第2話 自分の胸に手を当ててみる僕

(自分の胸に手を当てて聞いてくれ、か……)


 家に帰ってから、僕は何度もこの一文を頭の中で音読し、その意味を理解しようと試みた。

 実際に、胸に手を当ててみたりもした。―――だけど、残念ながら自分の心臓の鼓動を感じただけだった。


 そういう、抽象的な答えられ方が一番困る。こういう言い方って、悪い指導者が行いがちな典型的なパターンだと思う。教える側からすれば、本人に考えさせたいという意図があるのかもしれないが……本当は教える側がちゃんと理解していないから、答えられないから、返答をはぐらかしているだけなのではないだろうか。


 ……まあ、それはさておき、答えの出ない問題を考え続けても仕方ないので、ここは一旦諦めて、僕はカバンから教科書とノートを取り出す。そして、今晩に勉強する予定である数学の道具を、机の上に並べていく。

 教科書はいい。いつでも分かりやすい文章で、僕に知らないことを教えてくれる。決して、はぐらかしたりはしない。

 要領が良い方ではない僕でも、こうして毎日4時間程度勉強するだけで学年1位をキープできているのは、本棚に並ぶ教科書や参考書類のおかげだ。

 元々勉強が好きなわけではなかったが……思えば、こういった習慣ができたのも、あの日の『誓い』がきっかけだったな。


 気づけば僕は、あのことについて思い返していた。




♢♢♢




 それは、小3のある日のことだった。

 放課後に叶乃と公園で遊んでいたときのこと。僕の不注意もあって、うっかり彼女の脚にケガをさせてしまったのだ。―――それは、傷跡が残るくらいの、深い傷だった。

 僕は謝った。謝るだけじゃ許されないことだって分かってたけど、それでもあの日の僕には謝ることしかできなかった。

 女の子に傷を負わせてしまったということが、どういうことか。幼いながらには理解しているつもりだった。そして、大切な相手のことを傷つけてしまったという激しい後悔で、僕は自責の念に駆られた。


「本当にごめん……何でもお願いを聞くから、だから……」


 その場で簡単な手当てをしつつ、僕が必死になって謝った―――あのとき、叶乃は僕に1つの『お願い』をしたのだ。


「……じゃあ、私のこと、責任、取ってくれる……?」


 少しだけ涙目になりながら声を絞り出すように、だけど強く訴えてきたあの日の彼女の顔は、夕日に照らされて赤く染まっており、とても印象的で―――それが彼女の切実な願いであることは、明白であった。


 だから、僕は頷いた。

 あのとき、僕は将来、絶対に医者になるって決意したんだ。




 あれから僕は、両親に頼み込んで塾に通うようになった。

 こんな僕に「また遊ぼう」と言ってくれた叶乃の誘いを毎日断らなきゃならなくて、その度に彼女の表情に元気がなくなっていくのを見るのは辛かった。

 けど、それは将来のために、責任を取るために、仕方のないことだった。

 

 次第に、僕と叶乃が一緒に過ごす時間は減っていった。

 教室で、僕とはあまり話さない子と楽しそうに笑う叶乃。そんな彼女の、一見すると少しの陰りもない、屈託のない笑顔だけど……僕だけは知っていた。あの笑顔を曇らせるような深い傷跡が、彼女には残っていることを。そして、それをつけてしまったのは自分であるということを……


 僕は医者になって、あの傷跡を治さなければならない。

 時々、叶乃は僕のことをチラチラと見てきた。楽しそうにしているところを僕に見せつけることで、もう気にしなくて良いとさりげなくアピールしてくれていたのかもしれないが、その善意に甘えてはいけないと思った。

 僕は彼女から目を逸らすと、罪を償うために、休み時間も机に向かった。




♢♢♢




 そして、今に至る。

 小3のあの一件から、僕は叶乃に話しかけるのをやめた。叶乃から話しかけてきたときだけ、無難に応対する、そんな関係。

 叶乃にどんな顔を向ければ良いか、分からなかったから。罪悪感から、叶乃が僕のことを見ているときはできる限り目を合わせないようにした。


 彼女のことを傷つけた僕が、彼女と対等にいられるはずがないから。

 だから、僕は叶乃と距離を置いて過ごすって決めたんだ。

 そして、そうすれば不思議と勉強にも集中できた。




 ―――さて、今日も勉強しますかね。

 そう思い、僕はいつものように椅子に腰掛けようとしたのだったが……


 おっと、その前に、まずは晩飯の用意だな。

 考え事をしていたら、今晩はカレーにしようと昨日のうちに買い出しに行っていたことをすっかり忘れていた。


 台所へと向かった僕は、慣れた手つきで具材をカットしていく。

 カレーが比較的簡単なメニューだと言えるくらいには、こうやって料理をするのも慣れたものだが、初めは野菜を切るだけでも本当に大変だった。

 高校入学と同時に、何故か両親は突然海外に出張してしまい、僕は今一人で暮らしている。

 世帯を別にするというのは、大変なことだ。だから僕は、高校では塾に通わずに自分で勉強をし、自炊を行うことにした。バイトをする時間がない以上、少しでも節約すべきだと考えたからだ。両親は「それくらいのお金は気にするな」と言ってくれたが、自分で決めたことなので最後まで貫こうと思っている。


 そして、今では大分料理のレパートリーが増えた僕だけど、今日は何故だか無性にカレーを食べたくて……

 でも、なんでだったっけ。その理由を思い出そうとした、そのときだった。


「ピンポーン」


 玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に、いったい誰だろう?

 一度、鍋の火を止めて調理を中断し、最近の宅配の注文について考えながら、僕はドアを開けた。すると……




 そこには、最近の僕の悩みの原因でもある叶乃が、少し大きめの荷物を持って立っていた。


 ―――そうだった。今日はうちに、叶乃が泊まりに来ると言ってたな。だから叶乃の好物であるカレーにしようと思ったんだっけ。すっかり忘れてた……


 叶乃とは、中学時代も予定通りに、距離を置いた関係が続いた。だが、高校に入学後は、彼女がどういうわけか僕に熱心に話しかけてくるものだから、少しばかり距離が縮まっていた。

 それでも、僕からは彼女に話しかけない、それだけは絶対に守り続けた。―――それをしてしまえば、彼女に対する罪の意識を忘れてしまいそうだから。そんなの、卑怯だと思った。

 だが、そうしているうちに、最近は彼女の様子がおかしくなることが増えていった。僕のことを心の底から嫌いになったのなら、元々それだけのことをしたのだし、仕方のないことだ。だけど、どうもそうではなくて、彼女の場合はぱあっと表情が明るくなったり、急にどんよりと暗くなったりを繰り返すようになったのだ。……僕には全く理解できない状況だ。


 そして、更に分からないことに、そんな彼女は急に何を思ったか、今日は彼女の両親が旅行で家を空けていて一人では寂しいから、と数日前、僕に連絡してきたんだ。こんなことは初めてだった。

 幼馴染とはいえ、こうして彼女が僕の家に遊びに来るのは、小3のとき以来かもしれない。なんだか懐かしいな……


「お邪魔しまーす……」


 そんな彼女もまた、久々の僕の家に少し、戸惑っているのだろうか。どこかよそよそしい雰囲気を醸し出しながら、玄関で靴を綺麗に整えていた。

 そして……


「……もう、こうするしか、ないよね……うん……」


「ん?何か言った?」


 そのとき、叶乃は一瞬何かをもごもごと口にしたような気がしたけど……


「え!?……ううん!?何でもないよ!?」


 急に目線を左右にちらつかせながら誤魔化すあたり、やっぱり今日も僕の幼馴染は様子がおかしいらしい。

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