第4話 階級制度


 朝日輝く隅田川、その横を走る一つの影。俺は今日もクマのオッサンにしごかれるよう、朝一番からトレーニングを課せられていた。


 俺が入門してあれから一週間経つが、未だにボクシングのパンチ一つ教えてもらってはいない。やらされるのは基礎的な筋トレのみ、それと食事制限までついてやがる。


 だが、あのオッサンとのスパーリングで負けた俺に文句は言えない。


「くっそ、見てろよあのクマヒゲ……ぜってえ見返してやるからな」


 ぶつくさ本人のいない所で小言を漏らすこの情けなさ、俺はそんな自分にも怒りながら長い河川敷をひたすら走り、目標の本数を終えるとスタコラと貧乏ジムへと戻る。


「ふぅー、いま帰ったぜ」


「おせーぞ拳坊! 次ぃ! ランニング終わったら縄跳び6分5セット、腹筋300回背筋400回だあ!」


「……やってやらーな!」


 半分やけになるように俺は課された指示をこなす。


「はぁーッ、はぁーッ……終わったぜ……次はなんだよオッサン」


「5分休憩だ、水飲んで体軽くしてろい」


 そう言われると、俺は水を飲んでバタンと床に大の字に倒れた。


「あーキッツ……ボクサーってのは楽じゃねえな」


「お疲れ様ケンちゃん。いい感じに絞れてきたね、体」


 洋子ちゃんが俺の隣にひょこりと現れて笑顔を見せる。ああ、この時だけが唯一の癒やしだ。


 とりあえず頑張ろうって思える瞬間、こんなかわい子ちゃんがいなかったら俺は今頃このジム放火してるかも知れねえ。


「ありがとよ洋子ちゃん。……しかしいつになったらパンチの一つも教えてくれるんだオッサンは……」


 そんな事を呟くと、洋子ちゃんはにこりと笑みをみせながらこう言った。


「大丈夫だよケンちゃん、このトレーニングにもちゃんと意味があるんだよ」


「意味? 俺は元プロだから体力はもうすでにあるんだぜ? こんな基礎トレばっかしなくても……」


 ニコニコしながら洋子ちゃんの言葉に俺は不思議そうな顔をすると、


「馬鹿野郎、なんにもわかっちゃいねえな。洋子、説明してやれい」


 オッサンが間に割って叱咤しったするよう言う。


「あのねケンちゃん、プロのスポーツ選手って言うのはみんな体のつくりがいいでしょ?」


「そりゃあプロだからなあ……」


「でもね、それは競技によってついてる筋肉がまったく違うの。一見みんな同じに見えるけど、例えば野球選手とサッカー選手を比べた時に、全体の体の大きさが違うのはわかる?」


 俺は彼女の言葉を受けて、脳内で何となくイメージをする。


「うーん、まあ野球やってる奴の方がなんか体がデカいかな」


「そうだね、それは野球には筋肉以外にある程度の脂肪が必要だからなの。野球は体重があった方がバッティングの飛距離が伸びる、サッカーは逆に走り回るのが常だから、脂肪があるとその分遅くなるしスタミナの消耗も早いわ。だから野球選手とサッカー選手は筋肉量としては同じだけど脂肪をつける分、野球選手の方が大きくなるわけね」


 野球ばかりの人生で、今までに聞いたことのない知識に面をくらった。


「そうか! なるほど! ……じゃあ今やってるこの基礎トレは──」


「今はケンちゃんに染み付いた余計な脂肪を落とすトレーニング! ボクシングはいかに体を絞るかの競技でもあるから、ちょっとつまんないかも知れないけどちゃんと意味があるの」


「そ、そうだったのか……!」


 単純な俺の頭にシンプルな答えがつきつけられる。


「前にお父さんとスパーした時にすっごく疲れたでしょ? あれはケンちゃん自身の自重と、腕力まかせの無駄な動きが原因なの。ボクシングの1Rワンラウンドは3分、少しでも体を軽くしないと後半持たないわ」


「その通りだ拳坊、だがおめえはわしのトレーニングをしっかりやっとるから、体重は落ちてる筈だ。ちょっと体重計に乗ってみろい」


 俺はオッサンに言われるがまま体重計に乗ると、


「おっ……すげえ、2キロも落ちてる……!」


 元々89キログラムだったのが、87キログラムにまで下っていた。


「なんかこうして数字に出されると、体が軽くなったと実感できるような……」


 俺はうきうきと嬉しがるが、オッサンは何故か渋い顔をしている。


「現時点でクルーザー級か……おめえのその体だとミドル級以下まで落とすのはこりゃ至難だな……」


「ん? あっそうか、ボクシングって体重で階級が違うのか」


 俺は思い出したように言う。そう、ボクシングは体重別で階級制度があり、日本人の選手はミドル級以下で活躍する者が多く、特にフライ級で世界を制している者がもっとも多いのが現状だ。


「安心しろよオッサン、どの階級でも俺がチャンプになるっての」


「アホ! それができたら苦労しねえわい! いいか、日本人でクルーザー級やヘビー級で世界チャンピオンになった奴なんていねえんだ。それに、今の階級じゃどうしても駄目な理由もある」


 オッサンが怒鳴るように言うと、俺は口を返す。


「じゃあ俺がその第一人者になってやらーな! それとも何だ、俺がなれない理由でもあるのかよ!?」


 口答えをすると、オッサンは肩を震わせてこう言い返した。


「いいか、耳の穴かっぽじってよおく聞け……ミドル級より上はなあ…………人気が無えんだ!!」


 その叫び、想いはジムにこだまする。


 ──人気! それはあらゆるスポーツで結構大事なことである!


 人気があれば競技人口が増え、それに伴いファンも増える! 野球やサッカーなどのチームスポーツが人気なのは、ひとえにルールの明確さ、統一された洗練性があるということ。


 その中で数多のスター選手が生まれ、人類が避けて通れぬ、人と人との協力があってこそ誕生するドラマがそこにあるからである!

 

 ボクシングももちろん人気の競技だ。だが、複雑化された階級制度によりまたファンが違ってきたりもするし、それにより報道関係や試合数なんかも変わってくる!


 日本人に特に人気なのはミドル級以下のクラス! そこに競技人口が集中してるが故に、重いクラスはあまり注目をされなかったりする……何とも言えぬ不遇さがあったりするのだ!


「人気なんかあとから出るだろ」


「甘い! おめえの考えは綿菓子機にこびりつくザラメより甘ぇ! ボクシングをなめんじゃあねえ!」


 そんなのわからんだろと俺は口をとがらせて言ったが、オッサンに一喝された。


「とにかく今は基礎トレーニングを──」


 と、オッサンが講釈をたれようとしたその時であった。オンボロジムの扉を蹴飛ばすように二人の男が入って来た。


「南方さ〜ん、土地を手放す気にはなりましたかあ? それと、今月の利息を貰いにきましたよっと」


 嫌味な顔をして柄の悪いスーツを着た、まるでお約束のような悪徳金融業者みたいな男がそう言ってきた。


「ぬう! ま、待ってくれ! 今すぐは無理だ、すまねえべらんめえ! あとそれと土地は手放さねえ! わりいがしっぽ巻いて帰ってくれ腐れ極道の犬畜生が!」


 オッサンは謝ってるのか怒ってるのか、よくわからない言葉でその男に言い返す。


「相変わらず口と顔面の悪い男だ……! おい、南方! 今日こそは色々と覚悟してもらうぞ! 佐山、やってやれ!」


 男がそう言うと、もう一人のガッチリとした体格の男が指を鳴らしながら前に出てきた。


「おっ、なんでえなんでえ! 暴力で来るってえのか! わしは引かんぞ! せっかく有望株がうちに来たんだ! このジムはこれからなんだ、邪魔はさせんぞ!」


「お、お父さん! 駄目よ!」


 一歩も引かない父親を見て、洋子ちゃんが慌てて止めに入る。


「くくく……南方さんよお、頑固なあんたは暴力程度じゃ引かねえだろうな。そこで一つ提案だ、俺とボクシングで勝負しろ。これは正々堂々とした男と男の賭け事だ。あんたが勝ったらしばらくこちらも身を引いてやる、だがこっちが勝ったら今日でこのジムは開け渡してもらう──どうだ、悪くねえだろ?」


 佐山と呼ばれる男はにやにやと笑いながら、そう提案してくるとオッサンは二つ返事で、


「できらあ!」


 あっさりOKをかました。


「お父さん! 駄目よ、そんな簡単にOKしてKOされたらどうするの!?」


 洋子ちゃんがオッサンの肩を揺らしながら言うと、


「でえ丈夫だ! あんな若造わしにかかれば──ッ!」


 威勢よく腕を振り回すオッサン。しかし、突如それは襲ってきた。


 南方熊三、御年51歳──突発性腰痛持ち!!


 電撃のような衝撃が腰に轟く。オッサンは不甲斐なくその場に倒れると、脂汗を流した。


「ぐおおっ……!」


「ほら見なさいよお父さん!」


 洋子ちゃんが腰を擦ってあげてると、佐山は高笑いしながらそれを見る。


「くっはははは! どうやらこっちの"不戦勝"みたいだな! このジムは貰ってくぜ」


 南方ボクシングジム、これにて幕切れか──否、まだ終わってはいない。


「おいちょっと待てよ、俺を無視して話しを進めてんじゃねーぞ三下……!」


「あ"……? 誰だお前」


 眉間にしわを寄せてこちらを睨む佐山。俺はろくに動けなくなったオッサンの前に出て、名乗りをあげた。


「このジムで戦えるのはオッサンだけじゃねえ。ここが欲しけりゃ俺を倒してからにするんだな」


 指をボキボキと鳴らして俺は挑発する。


「馬鹿野郎! おめえはパンチ一つまともに打てねえトーシローだぞ! 下がってろい!」


「馬鹿はオッサンだろが! そんな腰じゃ戦えねーだろ! 俺にまかせろよ」


 俺達は文句をぶつけ合うと、向こうの男達はニヤリと笑って間に入ってきた。


「私達は構いませんよ。そこの男とうちの佐山、この二人に決着をつけて貰おうじゃないですか。佐山、それでいいな?」


「もちろんです。おい、リングに上がりな。ルールは至って普通のボクシングルールといこうじゃないか。文句ないだろ?」


 佐山は床に転がってるグローブを拾って、こちらに投げてきながらそう言った。


「ああ問題ねーよ」


 俺はグローブを嵌めながら即答で返す。


「わしは認めんぞ! そいつはまだうちに来て一試合もしてないような野郎だぞ!」


「南方さん、ならこのままこのジムを開け渡すことになりますが? 私達としては願ってもないですが」


「ぐぬぬぬ……! きたねえハイエナどもめ……!」


 オッサンは腰をさすりながら額に汗を浮かべた。


「お父さん無理はしないで……! ケンちゃん、ほんとに大丈夫? 無理してない……?」


「洋子ちゃん安心してくれよ、俺は大真面目だぜ。絶対勝ってこのジムを守ってやるよ」


 俺はきりっとした顔で彼女にそう言って、心の中でなんて自分はカッコイイんだと酔いしれた。


 上着を脱いでリングに上がると、佐山がこちらにヘッドギアを投げてきた。


「着けてもいいぞ。素人なんだ、恥ずかしがるなよ」


「いらねーな、それより自分の心配した方がいいぜ? これから干物みたいに地面に倒れるんだからよ」


 俺は馬鹿にするように笑う佐山に対して、渡されたヘッドギアを宙に放ると、不格好な構えをしてみせた。


「ケンちゃん……頑張って……!」


「それじゃあ始めるぞ、レディー……ファイト!」


 カーン、とゴングがスーツの男によって鳴らされた。もう、後には引けぬ雄と雄のタイマン勝負。


 あとに残るは──どちらかの強き『獣』だけである!





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