3

「任務ご苦労様、鹿島特佐。今年に入って九回目、通算三十五回目の白星だよ。いつも通りに世界記録更新だ」


 康徳は鉄面皮を微動だにさせず淡々と答えた。


「何の用だ」


 彼に呼び掛けた白衣の男は無精髭を撫で、戯けた調子で肩を竦めてみせた。


「三日ぶりかい? 男三日会わざれば、とは言うが、君は変わりが無いようで嬉しいね。取り敢えず適当に……いや、ちょっと待て。場所を作る」


 技研局第三資料室の正式名称を持ちながら男の私室と化したそこは、混沌の二文字が何より相応しい空間だった。二十畳の床は大量の紙資料とプリント基板、計器類や段ボール箱で埋め尽くされ、コンクリートの露出している部分は皆無。壁際にズラリと並ぶ整理棚は床の惨状を三次元的に拡張し、名称通りの用途は果たしていない。


 部屋の中央。そこにあたかも混沌から湧き出て来たかのように、一揃いの長机とパイプ椅子群がある。無論、どちらも床や壁と同様の状態だ。部屋の最奥部にいた男は器用にそこまで移動し、椅子の一つから大学ノートの山を足元へ払い落とした。


「掛けてくれ。……あっ、その山は崩さないで。右にあるファイルは踏んでいい。そう、そこを通ればここまで来られる」


 苦心惨憺しながら康徳は椅子を目指す。その間に男は楽々と机を挟んだ向かいへ回り、椅子の上に空間を作って腰掛けた。


「酷いものだ。この部屋を当てがわれてまだ二週間だろう。引っ越すごとに散らかり具合が悪くなるんじゃ、資料を移動させるのも無駄手間だな」


「問題無いさ、局長も分かっていて許可しているんだから。それに、前の部屋が手狭になっていたのは事実だし……」


 長身痩躯の男だった。康徳の軍人然とした鋭さとは対照的な、掴み所の無いヘラヘラとした口調。だが、単純に軽薄というよりは浮世離れした雰囲気は、腰まで伸ばして一本にまとめた長髪と相まって、技術者ではなく竹林の哲人を思わせる。白衣の胸元にプラスチックのネームカードが光る。八雲宗輔やくもそうすけ・技術研究局主任研究員。


「僕がこうして好き勝手にフラフラやっているうちは、あの爺さんも技研局長の椅子を占領していられるんだから。共利共生の関係だね」


 どうにか椅子へ辿り着いた康徳は腰を下ろしながら、


「好きにするがいい。技研の政治力学などに興味は無いし、お上がお前を縛り付けないでいるのも、何も局長の権力欲のためだけではないだろう」


「その通り。はは、政争に向かないのは僕も君も同じか」


 弱冠三十二歳で世界初の破龍兵装を開発した認知脳工学の天才は破顔する。研究者の価値は純粋な研究で決まるという今時クラシカルな信念は、自分からは決して防患隊員の領分を超えようとしない康徳と通底するものがある。無論、好きを通せるのは、ポストに就かなくても予算を得られる彼自身の名声あってのものだが。


「政争に向かないと言えば、君の息子さん……史哉くんね。彼はどうも君や僕とは真逆の切れ者のようだな。前も言ったように僕はこの九月から防患大で教えているんだけれど、この前初めて話したんだ。大教室での授業だから個々の生徒と話す機会はあまり無いんだが、授業後に向こうから声を掛けてきてね」


 愉快そうに笑って、


「まったく驚かされる。基礎理論より実戦運用の方に興味が偏っているのは学部生らしいが、既に院生そこ退けの知識量だよ。……やはり、建御雷に相当関心があるらしい。切れ者というのはね、君、なんと非公表の戦闘記録閲覧を申請したいと言うじゃないか」


 破龍兵装に関する情報は、多くの国でその少なからぬ部分が軍事機密に指定されている。建前上、それは将来的に発生する識人や、彼らを利用する識人進化主義テロリストに事前対策を打たせないためだ。しかし、その実際的理由が識人そのものではなく、自国と同様に破龍兵装を用いる各々の仮想敵国にあることは周知の事実だ。日本周辺なら極東ロシア、中国、統一朝鮮。これらの国とは歴史的確執も根深い。識人戦争のため現状下火になったように見える国同士の戦争も、恒久的に消失したわけではなく、破龍兵装の戦争での有用性は実演されていないというだけで明らかだった。


 だから一介の学生がアクセス可能な情報など、在野のマニアが収集しているものと大差無い。たとえ防患大の生徒でも。


「勿論、断りはした。まぁ、諦めてはいないだろう。……彼女のこともあるし、君のことだってある。首席ってことを除いても、建御雷の問題に関して彼はかなり特例だ。そのことを自覚していて、目的のために躊躇なく仄めかす辺り世渡りが上手い。将来的には技研に来てくれるそうだし、今のうちに囲い込んでおくのも悪くないという気がするよ」


 一端、言葉を切って机上のペットボトルに手を伸ばす。飲み掛けの緑茶で唇を潤し、探る声音で続けた。


「ただ、彼が建御雷をどう思っているのかは正直よく分からないね。君のように……割り切っているのかどうか」


「それは無い。俺を憎んでいる」


「ほう? なら、僕も憎まれているのかい」


「分からん。だが、破龍兵装それ自体を否定するような短絡ならば、防患大の工学部に入ったりはしないだろう。あれも人権派の論調に影響されていたことがあったらしいが、昔の話だ」


「だとすると、破龍兵装に複雑な感情を抱きつつも、必要悪として飲み込んでいるってことかな。研究者には割といる。からね。君との対立は、少し子供っぽくて微笑ましいものがあるが……」


 そこで八雲は、不意に思い立ったように呟いた。


「ひょっとしたら、彼は破龍兵装に代わる識人への対抗手段を探しているのかも。君を憎み破龍兵装を嫌い、その上であの熱心さは死龍を……彼女を解放するためなのかもしれない」


 家庭の不和どころか、息子との葛藤に関わる核心に踏み込まれ、しかし康徳は眉一つ動かさない。彼はもう長らく史哉とは言葉を交わしていない。息子が今も自分に憎悪を向けているのは確実だが、その内実は目の前の研究者と同程度にしか把握していない自覚がある。


 だが、それがどうした。自分は操縦士だ。防患隊員だ。親子の情も、幸福な日常も、それを壊した非情さえも、破龍兵装に乗って識人を斃す責務と現実に比べれば取るに足らない。そんなものは、十八年も昔に捨てて来た。


 だから康徳は言う。その冷酷や非人間性を意識することさえ無く、ただ自然体のままに。


「詩人だな。仮にそうだとしても俺の与り知るところではない。下らん推理を巡らせる必要も無い。俺の仕事は他にある」


「君らしいな。我が子のことであろうと、配慮に値するか否かは操縦士として決めるのかい。彼が君を憎むのも当然だ」


「お前らしくないな。研究開発が第一で、後進の育成などには興味の無い人間だと思っていた。……わざわざ呼び付けたのはこんな話をするためか?」


 ならば帰らせてもらう。腰を上げかけた康徳の態度は、言外にそう告げていた。八雲は待ってくれと言って彼に腰を下ろすよう促す。


「今のはついでの話さ。君が気にしないなら僕の裁量で好きにやらせてもらう。君を呼んだのは……」


 言葉の選択に迷う数秒を挟み、


「最近の超過搭乗について、少し意見を交わしたいと思ってね」


「賀本の差し金か?」


「いいや。ただ、僕も含めて技研の人間が大抵慎重運用派に属しているのは事実だよ。多分、君の率いる第一破龍部隊のメンバーも。バイタルチェックの数値に異常が出ていない上に、大丈夫だと自己申告している君に面と向かってこう言えるのが、僕と賀本君くらいしかいないだけで」


 建御雷の過剰出動について、既に防患隊内部では意見が分かれ始めている。主要施設が地下移転したとはいえ依然日本の首都である東京。そこに国の最高戦力を置くのはある意味必然だし、対識人戦に深い理解の無い政府や報道機関は康徳の英雄化に拍車を掛け、国民の厭戦感情を払拭しようとしている節もある。


 しかし、詳細な知識と情報を持つ者からすれば事態はそう単純ではない。


「重ね重ね言うが、君が世界最初の操縦士であることを忘れないで欲しい。破龍兵装はたかだか十年の歴史しか無い兵器だよ。君が今いるのは、まだ人類が到達したことの無い地平なんだ。何が起こるかなんて、予想もつかない」


 それに、


「検査に協力している僕が言うのもなんだけれどね、数値なんてものがどれだけ当てになるのか……。破龍兵装の、その素体となった識人の最大の特性は、一切の科学的分析を拒絶することなんだから」


 防患隊が上層部も含め、一枚岩になれない理由がここにある。康徳の精神、身体状態について信頼に足るデータが文字通りに存在しないのだ。前例さえ皆無な以上、経験則も適用出来ず、慎重運用派と積極運用派が依拠するのは漠然とした主義信条、一種のイデオロギーということになる。


 康徳の問題無いという自己申告のため、後者の暫定的優位で拮抗が続いているのが現状だ。


「データが足りない以上、君の感覚は考慮するけれどね。もう少し立ち止まって判断して欲しいのが技術者としての僕の本音だよ」


「破龍兵装は日本に七つしか無い。関東全域で三つだ。大破した訳でもない機体を、不明瞭な憶測と不安だけで無駄にするわけにはいかない」


「お蔵入りにしようってわけじゃないよ。建御雷は優秀な機体だ。まだまだ現役でやれる。ただ、出撃頻度を下げるべきだと主張しているんだよ。例えば、横須賀の綿津海ワダツミと交代するとかね」


「……」


 初めて、康徳の鉄面皮に陰のようなものが差す。彼の脳裏に浮かんだのは瓦礫と火炎の光景。咆哮する識人と大破した破龍兵装の巨大な影。


 五式建御雷に換装を施していた一週間の間に起きた惨劇の結末。一年前のあの日以来、康徳はそれ以前にも増して機体と己の身体を酷使するようになっていた。


「新宿を思い出すのかい? 何度も言っているように、あれは不可避の結末だったんだ。破龍兵装がどれほど異様で生物的な見た目でも兵器であるからには、大規模な換装と定期的な補修は欠かせない。代打に立った他の部隊が全面敗北し、その結果一つの都市が消滅したとしても、凶悪な識人を国外へ取り逃がしたとしても、君の負うべき責任などは発生しないんだよ」


「ああ……」


 康徳は目を瞑り、深呼吸してこみ上げて来たものを再度嚥下する。


 分かっている。分かってはいる。


 しかし、あの日感じた莫大な喪失感と自責の念は幻ではなく、彼の心はもう一度それに直面することに怯えていた。ただ一つ残った操縦士の矜恃さえも失うくらいなら、死んだ方がマシだと思えるほどに。


 だから過剰搭乗にもかかわらず、康徳は銀白の巨人として東京の街に立ち続けている。たとえ論理的に自分の責任ではないとしても、感情的にはそうではない。そして崩壊した新宿から出現する識人を倒し続けていれば、いつかこの感情も精算されるかもしれないから。


 だが、それはエゴだ。それこそ操縦士にあるまじき、反社会的で不合理な。


 否、目を背けるな。問題の根源は、自分の生き方の淵源はもっと……。


「ま、考えていてくれればそれでいい。僕は自分の意見を君に表明したかっただけさ」


「……そうだな。手遅れになってからでは遅い。賀本に言われた新宿の再建と定期検患の必要性については、幕僚長を通して永田町に掛け合ってみるつもりだ。苦手なやり方だが……」


 八雲は無言。胡乱な表情で無精髭をさすり、三文の一ほど残っていた緑茶を一気に飲み干す。その様子に、康徳は彼が内心では納得しきっていないながらも、一先ず言いたいことは言い切ったのを察した。話は終わりだろう。


「だから、お前の言うことも考えておくよ。確かに、少し意固地になっていたのかもしれない」


 康徳がパイプ椅子から腰を上げると、足下で乱雑に積み上げられた大学ノートの山が崩壊した。床を埋め尽くす静物の海の中、来たときに通った足の置き場を見つけ出す。一歩目を踏み出すと、プラスチック製の何かが割れる音がした。


「鹿島特佐」


 八雲の呼び掛けに、無理な体勢の鹿島は振り返ることが出来ない。視線は前方の扉に向けながら、背中でその声を聞く。


「こんなことを言うのは技術者らしくないだろう。まぁ、対象が対象だから仕方ないんだが……僕にはね、臨界点がすぐそこまで迫っている気がするんだ。数値には現れない、識人的な臨界点だよ。君も、本当はもう感知していて黙っているんじゃないのかい?」


 相手は一体どのような表情をしているのか。二人は互いに互いの顔を見ることが出来ない。それでも尚、彼らには見えない筈のそれが明確に目に浮かぶ気がした。


「死龍憑きの症状はどうだい。建御雷は……彼女は何か言っているかい?」


「あれは幻覚だ。俺の精神が安定していればどうということはない」


 声の上ではあくまで淡々と。天才の言葉を切って捨てた英雄は、迷うことなく扉を開けて出て行った。


 後にはただ一人。静謐の混沌の中に八雲だけが残される。彼は空になったペットボトルを部屋の隅に放り投げて呟く。


「安定していれば、ね。なら何故、定期的に家に帰っているんだい? 彼女の気配が濃くなるからじゃないのか」


 ペットボトルは整理棚の柱に当たり、基板の丘に落下した。

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