もっとも、細菌のような伝染病は別であり、その場合は、前述の、自然破壊から来るものだという発想の方が強いに違いない。

 だから、発想は宇宙に飛んでしまう。

「宇宙からの侵略者」

 という発想。

 それが、SF小説であり、地球人が、宇宙にロマンを求めて、他の星に行ったりするのも、SFのジャンルでもある。

 さらに人間は、宇宙空間の中に、

「地球以外の他の星に、生物が存在していないか?」

 ということを、必死に考えているものだ。

 というのは、前述のように、

「人間を滅ぼす宇宙生物が存在していて、虎視眈々と地球侵略か、あるいは地球滅亡をもくろんでいるかも知れない」

 と思うからだった。

「どちらの可能性が高いのだろう?」

 と考えた。

 SF小説などでは、侵略の方が強い気がする。しかし、長治の考えは違った。

「中級外生物は、人間よりもはるかに科学が発達してはいるが、そんなやつらだからこそ、自分たちの星以外に、知的生命体が存在することが許せないと思うに違いない」

 という発想を持っていて、だからこそ、地球を侵略するよりも、地球を一気に滅ぼす方を選ぶのではないか?

 と考えるのだった。

 あくまでも、占領するということは、相手を生かしておいて、自分たちの都合よく利用しようと考えることである。

「共存しよう」

 などという考えが果たしてあるのだろうか?

 地球内であれば、生きていく上の、共存の意義、

「例えば食物連鎖」

 のようなものがあるからだ。

 ただ、これだって、最終的には食べられることになるわけで、食料して存在しているだけだということであれば、果たして、それは、共存といえるのだろうか?

 食物連鎖は地球上だけで言えることなので、地球外生物にとって、共存という言葉は、最初からありえないものなのではないだろうか?

 そうなると、他の星にいる生物は、地球を滅ぼそうとするだろう、

「じゃあ、その時、コウモリは?」

 と考えてしまう。

「やつらだったら、何とか都合のいいことを言って、生き残るかも知れない」

 と考えた。

 そして、隙をついて、相手を滅ぼすかも知れない。そんなコウモリと手を結んでおけば、人間も、滅亡から逃れられるかも知れない。

 長治は、そんな大それたことを考えていたのだ。

 コウモリの研究はそこから始まった。

 非常に、歪んだような発想であるが、その研究が、曲がり曲がって、

「不治の病」

 への対処法として注目されることになるのだから、それは本人が一番驚いていることなのかも知れなかった。

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