守り刀


「見て、あの子達・・」

 立ち止まった彼女が、彼の腕を引きながらそっと囁いた。

「なになに? あ、ほんとだ。姉妹、なのかな?」と、彼の口許が緩む。

 二人の視線の先には、隣り合ったベビーベッドの中、小さな手を繋いで眠る二人の乳児の姿。

「かわいい・・」彼女の目がとろけている。

 彼らは夫婦だった。新卒の入社式で知り合い、五年程付き合って結婚した。ところが、一年以上経っても子どもを授かることができなかったのだ。子どもが欲しかった二人は検査を受けに行くことにした。その結果、彼は造精機能障害、彼女は先天性の子宮発育不全であるという衝撃的な事実が判明したのだ。けれど、諦め切れない二人は、それでも二年ほど、奇跡が起きるのを願いながら不妊治療を受け続けた。それほどまでに、彼らは子どもが欲しかった。幼い頃に両親を亡くして親戚の家をたらい回しにされて育った彼と、母子家庭だった彼女。そんな二人には、自分たちの家族を作ることは共通の悲願だった。とは言っても、血の繋がりに拘っていてはズルズルと歳をとっていくだけ。相談した末、養子を迎えようということになった。さっそく児童相談所に行き、養子縁組の登録をする。その後、初回面接と一次審査をし、家庭調査と二次審査があり、研修や実習を経て、一年程でようやくここまで辿り着いた。赤ちゃんを紹介できそうですよ、との連絡があり、二人は飛び上がって喜んだ。願わくば乳児をと希望していた。今日は赤ちゃんとの対面の日。対面する部屋に案内されている途中、ベビーベッドがびっしりと並んだ部屋の前を通過した。その時に見た光景だ。

 手を繋いだ二人の乳児は、ピンクと黄色のマシュマロのような色合いのロンパースを着て、小さな口を時々動かしながら、ぐっすりと眠っているようだった。夫婦は、二人のその健康そうな丸々とした顔とお腹と手足など全てから目が離せなくなってしまった。恍惚と立ち竦んでいると、先に立って説明しながら歩いていた職員が、夫婦の返答がなくなったので、どうしたんですかと引き返してきた。

「あ、すみません・・赤ちゃんたちがあまりに可愛くて・・」と、妻が謝ると、職員は慣れたもので、みなさんそう言われますよ、と困った笑顔を浮かべた。

「でも、赤ちゃんは可愛いだけじゃないんですよ。育てるのは、本当に大変なんです。赤ちゃんは、動物ではない、小さな人間ですから。それがわからない人たちが、可愛いだけで産んだ結果が、この子たちなんです」

 職員のその言葉に、もう既に面接は始まっているのかもしれないと、緊張した二人は、思わず声を揃えて、わかっているつもりですと生真面目に答えた。二人のその答えが意外だったのか、職員は一瞬真顔になった後、ゆっくりと微笑んだ。そして、大丈夫ですよ、と続ける。

「全ては縁ですから。私たちを含めた外部が良かれと思ってなにをしようとも、結局、縁の繋がりだけはどうにもできませんもの」それを口にする職員の目元は歪み、どこか悲しげな表情だった。

 この時、夫婦は、職員の言葉から、もしかして自分たちは信用されていないのかもしれないと取ったのだが、それは勘違いだったことを後に知る。職員は、生みの母親の元に返され、殺されてしまった不憫な子ども達のことを言っていたのだ。しかし、職員の言葉は、また違った意味をも発生させた。この時、夫婦の目に偶然止まった二人の乳児が、その後、夫婦の養子として家族になるとは、誰も予想できなかったが、それは、まさに縁が成した技だったのだ。



 雨上がりの屋上。

 入道雲が聳える青空を映す水溜りが、ひび割れて苔生したコンクリートを斑に染めている。

 ゲリラ豪雨に見舞われても、暑さは一向にやわらぐ気配がないどころか、むわっとした湿気まで追加される始末。昼休みのチャイムが鳴っても、屋上に人気がないのはそんな理由からだ。

 ところが、二人は、さっきからずっと、顔を寄せ合って、熱心に一通の手紙を読んでいる。

 時折、微かに風が吹いて二人の夏服のスカートを揺らすが、吹き出る汗までは乾かしてくれない。強くなってきた日差しが、二人の半袖シャツから伸びたしなやかな腕を焼いていく。脇にほっぽり出された二人の弁当箱の中で、食べかけのコロッケが熱を持ち始めている。それでも、二人は手紙に夢中だ。

「それで、どうするの?」先に顔を上げたのは、セミロングの髪に奥二重の目と形のいい唇の女の子だ。

「どうするって・・わかんないよ」手紙を握りしめているのは、癖っ毛のショートボブに、ちょっと垂れ目の女の子。

「この手紙の主は、フーと付き合いたいみたいだよ」ロングの子は弁当の残りを口に運びながら、ボブの子に答えを迫る。

「付き合うって・・あたし、相手のことなにも知らないんだよ? スーと同じクラスってことしか」スーはどんな男の子か知ってるんでしょ? 教えてよ、と言われて、今度はスーが戸惑う番だった。

「えー・・っとねぇ・・・・あっ!確か、学級委員やってたんじゃないかな? それで、いつも黒板の前に座っててー・・頭は、よかったと、思うなぁー・・多分」モゴモゴと食べながらの曖昧なスーの証言はあまり当てになりそうもない。

「そういうのもなんだけど、聞きたいのは、そうじゃなくて、顔? とか、見た目なの」

 フーも弁当箱を引き寄せると、残っている一口分の白米とコロッケを口に放り込んで蓋をして包む。

「えっ!見た目? 見た目・・見た目かぁー・・・・ちょっと、思い出せないかも」テヘと笑って誤摩化すスー。

「でもさー見た目って、そんな大事?」と、スーは、困り眉で襟元のリボンをモジモジ弄っているフーに聞く。

「大事だよ。だって、もし、スーの憧れの加賀谷先輩が、ある日、変な病気にかかってゴリラみたいな外見になっちゃったら、それでもスーは好きでいられる?」ぐうの音も出ない返しに、スーは、無理だと言うしかない。

 加賀谷先輩は、この高校一番のイケメン水泳部長だ。

 入学初日の部活動紹介で一目惚れしたスーは、その他大勢の女子部員と同じく先輩目当てで水泳部に入部した。

 フーは、スーの動機を不純だと罵ったが、加賀谷先輩のイケメンっぷりの前では、さすがのフーも口許が緩んでいたのをスーは見逃さなかった。

「わかった。じゃあさ、見に行こう!そのほうが手っ取り早いでしょ? 教室にいるよ、きっと」

 ランチバッグを掴んだスーに、えーでも失礼じゃない? と、見た目を気にしていたくせにフーは気乗りしないようだ。

「顔が気になるんでしょ? 見て、それから返事を決めればいいじゃん!ほら、チャイム鳴っちゃう。行くよっ!」悪戯っ子のように笑ってそう言うが速いかスーは、フーの手から手紙を引っ手繰って、出入り口に向かって走っていく。

 ちょっとー待ってよー!と、お揃いのランチバッグを掴んだフーが慌てて後を追い掛けた。


 フーとスーは、乳児院から養子縁組をして例の夫婦の元に来た子どもだ。

 夫婦が目にした、手を繋いで眠っていたまさにその乳児達だった。

 夫婦に最初に紹介されたのは、フーだった。けれど、あの光景を見ていた夫婦はどうしても、もう片方の乳児もお願いしますと希望したのだ。

 二人は姉妹ではなかった。血の繋がりもない。赤の他人だ。ただ、偶然、隣り合わせのベビーベッドだったというだけの話で、あの時も、寝ていた二人が伸ばした手が偶然触れて握ったのだろうと思われた。赤ちゃんには手に触るものを握る性質があるのだ。それでも、夫婦には、二人の間になにか絆のようなものが感じられたのだった。

 この幼く純粋な二人を離すべきではない。そう思ったのだ。そんな夫婦の熱意が実り、二人が晴れて夫婦の子どもとなってから十六年が過ぎた。双子のように育てられはしても、性格や容姿は全く違う二人はそれぞれの個性を発揮して伸び伸びと成長し、瑞々しい果実のような元気な女子高生になった。

 仲がいい二人は、同じ高校に揃って進学し、それぞれが違った得意なことで互いに励まし合うようにして生きてきた。そんな二人の姿を目にする度に、両親は二人とも引き取ってよかったと感慨に耽るのである。

 フーとスーという呼び名は、二人の寝息の音、フーはふーふーで、スーがすーすーが由来だとか、幼い二人がお互いをそう呼んでいたからだとか諸説ある。由来はとにかく、二人は、フーとスーで、両親からも友達からもそう呼ばれていた。

 運動神経がよかったフーは、高校二年になる頃には、所属するフェンシング部のエースになっていた。試合にもたくさん出場して、そのたびにトロフィーや賞状をもらう。ところが、スーはいつまで経っても個人メドレーが泳ぎ切れないでいた。答えは簡単。加賀谷先輩に見とれて、練習に身が入っていなかったからだ。けれど、スーは水泳が上達しないことを意に介さないどころか、先輩の鍛え上げられた裸体を拝めて、先輩と同じプールに浸かれるだけで幸せーと、変態ちっくなことを言って毎日嬉しそうだ。少し控え目で神経質なところがあるフーと違って、スーは大らかで楽観的な性格をしていたのである。

 スーは語学が堪能だった。英語の成績は常にトップで、それ以外にフランス語やドイツ語を勉強していた。

「いつか、世界を飛び回る著名人や有名人お抱えの通訳になるの!」それ以外はどうでもいいという極めてシンプルな思考をしていた。フーは、そんなふうに夢に向かってストレートに生きられるスーが羨ましかった。

「あたしは、将来なにをしたいとか、あんまり考えられない。今が充実してれば、それでいいって思っちゃうの」

「それはそれで、悪くないよ。ありあり」

 あっけらかんとしているスーに、フーは何度となく救われた。

 フェンシング部のフーは、水泳部のスーより終わるのが少し早いので、いつも校門でスーと待ち合わせをして一緒に下校する。

 ところが、フーが校門でいくら待っていても、スーがなかなか現れなかったことが一度だけある。

 高校二年の夏休みだ。

 積乱雲がいくつも迫り出した空は眩しくて、突き刺さってくるようだった。

 照り返しでアスファルト道路も校舎も校庭の砂もなにもかもがフラッシュを焚いたみたいに白飛びしている午後だ。先に部活が終わったフーは、額の汗を拭いながら、校門の脇に植えられた桜の木が落とす日陰の中で、音楽を聴いていた。それは、フーにラブレターを送った男の子が薦めてくれたミュージシャンだった。

 結局、スーと一緒に顔を見に行った後、友達だったらと返事を出したのだ。思いの他、趣味がいい子でフーが知らないジャンルのCDなんかを貸してくれたりするので、気分で聞いたり聞かなかったりしている。

 油蝉が桜の木に止まって鳴き出した。

 茹だってきた頭と空腹に、イヤホンから流れるエレキギターの音と油蝉の一本調子な大声が混ざって耳障りに響き、フーはだんだん苛々し始めた。鞄に括った時計を見ると、とっくに正午は過ぎている。スーはまだかと待ち切れず、乱暴にイヤホンを外すと、フーはプールへと向かった。

 プールの更衣室の開けっ放しの扉を入ると、濡れたプールサイドに制服姿のスーが、しゃがんでいるのを見つけた。スーは、編み目模様に揺れる水面を、放心して見つめている。フーが声をかけても反応がない。近付いて肩を叩くと、ようやく顔をフーに向けた。目が見開かれている。

「なにしてんの? いつまでも来ないから、迎えに来たんだけど」

 苛立ちが混じったフーの問いに、スーが、ごにょごにょと小声でなにかを呟いた。

「・・・・キスされた」やっと、それだけが聞き取れた。

「は? キスされたって!うっそ!ほんとっ? 誰? 誰に? まさか、まさか・・加賀谷先輩、とか・・?」

 スーは真っ赤になって頷いたが次の瞬間、彼女いるんだってぇー!と号泣し始めた。

「部活終わって、先輩と、二人で残って掃除してる時にぃー・・な、なんとなく、そういう話になってぇー・・ノ、ノ、ノリで、あたし、告白しちゃったのぉー・・そしたらぁ、彼女いるからってぇーー・・」

「振られちゃったってわけ? え・・でも、なんでそこからキスなわけ?」

 フーが、汗で張り付いた髪の毛を、うっとおしそうに搔き上げた眉間に不審そうに皺を寄せる。やっぱり前髪を切ろうと思った。フーは前髪を伸ばし気味で斜めに分けている。そのほうが、フェンシングのマスクを被った時に、おでこが蒸れないからだ。

「こ、こ、これで、勘弁してってぇーー・・嬉しいんだか、悲しいんだか、もう、わけわかんないのよぉー・・」

「あー・・確かに、それは混乱するわー」

 泣きじゃくるスーを慰めながら、うっとおしい前髪を耳にかけようとするフー。けれど長さが足りないので、かけてもかけても落ちてくるのだ。暑い・・フーは、だんだん、目の前の色んなことがどうでもよくなってきた。暑い・・自分の頭蓋骨の中の体液がボコボコと沸騰して、脳みそが茹でられている絵面ばかりが浮かぶ。暑い・・頭が朦朧としてきた。

 目の前にはいかにも冷たく涼しげな水が、光を反射しながらそんな彼女を誘っている。暑い・・けれど、スーは、正直言ってフーにはそこまで大事だと思えないようなことで泣きじゃくっている。

 そんなに本気だったの? だって、そもそもスーは、先輩と付き合いたいとかそんな片思い的な気持ちじゃなかったじゃん。ファンみたいな感じだったんだから、先輩に彼女がいようが、いまいが変わらず好きでいればいいじゃん。キスされたのだって、ファーストキスなら余計に、憧れの人とできて良かったじゃん。あたしなんて・・あたしなんて、まだだし。相手もいないし。フーは濁った色をした一滴が、胸にじわっと広がるのを感じた。どうでもいい。暑い・・スーは泣きやみそうもない。スーって、こんなにウジウジしたとこがあったんだ。ちょっと面倒臭いな、とフーは空を仰ぐ。眩しくて、暑い・・

 目眩を覚えたフーは、泣き続けているスーの腕を唐突に掴むと、プールの縁を蹴って勢いよく光の編み目が揺れる水に飛んだ。

 アクアマリン色に輝く水は想像通りの気持ちよさで、フーを迎えた。無理矢理引きずり込まれたスーは驚いて、水中で手足をばたつかせながら水上に出ようとした。フーはその手を掴む。そして、二人は同時に顔を出した。

「ちょっと、フー!なにすんのっ!水飲んじゃったじゃん!」顔を覆った長い髪を、両手で掻き分けながらスーが叫ぶ。

「暑かったのっ!それに、ウジウジ泣いてるなんて、らしくないよ!」そう言ってフーは、スーに勢いよく水を引っ掛けた。

「あたしにだって、そんな時があってもいいじゃんっ!」スーも負けずに水をかける。

「らしくないっ!どんなことにもポジティブなのが、スーでしょ!」フーは、飛びかかってスーを沈める。

 はぁーなにそれー!と顔を出したフーに水で仕返しをしてくるスーは、もう破顔している。

 ツンとした塩素の匂い。飛び散る水滴が、太陽の光を乱反射して、プリズムのように虹色に、輝いている。

 夏の空も、どの季節よりもキラキラ透明に見える水も、生命力の溢れる草木の濃い緑も、蝉の鳴き声も、半袖の夏服も全部好き。全部全部、好き。愉快な気分になったフーは、大声で笑う。スーもわけがわからず、つられて笑う。

 散々水掛け合って潜った後、揃ってプールサイドに打上げられた。堪え難い程の空腹感に襲われたのだ。

「帰ろっか」

 どちらからともなく呟いて、立ち上がった時、制服から下着、ローファーまでぐっしょり濡れて、雫が垂れている恰好をお互いに認め合い、吹き出す。

「ヤバ、ブラ透けてね?」スッケスケじゃーん、エローぉー変態ーと笑い出して、じゃれながら競争するように家に帰った。

 そして、出迎えた両親の唖然とした顔を見て、更に笑い転げる。

 自分たちが両親と血の繋がった子どもではないことは、彼女達は比較的早くから知っていた。

 自分たちだけ、出生児の写真や臍の緒がないことで不審に思った二人が両親を問いつめたのだ。

 彼女達は、公共施設のトイレに設置されたベビーベッドでほぼ同時期に保護されたこと。産みの親はわかっていないこと。そのため、赤ん坊の頃には誕生日は疎か名前すらなかったことなどを父は優しく話してくれた。

「だから、君たちの誕生日と名前は、パパとママで勝手に決めたんだ。ごめんね」申し訳なさそうに謝る父と母。

 なにを謝ることがあるのだろうと不思議に思った。そんな事実が、だからなんなのだろう。そんなことが判明したところで、自分たちが父母の娘であることに変わりはないのだ。なにかが揺れるわけでも、傷付くわけでも、壊れるわけでもない。むしろ、見ず知らずの二人を姉妹にしてくれたことに感謝している。二人が両親の娘になった記念の夏、この一年の中で一番鮮やかな色彩に溢れる大好きな夏の日を、二人の誕生日にしてくれたことが嬉しかった。両親が、二人をかけがえのない存在として大切にし、分け隔てない愛情を注いでくれていることを娘たちは充分わかっていた。そんなちっぽけな真実などではびくともしないくらいには、家族の絆はしっかりと強固なものになっていたのだ。どこの家庭にも負けないくらいの自慢の家庭なことに変わりはない。そんな家庭で過不足なく育った二人はまだ十七歳で、制服の下には無限の可能性が隠れていて、広大で美しいこの世界の住人として、これからもずっと笑いながら幸せに生きていく。高校を卒業して大人になっても、結婚しても、ずっといつまでも二人は変わらない。

 当たり前にそう、信じていた。



 夏が終わり、年が明けて少しした頃、フーは頭痛を訴えるようになった。

 ところが、頭痛薬を飲んで休んでいても一向によくならない。それどころか、嘔吐までし始めたので救急車で総合病院に運ばれる事態となったのだ。そして、CTやMRIなどで細かく検査をした結果、下された病名がDIPGだった。

 DIPG、びまん性橋膠腫。

 脳腫瘍の中でも脳幹の橋や脊髄などに発生する質の悪い癌なのだそうだ。

 フーの脳腫瘍は、脳幹は疎か骨髄にまで広がっており、手の施しようがなく余命二ヶ月と宣告された。

 両親は、なんとかならないかと医者に取りすがったが、首を振られるばかり。手を尽くして調べてみても、脳という様々な機関の神経が通る部分だけに手術の成功例はなく、絶望的な現実に圧し潰されるようだった。

 フーは日に日に弱っていった。顔や体に麻痺が起こり、徐々に聴覚が失われていった。もう、好きな音楽も聞けないのだ。

 壊れていく己の体に恐怖するフーは、泣いてばかりいた。

 スーは、フーの側を片時も離れなかった。

 大丈夫だよと笑顔でフーの乾燥してしまった細い手を強く握ったまま、紙に文字を書いて会話をする。体を擦り、アロマや花などいい匂いのする物をたくさん持ってきた。フーの好きなお菓子も内緒で持ち込んで少しずつ口に入れてやる。

 スーは決して諦めなかった。フーは大丈夫。絶対、直る。そう信じていた。ずっと一緒に生きてきたのに、自分だけ置いていなくなるはずない。そう思うことで、崩れそうな自分を保っていた。それは、両親に至っても同じだった。父も母もげっそりとやつれ、目が腫れているのを、無理して元気に振る舞っている。愛する娘を助けてやれない、どうにもしてやれない無力さに打ち拉がれているのが傍目にも明らかだった。

 世界の影になった乳児院から、日の当たる世界に抱き取ってくれた偉大な両親でさえ、フーを救ってやることができないのだ。

 放射線治療が終わり、衰弱して眠るフーの手を握り大粒の涙を流す父と、泣き伏す母の姿を見るたび、ああ、フーはもう本当にダメなんだと、スーは気が狂いそうになる。


 フー、行かないで!


 あたしを置いて、行かないで!


 あたし達は、いつでも一緒でしょ?

 また、今年の夏に一緒に誕生日を迎えるんだから!


 お願い!どこにも逝かないで!


 白濁した意識のフーが、スーの名前を微かに呼んで、うっすらと目を開ける。

「・・ずっ と い しょに い てく れて・・ あり が と・・」

「なに言ってんの? これからも、ずっと一緒でしょ!お別れなんて、しないからっ!」

「・・スー ・・く よく よ し な で・・」

 また、ポジティブでいろとか言うんだ・・そんなの無理だよ・・!と、スーは、言葉にできない悲しみを噦り上げる。

 フーは力を振り絞って、スーの後ろで悲痛な面持ちをして突っ立っている父母に視線を滑らせた。

 パパ、ママ・・とフーに呼ばれた両親は、はっと顔を上げて、倒れ込むように娘に駆け寄る。

「・・せ かく そ だて て くれ の に・・  おん が えし で きな く て・・ ご め なさ・・」

 娘の言葉に、母はフー、フーと名前を連呼しながら泣き崩れ、父は、いいんだよいいんだよ、そんなこと気にしなくていいんだよ、と何度も繰り返しながら娘の髪が薄くなった頭を優しく撫でる。

「フー、君に出会えたことが、パパとママの幸せなんだよ。フー、フー、生まれてきてくれて、ありがとう」ありがとう、と父は泣きながらフーの頭を優しく抱き寄せた。

「・・う れ  し なぁ」

 フーは安心したように小さく息を吐いて微笑み、目を閉じると、そのまま昏睡状態となった。


 そして、世界が、凍り付いたかのように音一つない、冴返る白い満月の夜。


 家族の必死の願いも虚しく、フーは、たった二ヶ月の闘病生活の末、十七年の短い生涯を、ひっそりと閉じた。

 フーの心電図が真っ直ぐな線になった時、家族は何も言わず、ただ、骨と皮だけになったフーの手を強く握り、その痩けた頬を両手で包み、体に突っ伏して、静かに嗚咽していた。涙は、深い傷口から溢れる血のように止まることなく流れ続ける。

 スーは、冷たい月の光が差し込む白い病室ごと、永遠に時が止まってしまったような錯覚に囚われた。

 なにかが、おかしいとしか思えなかった。


 時が止まるべきなのは、フーとふざけ合った、あの焼けるように鮮明な夏の日々、だ。

 二人で過ごしてきた、いくつもの色とりどりの季節のはず、だ。


 こんな、こんな、白く色のない乾いた景色なんかじゃない。


 こんなの嘘だ!

 全部、嘘!


 きっと、フーは生きてる。

 どこかで生きてるはずなんだ!


 息を引き取ったフーが、葬儀屋に搬送されていく時も、保冷室に入れられる時も、スーは付き添った。そして、葬儀当日まで毎日のようにフーの元に通った。

 冷たくなったフーの手を握って話しかけながらも、スーはどこかでまだフーが死んだことが信じられなかったのだ。だから、こうしていれば、フーが生き返るような気がしてならなかった。

 両親はそんなスーを、見て悲愴の涙を流すだけで精一杯だった。


 フーの葬儀当日。

 納棺をする部屋に案内された三人は、制服姿で布団に横たわる変わり果てたフーを見た途端、慟哭を上げた。同じ制服姿だったスーは特に、前後不覚になって号泣した。

 実感してしまったのだ。


 フーは、死んだ。

 フーは、死んでしまったのだ。


 フーの体はここにあるが、二度と動くことも話すことも、目を開けることも、ない。


 あんなにいつも近くにいたフーは、フーの魂は、意識は、消滅してしまった。

 スーの知らないどこかに、逝ってしまったのだ。

 赤ん坊の頃から一緒にいたフーは、この世界から、忽然と、消えてしまったのだ。


 悲しかった。

 悲しくて悲しくて、もう全てがなくなってしまえばいいと思った。フーのいないこの世界なんて、消えればいいのに、と。

 

『スー くよくよしないで・・』


 無理だよ!無理だよ、フー!

 あたしの世界からフーがいなくなっちゃったんだよ!どうして、気にしないでいられるっていうの!

 フーはあたしの大切な、たった一人の姉妹だったのに!

 フーを死に至らしめた全てが恨めしかった。フーの代わりに生きている両親と友達以外の鳥や人が妬ましかった。どうして、フーが死ななきゃいけなかったの? どうして、あんなに輝いていたフーが・・遺言は、到底守れそうもなかった。

 半乱狂で泣き叫ぶスーを、同じように取り乱した父母がなだめながら、なんとかフーは棺に納まった。

「どうぞ、旅で使うお道具を入れて差し上げてください」

 納棺師に言われて、父と母が泣きながら、フーの足元に草鞋や杖や編み笠を入れた。

「フーは、ボクたちを見送ってくれなきゃいけなかったのになぁー・・」と、父の悲しい呟きが聞こえる。

「最後に、身を守る刀を、胸元に納めてさしあげてください」

 スーがはっと顔を上げると、納棺師が短剣らしきものを差し出していた。刀・・剣・・?

「フルーレ・・フルーレ!持ってくればよかった」

 フェンシングで使う剣のことである。

「でも、スー、フーの愛用のフルーレは、鋼でできているから、さすがに入れられないんだよ。その刀は燃えるものでできているんでしょう?」

 父の質問に、納棺師は、アルミでできていますと答えた。

「フーは腕がいいから、きっとその刀も使いこなせる。大丈夫だよスー」納めてあげて、という父の言葉に従って、納棺師から刀を受け取り、フーの手元に添えた。剣があるだけで、フーは強そうに見える。なんたってフェンシング部のエースだ。

 フーは大人の男の人にだって負けなかった。

 何度も試合で見たフーの勇姿は忘れない。最高にカッコよかった。

 だから、確かに父が言うように、フーなら使いこなせるような気がする。

 棺の蓋が閉められて、フーは式場へと運ばれていった。その様子を放心して眺めているスーの耳元で、父が囁いた。

「後で、アルミと紙を買ってくるから、作るの手伝ってくれないかい?」

 父は、やっぱり心配らしいのだ。

 細いから芯はなにがいいだろうか、何本くらい作れば困らないだろうか、とウサギのように目を赤くした母も一緒になって真剣に考えている。そんな家族が愛おしかった。父母はどんな時でも、二人に真っ直ぐな愛情をたくさん注いでくれた。

 血の繋がりのない自分たちを娘として迎え、育ててくれた両親には、フーが最後に言い残していた通り、感謝しかない。

 フーと一緒に幸せな時間を過ごせたのも、両親が自分たちを二人揃って引き取ってくれたお陰なのだ。こんな辛い結果になってしまったけれど、フーの分まで両親を大切にしなければいけないなと、スーの心に使命感が芽生える。


『スー くよくよしないで・・』


 フー、もしかして、見越してたの?

 自分がいなくなった後のこと。あたしのこと・・あたししか、いないこと。あたしがやるしか、ないってこと。だから、 

 スーは、やつれた顔で、力なく囁くように会話をしている両親に目を向ける。

 フーはやっぱり、最高のパートナーだ。あたしがどうにかしなきゃ。

「ここの近くの河原にススキがたくさん生えてたよ。それを芯にしたら? できるだけたくさん作ろうよ。それから」

 絶望に暮れていたせいで、副葬品すら用意していなかったことをやっと思い出した。

 明日の告別式までは、入れても大丈夫だと言っていた。

 パパと一緒に一回帰って、フーが愛用していた服や好きだったものをたくさん入れてあげよう。

 フェンシングのユニフォームも忘れずに。フーがそれを着て、勇ましく戦えるように。

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