第3話

 おそらく、怖かったのではない。畏れたわけでもない。

 ただ、彼女は水晶だと思ったのだ。覗くと向こうまで見える透明な水晶。余計な岩石を削ぎ、むき出しになった至上の宝石。

 ……その無防備さが、少し異質だったのだ。大きな真珠貝とか、透かし彫りの美しい宮とかに守られているならまだしも、あんなに敵意のない花のような雰囲気でコンビニにいていい存在とは思えなかった。


「あっ……」


 夕里は、かなしそうな、うれしそうな声を出して、薫ににっこりとほほえみかけた。ハナミズキみたいな肌に、雨粒色のAラインワンピースがよく似合っている。相変わらず、桜を散らした厚底サンダルを履いていた。


「松坂くんよね」


 ふしぎと、今回は目を合わせても、引きずり込まれるような神秘的なものを感じなかった。ふさふさのまつ毛に縁取られた大きな瞳が、ゆっくり瞬きするだけだった。


「……はい。一色さんだよね」

「うん。アイス買っていくの?」

「小腹がすいて」

「ふふ。わたしも」


 途中までいっしょに帰りましょうと、流水のように自然に言ってのけ、夕里はチョコレートを買っていった。薫も、半ば呆然としながら爽を買っていき、夜風がぬるい外へ、夕里のもとへ向かった。

 このコンビニに来たのは昨日の今日で、昨日などはまったく寝つけなかった。あの瞳が、焼いたCDのように脳髄に焼きついて、あざやかに輝くのだ。思い出すたび、びっしょりと冷や汗をかくような、ばら色の心臓が高鳴るような、変な気持ちになる瞳。

 今日、登下校時に通るけやきの道をのぼっているときも、頬杖をついて授業を聞いているときも、クラスの奴らといっしょにガヤガヤお弁当を食べ、赤ペンでなりふり構わず課題を写しあっていたときも、なかなか離れてくれなかった。

 それで、眠れなさそうな今夜は、すずろ歩きのように街を回った。赤いライトが照らすガソリンスタンドを通り過ぎ、電灯の落ちた塾を通り過ぎ、スーパーとクリーニング店を通り過ぎた。行くあてのない夜の散歩だ。回って、回って、どうにか引き剥がそうとして……できなかったから、仕方なくコンビニに寄ったのだ。


「昨日、いっしょにいたのは佐伯さん?」


 夕里は、ひらひらと舞う蝶のように、重力を感じさせない軽い足取りで歩いた。彼女の体が揺れるたび、ふわふわとやわらかい黒髪が跳ねる。


「そう。幼馴染みで、家近いよ」

「すてき! 長い付き合いでしょう」

「まあまあかな。小学生のときからだから」

「そんな感じする」

「へえ……」


 そうかな、と呟くと、夕里はあっと声を上げた。


「鳥が飛んでる! コマドリの子どもかしら」

「え、どこ」

「あそこ! 巣立ちかしらね。すごいわ。こんなに飛べるものなのね」

「……何も見えない」


 目を細めて、必死に動くものを追おうとしても、闇の濃い夜空では何も見えない。夕里の指先は迷いがなく、天から吊られているかのようにまっすぐだった。

 薫は、コマドリをなぞるようにすうっと宙をすべる指先をながめて、いぶかしげに眉を寄せた。……彼女には一体、何が見えているのだろう? きらきらと表情を輝かせ、闇夜にまぎれた巣立ちを祝福するように夕里はほほえむと、薫に目を向けた。


「わたし、夜目が利くの」


 照れくさそうな声だった。


「相当視力いいんだね」

「そうかも。生まれつき、目がいいから」


 ね、と夕里は足を止める。白線がアスファルトにぼんやり浮かびあがり、赤信号がぎらぎら光っていた。


「目、とじて」

「……なんで」

「いいもの見してあげるわ」

「え、やだ。なんか怖い」

「悪いようにはしないわ! ちょっとだけ。キスするわけでもないのよ」

「なにする気だよ? 教えてくれたらやるけど」

「いいもの見してあげるだけっ」

「それじゃあわかんねぇよ!」


 いいから、と夕里はふわりと薫の目をおおった。純白の手のひらからは、すずらんみたいな甘い香りがただよってくる。ハンドクリームの香りだ。

 見かけによらず強引なひとだ。薫は奥歯をギリッと噛んだ。


「目をとじて。ゆっくり息を数えて。……大丈夫よ」


 子どもを寝かしつけるようなやさしい声に、薫はもう、どうにでもなれと、ひとつ舌打ちをしてからやけくそで目をとじた。

 いち、に、さん……と、羊水の声が聞こえる。ねむたくなるような調子だ。薫は夕里にあわせてしずかに呼吸を数えると、怒りに猛っていた心が鎮まっていく。

 冷たい手が心地よくて、心の水底に、波紋がひろがるように色がひろがっていくような気がした。炎の赤、湖水の青、朝焼けの黄金、宿り木の緑、雨天の灰色、雲海の白……。


「うん。開けていいわ」


 そっと手のひらが外され、夜気が瞼をかする。薫はむしろ名残惜しいような気持ちになって、ゆるゆると目を開けた。


 とたん、脳が歓声をあげるほど、視界いっぱいに、光がはじけた。


 まず、星ひとつ見えなかった真っ黒な夜空に、銀砂を撒いたような、息を呑むほど皓大な白銀や青の光たちが、くるくる踊ったり、星のように流れたり、のんびり渦を巻いていたりしていた。宇宙のような空だ。光はすべてやさしく輝いていた。

 宙に舞う羽虫は、淡く光る桃色の殻を脱いでいた。その殻は空中で粉々に砕け、風に乗って羽虫についていっている。赤信号で停まっているトラックの運転手は、缶コーヒーを飲んでいて、まわりで金魚が二匹泳いで、水草がそよぎ、ミント色の泡がはじけていた。排気ガスを吐き出しながら爆走しているバイク乗りも、一瞬、サンシャインイエローの風が吹き抜けていた。

 世界のすみずみにまで、光であふれていた。


「……何だ、これ」


 やがて、その光たちも波が引くようにうすれていき、するりと消えていった。あとは夜の清潔な闇だけである。

 薫は、余韻に体がしびれて、眼球がぶるぶると震えていた。心が鈴のように揺れていて、涙腺がゆるむ。


(……綺麗だった)


 異世界みたいに美しい景色だった。

 感嘆のため息をついて、かわいた手で顔をぬぐう。目の奥が熱かった。夕里はハンカチを差し出し、そっと薫の手をどけて、ていねいに涙を拭いた。

 慈しむような笑みを浮かべ、夕里は言う。


「わたしは、あの光を〈祝福〉と呼んでいるの」


 祝福、と、薫は涙でかすれた声で呟く。


「ひとに感謝されたとき、花に花粉を運ぶ虫の幸を願われたとき、この世に生きとし生けるものたちが何かに慕われたとき、生きてないものでも誰かに愛されたとき……。そんなとき、みんなは〈祝福〉を受けて、まとうの。つまりね」


 夕里は、青信号になった横断歩道を舞うように歩く。薫は続きながら、夕里がこの世のものじゃない気がした。精霊のような気もしたし、女神さまのような気がした。Aラインワンピースの裾が夜風に翻る。

 ブラック・ダイヤモンドの花びらのような眼差しが、今の薫には星も見えない夜空を射抜いた。


「わたしは愛が視えるの」

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