第36話 35 閉店



 店の扉の前で立ち止まり、深呼吸をする。

一回では落ち着きを取り戻せないので、何度も深呼吸を繰り返す。

そして、意を決して扉を開ける。


「いらっしゃいませ」


 と抑揚のない女性の声が私を迎える。

私は、「ホット」と言いながら椅子に座る。

勿論、彼女からの返答はない。


「珍しいですね、本日2回目のご来店、ありがとうございます」


 とマスターが応じてくれる。

いつもの優しい笑顔だ。

本当の優しさが滲んでいるように思える。

この笑顔が、その優しさが、お孫さんを守ろうとした強さが、本当の勇気のように思える。


「今回は2回目のご来店ということで、私が珈琲をお淹れしてよろしいでしょうか? 私流の珈琲の淹れ方です」


「あ、はい、お願いします」


 私が、そう返事するとマスターは珈琲を淹れる準備を始める。


「ようく見ていて下さいよ」


 マスターは笑顔を崩さずに語りかけてくれる。

私は教えを乞う生徒のようにマスターの一挙一動を見つめる。

マスターの動きはベテランのバーテンダーのようにしなやかな動きだ。

珈琲豆を入れたミルのハンドルが動き始めると、同じリズムでハンドルが回っている。

ミルの音が軽くなると、マスターは、もう豆は残っていませんよ、と言いたげにハンドルを反対方向へはじくように回す。

ミルのハンドルが反対方向へ鮮やかに空回りすると、マスターはミルの蓋を開けて、サイフォンに砕かれた珈琲豆を入れる。

アルコールランプを水の入ったフラスコの下に入れるとマッチで火を付ける。

水が沸騰するまでの間に、マスターが優しく語りかけてくる。


「サイフォンは雰囲気作りには、とても良い道具です。私は、水出し珈琲が好きなのですよ。でも、熱いお湯で引き出す美味しさもありです。強い特徴のある豆は、お湯で引き出されますが、水を使うと個性がいまいち伸びないのも事実です。の違いがそれです。どれを選ぶか、それは珈琲豆を熟知することではなく、お客さまに選んでもらわなければならない。できれば、お客さまがどの豆を選ぶかを見て、お客さまの個性にあった珈琲を淹れてあげたいものです」


 そう言ってマスターが珈琲を運んできてくれた。

マスターは私の前の席に座ると、その優しい笑顔と同じように、優しい手振りで珈琲を勧めてくれた。


「珈琲豆を煮詰める方法もあるのですよ。そりゃもう、珈琲のまで出てきましてね。でも、それが好きだと言われる人もいます」


 私はマスターの言葉を聞きながら珈琲を飲んだ。

私が淹れた珈琲よりも優しい味がする。

私は、優しさを求めていたのかもしれない。


「珈琲豆をね、バターで焙煎したりする人もいます。これ、味が強いですね。逆にアメリカンコーヒーのように焙煎時間が極端に少ない方法や、そう、そうですね、一度にいくつも覚えられませんよね」


 私は、頷くことしかできなかった。

言葉を出そうとすると声を出して泣きそうになった。


 マスターは暫く黙って見ていてくれたが、


「さ、今日はもう遅い。閉店です」


 私は冷めた珈琲を、コーヒーカップを両手で包んだ。

そして、黒い優しい液体を見つめたまま、伝えなければならない言葉をマスターに送ろうとしたが、声にならないでいる。

マスターは、暫くじっとしていたようだが、静かにカウンターに戻ると、


「マルセリーノさんから聞いていますよ。よろしくお願いします」


 私は、コーヒーカップを強く握り、言葉にならない呻き声を抑えた。

それでも涙は止めることができなかった。

コーヒーカップが震え出し、中の液体がこぼれ、膝に流れた。

その時、優しい感触が膝に当たるのを感じた。

マスターのお孫さん、この店のウエイトレスさんが、濡れた布で私の膝を拭いていてくれた。

そして、


「よろしくお願いします」


 と言った。

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