読み合いの功罪

 カクヨムには所謂「読み合い」なる文化があるよな。これ、個人的には賛成だ。そもそも読み合いがなければ、自作が他者の目に触れる機会などほとんどない。実際、カクヨム歴半年になる僕の作品を読み合い企画に参加させるのとさせないのとでは、PV数に雲泥の差があることが経験則から分かっている。僕のような無名作家がカクヨムで一から小説を書き始めても、その作品の内容がどれほど素晴らしかろうとなかろうと、読み合いなくして日の目を見ることは全くない。残酷なシステムだ。


 そんで、読み合いってのは、言ってしまえば見ず知らずの作家様の興味のないジャンルの小説に目を通す機会を得ることで、普段は決して得られないある種の発見もあったりする。単純に読書量が増えることで、作家としての語彙力や表現力といったスキルが磨かれるしな。そこから作家同士での交流が生まれることもあるし、割と良いこと尽くめだったりする。


 ただ、例えば読み合い企画に参加している作家様の作品を読んでも、必ず読み返してもらえる訳ではなかったり、言うなれば「反読み合い主義」的なカウンターカルチャーが発生したりする問題もある。そこは仕方ないと割り切るしかない。だが、誰とは言わないまでも、読み合い企画に参加している癖に「読み合いは評価の賄賂と一緒だ! 私は読み合いなんてしない!」などと矛盾した言動を取っている謎の人物を見かける。


 評価を求める行為は愚かだと言ってきた通り、確かに読み合いはその作品及び作家の価値を高める行為ではなかろう。しかし、読み合いというのは通常、読書を通じて自身のスキルアップや見聞の拡大を図り、その一環として評価が発生することもあり得るに過ぎないというものだろう。それなのに、何を勘違いしてか「読み合いは評価することが前提」という固定観念により、読み合い行為そのものを悪として毛嫌いしている勢力が存在しているようだ。


 だったら、そうした主張はそっと胸のうちに留めておいて、読み合い企画になど参加しなければ良いではないか。わざわざ企画に入り込んだ上で自作を通じて「読み合い反対!」と声高に叫ぶことに、一体何の意味があるのだろうかと思わずにいられない。それぞれ信じるべき主義・主張はあれど、どうせ端から対話をする気もなく、相容れないというのなら、関わり合いにならなければ良いのに。


 ──おしまい。

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