女神と英雄 2

 マハーヴィーラ万歳マハーヴィール・キー・ジャイ

 ラジヴは荒く息をつきながら前方を見た。山上から降りてくるひとびとが、祖師ティールタンカラを讃えているのだ。声はだんだんとおおきくなり、波のようにラジヴに寄せては引いた。

 父母とともに、巡礼者が降りてくる波をかきわけて、ラジヴは険しい道の最後を登り切った。

 山上には、すべて白大理石でできた浄土がある。数百年前に建てられたジャイナ寺院だ。四方に開かれた会堂に入ると、乳白色の世界が広がる。蓮の花、天女、象。同じような像が集中して複数、一列に彫られているため、多様でありながら、整っている。緻密で繊細な彫刻が内部をかたちづくっている。床以外のすべての石がうつくしいものを彫りつけられた、過剰で、しかし秩序立って清潔な世界。わずかな果物の供物を捧げ、ティールタンカラの像に敬礼する。天井は聖なるものを覆う天蓋を立体的に再現した乳白色の彫刻。柱にも神々が彫られている。蛇のようにうねるまぐさ。円や雪の結晶のような装飾は、うすい白地のモスリンに白糸で刺繍した紋様が立体になったかのようだ。しげしげと見て、触っては母に叱られる。聖なるものに、気安く触ってはならないと。

 おかあさま、おなかすいた。

 ラジヴは母に言う。拝礼もそこそこに、一行は足早に宿坊へ行く。かれらは日のあるうちにしか食事ができない。召使に調理をさせ、食事を取る。菜が中心の、根菜、タマネギ、ニンニクを除いた完全な菜食である。

 夜は出歩いて、闇のなかで知らぬうちに生き物を踏んだりして殺してはならないから、早々に寝る。山上の聖地は静寂に包まれる。

 夜半、少年はひとり目覚める。周囲の白衣のひとびとはみな眠っている。空腹なのだった。母を起こしてねだっても、我慢して眠るように言われるだけだ。外の厨房になにか食べ物が残っているだろうか。かれはどきどきしながら宿坊の扉を開け、外に出た。

 生き物を殺めてはいけない。盗みをしてはいけない。嘘をついてはいけない。それは少年に繰り返し伝えられる教えだった。火を使うことも、空中に存在する無数の微細な生き物を殺すことになるので、夜間は避けられる。回廊には灯りひとつない。うすい星明かりだけを頼りに歩く。虫の声、遠い獣の吠え声だけが聞こえる。ふと、前方に光が見える。回廊をはずれた、低木の茂みのなかだ。火を焚いているひとがいる、この聖地に。そう思っただけで、強烈な好奇心が、少年の足を炎のありかに向けさせた。低い歌声が聞こえる。男の声だ。

 のぞき込む。ちいさな空き地に、火を焚いて三人の人物が座っている。ひとりは頭を剃り上げ、一枚の布をからだにじかに巻いた女行者。ほかのふたりは少年ほどの背丈しかない男女で、数珠をからだじゅうに巻いている。ムスリム行者の二人組か、芸能をする賤民だろうか。それにしては汚れのない服を着ている。あきらかにジャイナ教徒ではない三人が、ジャイナ教の聖地にいる。

 三人はすぐにラジヴに気づく。女ふたりは少年をみとめてにっこりと笑う。ちいさな男は、目を閉じているのでこちらを見ない。

 やあ、おちいさいひと、眠れないのか?

 頭を剃り上げた女行者が言う。

 はっきりとした、溌剌とした声。世俗の女たちのようにはつつましやかではない。

 恐ろしいようでいて魅力的で、少年はもじもじと言う。

 おなかがすいたの。

 豆カレーダル全粒粉の平パンロティがあるわ。

 ちいさな女が言う。彼女の声も、獅子のように勇壮だ。

 焚き火でロティをあぶり、ダルを温めて、ラジヴに差し出される。少年は夢中で食べる。滋味ゆたかなスープ、外は香ばしく、なかはふかふかなロティ。足りないと思われたのか、果物や木の実も出され、かれはそれもぺろりと食べてしまう。そのあとで、悄然とうなだれる。

 ぼく、罪を犯してしまった。

 大人たち三人は笑う。

 食べて、生きることに、どんな罪があるんだい。

 ちいさな盲目の男が穏やかに尋ねる。

 闇のなかで火を焚いて、食事をしてしまった。たくさんのちいさな霊魂ジーヴァを殺してしまった。ぼくが前世、あるいは来世そうであったかもしれない生き物を。

 きみはやさしいひとだ。

 男にそう言われても、ラジヴは悲しくなり、ぽろぽろと涙をこぼした。

 よい来世に転生できない。

 自分のたましいの行方を、自分のものとして考えられるとは、すばらしい。人間は自分の人生を、他人のせいにしがちだから。

 このマーヤーのひとびとは。

 ちいさな女が謳うように言う。

 来世に希みを託して、現世で徳を積もうとする。苦痛に耐え、理不尽を我慢し、ただ過ぎ去るのを待つ。けれど、そのままであれば、現世はなにも変わらない。生まれ変わっても、苦痛に満ちた世が続くだけだわ。

 でも。人間は隔たって生きているよ。高いジャーティに生まれれば、浄らかで豊かな暮らしができる。地虫の生きる世と、ティールタンカラが生きる世はちがう。

 一緒だ。

 おおきな女が言う。

 吸う空気、触れる地面、見上げる月が違うなんてことがあるわけがない。だからこそ、あなたのように、身の回りのちいさな生き物を感じ取れる。わたしたちのような乞食であろうが、マハーラージャーやナワーブであろうが。……見えなくても、思い浮かべることはできる。この世に生きるもっともうつくしいもの、もっとも卑しいもの、もっとも尊いものを。

 ……見えなくても。

 ラジヴのつぶやきに、ちいさな男は言う。

 わたしはめしいだが、きみがうつくしい霊魂を持つことをはっきりと見ることができる。ジャイナ教徒は目に見えないちいさな生き物を見ることができる。

 そう……。

 少年が泣きやんだので、大人たちは喜んだ。

 おいで。

 おおきな女が少年を呼び、彼女はかれと一緒に横たわる。

 おなかがくちたら眠いだろう。このひとたちが寝物語りをしてくれる。おちいさいひと、名前はなんと?

 ラジヴ。

 わたしはロッキ。ラクシュミー。どのジャーティでもなく、どの神々と聖者にも仕える。

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