黒姫
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──黒姫
女は美しかった。
艶やかな黒髪が乱れながらも背に長く伸び、黒い喪服のごとき着物を遊女のように纏っている。それは長身ですらりとした誰もが見惚れるであろう美女であった。
ただその瞳はヘビのそれだ。
「物の怪は美女に化けると言ったものだが」
しかし、橘は油断せず刀から手を放さない。
「ははっ。わしが美女だってことは認めるんだな。よいぞ、よいぞ」
女はまた小馬鹿にするようにけらけらと笑う。
「名乗れ。神仏の類ならば、その名を」
「名乗らなければどうする?」
「斬るのみ」
橘はこの女からあの白姫を前にしたときのような恐怖の気配を感じ取っていた。
斬って殺せぬ相手への恐怖。そう、牢人に身と落とせど武人である自分が手も足も出ない相手への恐怖だ。
だが、その恐れは捨てると決めた。妻を自らの手で斬った時から。
「黒姫」
女はそう短く言い、にやりと笑う。
「岩陽の名山たる冥府山を爆発させ、大きくうねる無惨川を氾濫させる荒ぶる龍神よ。岩陰の人間ならその名を聞いたことはあるだろう?」
「聞いたことはある。昔は人身御供を出して静めていた、と」
「気がむけば人を食うと言っただろ?」
「なるほど」
神仏もときとして人食うものだったと橘は思った。
「お前は恐怖を殺して何を成すつもりだった? 神として聞いてやろう。話せ」
「仇討ちだ」
黒姫が薄笑いを浮かべながら尋ね、橘が刀から手を離すと、どしと地面に腰を下ろしてそう返した。
「長い話だ。本当に聞くか?」
「ああ。酒を持ってこよう。待っておれ」
黒姫はそう言うと社殿から酒と酒器を持ってきた。
「飲める酒なのか?」
「野伏どもからかっぱらった酒だ。美味いぞ」
「ふん」
ふたりは酒を杯に注ぎ一気に飲み干す。あまり美味い酒ではないなと橘は思った。
「で、何があった?」
「俺はお前が言うように岩陰国に仕えていた武士だ。白姫がそこに来たのは今から3年前のことだ……」
橘は黒姫に白姫にまつわる因縁を語った。
白姫によって国を奪われ、妻子を殺されたことを。
「それで仇討ち、か。なるほどな」
「俺は怯えた。白姫を前にして。殺すことができなかった。だから、全ての恐怖を殺して次こそは白姫を殺そうと思ったのだ。だが、本当にそれが果たせるかは分からん」
黒姫は酒をたらふく飲みながら橘の話を聞き、橘が全てを語り終えるころにはとっぷりと日は暮れていた。
「だからと言って仇討ちを諦めて坊主になるつもりはないのだろう? その白髪を敢えて残しているということはそれ自身を己への戒めとしてる。違うのか?」
「そうだな。そのつもりだった」
「なら仇討ちを果たせばいい。他にやることでもあるのか?」
「怖いのだ。また勝てぬかもしれぬということが……」
白姫は確かに斬った。致命傷を負わせたはずだった。
しかし、白姫は死なず、友である藤堂邦彦と妻子を殺された。
そして橘はただ逃げたのだ。
「その仇討ち、手伝ってやろうか?」
「何だと?」
「耳が遠いのか? わしが仇討ちを手伝ってやると言っているのだ」
先ほどまでの嘲るようなにやにや笑いが消えて凛とした美女としての表情を浮かべて黒姫がそう言う。
「そのような申し出は意外だな。興味がないかと思っていた」
「白姫について教えてやろう。あれは南蛮の物の怪よ。南蛮の竜だ」
「南蛮の竜だと」
「そう。この日の本においては龍は神だ。まあやりすぎて殺されたものもおるがな。だが、南蛮において竜は邪悪な物の怪にすぎん」
黒姫が酒の杯を片手にそう語る。
「そうであるが故に南蛮では竜が狩られた。竜殺しは英雄の証であるからな。“げおるぎうす”や“じいくふりいと”という竜殺しの悪人どもが南蛮では持て囃される。白姫はそんな南蛮から逃げて来たのだ」
そう言い黒姫が酒を呷った。
「全くもって迷惑な話よ。よそ者が図々しく居座っておる。わしとしても気に入らん。だから手を貸してやろう。白姫を殺すならばな」
「本当か?」
「嘘は言わん」
橘が見極めるように黒姫を見つめるのに黒姫も橘を見つめる。黒姫のヘビのような瞳が薄暗闇の中で静かに輝く。
「ならば手を貸してもらおう。ここに来た意味があった」
「そいつは結構。ただし、だ。条件がある」
「聞こう」
相手は美女に見えるがその正体は荒ぶる祟り神である。何を要求されるかと橘は身構えた。
「美味い酒を捧げよ。わしへの供物だ。それぐらいは捧げい」
黒姫はそう言ってにっと笑うと残った酒を飲みほした。
「よろこんで捧げさせてもらおう。しかし、その前にすべきことがあるようだ」
橘はそう言ってゆっくりと立ち上がると刀を握った。
神社の階段を男たちが昇ってくる。野伏たちだ。
「お前が仲間を殺しやがったな、牢人」
野伏の頭らしき大男が槍を片手にそう言い放つ。
「襲ってきたのは向こうだ」
「うるせえ。てめえを殺す。仲間の仇だ!」
野伏たちは刀や槍を構えて襲い掛かってきた。
「橘。神社を汚させるな。掃除する人間がおらんのだ」
「ああ。分かった」
黒姫が呆れた様子で言うのに橘は野伏に向けて踏み込んだ。
「死に晒せ!」
野伏の頭が槍を突き出し、その矛先は確かに橘の胸を目指して進んだ。
しかし、鉄と鉄がぶつかるような音が響く。
「なっ……」
槍の矛先が折れて弾け飛び、空中を風切り音を立てて舞う。呆気にとられた野伏の頭が大勢を整え直そうとしたときには既に遅い。
「よそ見をしている場合か」
傷も血もなく平然とした様子の橘が足払いをかけて野伏の頭の姿勢を崩し、倒れたそれの胸に刀を突き立てた。
「あ、あいつ、確かに胸に槍を受けたはずだよな……?」
「ひい! 物の怪だ! 物の怪が出た!」
頭を殺された野伏たちは混乱し、恐怖し、逃げ散っていった。
「それっと」
死んだ野伏の頭を橘が階段から蹴り落とす。
「ほうほう。面白いな。お前、さっきの槍は弾いたわけではないだろう?」
「いかにも。白姫の呪いのようなものだ」
「白姫の血か」
黒姫がそう言い当てた。
「ああ。あの化け物の血を浴びてから血を浴びた場所は刃を通さぬようになった。鉄砲の弾もな。不思議なものだ」
「そういう話はある。さっき話した“じいくふりいと”という男も竜殺しの際に竜の血を浴びた。その血を浴びた部分は鉄のように硬くなったそうだ」
「竜を殺して得るのは剣だとばかり思っていたがな」
スサノオは天叢雲剣を得ただろうと橘。
「竜を殺せば財宝が手に入るというのは南蛮でもよくある話だ。盗人が英雄として描かれるのは気に入らん。もっともわしはそんな大層なものは持っておらんがな」
黒姫はそう言って笑う。
「さて。行くとするか」
「どこへ?」
「城だ。落葉城」
……………………
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