死亡届


 木枯らし踊る十二月下旬。

 海も山も観光産業すらないその町は、過疎化の波に飲み込まれ、沈澱しているように見えた。

 彼は、そんな廃れた田舎町が一念発起した計画、大規模商業施設事業の建設作業員として、日雇いで派遣されてきた一人だ。

 流れ者の彼は、どこの現場でもそうしてきたように、休日の前夜には、飲みに出かけることを常とした。ところが、大型スーパーが一店舗ある以外は廃れた商店街しかないという有様のほとんど実のないトウモロコシみたいな哀れな土地の上に、盆地ならではの身に滲みる寒さから、作業仲間達は店を探すのすら億劫がって、例のスーパーで買ってきたつまみや酒をバラック宿舎に持ち込んで手軽に済ましていた。だが、それがまるで、監禁でもされているかのようで、息が詰まる彼は、ちょくちょく外出していた。そして、見つけたのだ。

 日が暮れぬうちからシャッターが下ろされた商店街通りの端っこで細々と経営している小さなスナックを。北風が陰気な音を立てながら吹き抜けていくのを尻目に、黄色やピンクなどの賑やかなネオンを灯しているその店は、小柄なママ一人で切り盛りしていたが、営業時間中は客が切れることはない地元のたまり場だった。

 飾りっけのない扉を開けると、カウンターとボックス席が二つだけの見た目に違わない小ぢんまりとした店内。棚の上に小ぶりなテレビは乗っかってはいるが、カラオケセットらしきものもない。横幅のあるがっちり体型の彼には、カウンターのスツールも心なしか小さく感じた。

「あら、見ない顔ね。おにいさん、どこから来たの?」

 そう言って熱いおしぼりを渡してくれたママの、ふっくらとした目元には色気のあるホクロが幾つか散っていた。四十くらいだろうか。餅のような肌に、えくぼが似合う可愛らしい女だった。男だらけのゴツゴツと薄汚れた世界で生活している彼の目には、彼女の柔らかな容姿、一挙手一投足は新鮮な輝きをもって写った。

「あぁ、あそこの工事の人。でも、生まれはどこなの?」

 彼はふと考え込んだ。彼は母の顔を知らない。物心ついた時には父が側にいて、人足だった父に連れられて幼い頃から各地を転々としていた。だから、自分がどこで産まれたのかを知らない。父に聞いておけばよかったのだろうが、父は彼が十七の時、仕事中に起こった火災に巻き込まれて帰らぬ人となった。以来二十三年、彼は一人で生きてきたのだ。なので、生まれはと聞かれても、彼の最も古い記憶の中で父とセットになって頻繁に出てくる鰹船のイメージから、九州らしきどこかだとしか答えられない。なぜ鰹船なのか、かつて父は船乗りだったからなのかわからないが、とにかくそのイメージだけがポッカリと浮かぶのだ。

「九州なら、あたしと同じね。あたしは鹿児島なの」

 彼女がにこっと笑うと、猿のように顔を真っ赤にした常連らしき中年男がすかさず、よっ!酒に強い薩摩女と合いの手を入れてくる。彼女はそれを受けて、アラおかしいわ、まだ今夜はご相伴に預かってないみたいよと返す。そいつは失礼いたしやしたーと、サル顔じいさんは、手持ちの泡盛の瓶から直接ロックグラスに注いだ。それを受け取った彼女は氷も割りもせず、水でも飲むみたいに一気にぐいっと飲み干した。

「ママってより、ねえさんと呼ばなきゃだな。閻魔様も真っ青の飲みっぷり、恐れ入ったよ」

 彼は自分のグラスに入ったハイボールが、炭酸飲料のようにちんけに思え、内心冷や汗をかいた。

「どういたしまして。泡盛が好きなだけなのよ」

 顔色一つ変えない彼女に惚れてしまった彼は、彼女の店に通い詰めた。

 彼女は、常連からはママではなく、キミちゃんと呼ばれていた。若い頃からの呼び名らしい。

「実はあたし、子どもがいるのよ。若い時の子でね。今は養子先で幸せに暮らしてると思う」

 キミちゃんが身の上話をポツポツし始めたのは、半年程経ってからだ。彼女は三度結婚して、二度妊娠しているのだという。

「甲斐性のない旦那でさ。酒に酔うと見境がなくなって、あたしが身重だろうが関係なく殴る蹴るしてくるもんだから、降りちゃったのよ。それで嫌になって逃げ出した。それが三人目の旦那」今は気ままな一人暮らしよ、と満足そうな顔をするキミちゃん。どうしてこんな関東の田舎町でスナックなんてやってんだと聞くと、なんでかしらねと首を傾げる。

「なんとなく、成り行き。理由なんて忘れちゃったわ。でも、どこに行っても、九州に帰ったところだって、実家なんてないから同じことなのよ。あたしの地元なんて年寄りと棚田しかない辺鄙な村だから、年頃になった子どもたちはみーんな農家を継ぐのが嫌だからって出ていってた」どこでもかわらない、どこでも一緒なのよとキミちゃんは言う。彼も同感だった。どこの土地に行っても、違う現場に移っても所詮は同じ、変わらないのだ。

「あたしは、根無し草でもいい。別に」

 適当に生きて、適当に死ぬからと恬淡なことを言って笑うキミちゃんに、じゃあよ、と彼は切り出していた。

「オレと夫婦になろうよ」

 おかめの面のような窺い知れない顔で固まった彼女を見て、しまった早まったかと彼は気まずそうに水割りを飲み干した。それから、項垂れて頭を掻いてから、いや嫌ならいいんだと付け足そうと口を開いたが、あたしでいいの? と震える声が聞こえたので顔を上げた。キミちゃんは表情こそ変わらなかったが、三日月のような目が潤んでいる。彼女は、いいの? ほんとに? と繰り返す。

「オレはっキミちゃんが、いいんだ!」

「・・嬉しい」

 ほわっと笑った顔を一生忘れない。一生この人を大切にしようと、彼はその時に誓った。


 それから、三十年。


 末期の子宮頸癌を患っていた妻が昨夜、静かに旅立ってしまった。

 最期に手を握る彼に微笑みを作りながら「あたしをもらってくれて ありがとう」と涙ながらに口にした妻。なにを言ってやがんでぃ。オレは、おまえが着たがっていたウェディングドレスすら着せてやれなかったっていうのにと、嘆く彼に首を振り続けながら亡くなった妻は最期まで優しく気丈な女だった。彼は、最期くらいキチンと葬儀をして送り出してやろうと、死亡届を役所に提出した足で、セレモニーホールに葬儀を依頼した。更に、彼女のスナック時代の常連に訃報を知らせると、参列してくれるというので、それなりに立派な式場に予約したのだ。


 そして、当日。

 十五時の告別の前に十三時から納棺式をすると事前に言われていたので、彼は午前中に銀行の用事を済ませる気でいた。スナックを経営していた妻が自分の名義で持っていた口座をそのまま引き継ぎ、二人の家計のやりくりを全てその預金口座からやっていたので、凍結される前に、残金を引き出しておこうと思ったのだ。

 ところが、十二時半に呼んだ友人達が集まっても、喪主である彼はなかなか現れる気配がない。遅れているのかしらねぇと十三時までには来るだろうとお茶を飲みながら待っていたが、すぐに十三時を回ってしまった。葬儀担当者がどうしましょうかと聞いてくるので、常連の一人が彼に電話をかけると、今向かっているのだそうだ。それならと、納棺師が気を使って、集まっている人達だけでも先に会えるようにと案内してくれた。

「あらあらあらまぁー・・キミちゃん、変わらないわねぇー・・」

「こんなにキレイなもんなのかい? まるで眠ってるみたいじゃないかよ」

「キミちゃん、ホラ、そろそろ起きなよ。おれ、キミちゃんが好きな泡盛持ってきたんだぞ」

 てんでに口にしながら彼女を囲んでいると、足音も荒く彼が入ってきた。彼は、入室するなり真っ直ぐに彼女の枕元に行き、彼女を見下ろすようにして仁王立ちになった。眉間には深い皺を寄せて、怒髪衝天を呈していることに気付いた立会人達が、どうしたっていうの座りなさいよと腕を引く。ところが、彼は無言で妻の顔を睨みつけているだけで動こうともしない。困り果てた立会人達が、時間もあるでしょうからどうぞ始めてくださいよと納棺師に言った。その瞬間、

「やらんくていい!こんな人になんて、なにもしなくたっていいっ!」と怒鳴った彼が妻の肩を蹴っ飛ばした。

 驚いた常連達が慌てて止めに入ったが、彼は妻を蹴り続けた。

「いったいなんだっていうんだよ!最期なんだから、しっかりしなさいよ!あんたキミちゃんの夫だろう!」

「こんな人ぁ知らねぇ!他人だっ!」と、繰り返すばかりで、彼は手に負えない。

 やっとの思いで椅子に座らせたが、彼は妻を睨みつけているばかりで、身支度を手伝うことは愚か、髪型を聞いても怒り出す始末だ。終いには、オレは知らねぇと言って隣室に行ってしまった。残された人々と納棺師は困って顔を見合わせたが、進めなければいけないので喪主なしで彼女を納棺した。

「なにか、一緒に納めてさしあげたいものはございましたか?」と、納棺師に聞かれたので、一人が隣室に行って彼から紙袋を預かってきた。中には、妻の愛用していた服や小物、写真が入っていた。

「納めてあげたい物だってちゃんと用意してたってのに、いったいどうしたって言うのかしらねぇ」と一同は首を傾げながらも蓋を閉じた。

「ねえ、いったいどうしたっていうのさ。せっかくの葬儀が台無しじゃないか」

「キミちゃんが悲しむよ!」

 線香を上げに行く前に、隣室に移動して問いつめると、彼は苛々と断片的に告白し出した。

 それを要約したところによると、午前中に銀行に行ったところ、関係を証明するための戸籍謄本の提出を要求されたので、市役所に行って戸籍謄本を取ったところ、驚くべき事態が発覚したのだという。

「・・籍、入ってなかった」

 これにはその場の全員が驚いた。常連達は彼女がスナックが始めた当初からの知り合い同士なので、もちろん彼らが結婚したことも知っていたし言祝いでくれた仲だ。それが、まさか籍が入っていなかったとは・・

「籍が入ってないって・・婚姻届は? 出したんだろう?」

「わからないんだ。あいつが、出したって言ってたから・・」一転して彼は泣き出しそうな顔をしている。

「一緒に出しにいかなかったのか? ああ、まあ仕方ないよな。男には仕事があるからな。忙しかったんだろ?」

「オレは出しに行く気でいたんだ。でも、あいつはもう出したって」

「それで、実際には出してなかったってことかい? じゃあキミちゃんの籍はどこにあるんだい?」

「九州にあるって。だから、取りに行かなきゃいけないって」

「あらあらあらあら」

「そうしなきゃ、銀行は凍結されたままで。オレがいけなかったんだ。窓口でうっかり死亡届なんて言っちまったから」

「あららららー届出しなければ口座は凍結されないんだよー」

「だから、オレが悪かったんだ。ああああーそれで、市役所に言ったら籍が入ってない、だ!」

「なるほど。籍が入ってなくても死亡届は出せるってことなのか。それも妙な話だな」

「だから、銀行から下ろせなくて、金が、金がないんだ。どうしよう・・」終いには泣き出した。

 葬儀担当者に相談してみなさいよと皆に励まされて、彼はなんとか立ち直って線香を手向けに妻が安置された式場に足を向けたが、変わらず天窓から妻の顔は覗くことはできなかった。裏切られた怒りで一杯だったからだ。

 婚姻届を提出すらしていないのに、オレは正式な夫婦なのだと喜び、励み、いい旦那になろうとしていたのかと己の滑稽さに心底腹が立った。騙されたんだとも思った。あいつは、自分の生活を楽にしたかっただけなんじゃないだろうか。そのためにオレを利用していたのかもしれない。それとも、前夫に未練でもあったのだろうか。もしかしたら、オレに内緒で会い続けていたのかもしれない。最悪な想像は際限なく無限に膨らんでいく。その根拠もない想像は、妻との穏やかな日々は噓偽りのない本物だったと信じたい気持ちを飲み込もうとしていた。どうしてなんだと疑問ばかりが浮かぶ。どうして、婚姻届を出したと嘘をついたんだ。どうして、ずっと婚姻届を出さなかったんだ。どうして、出せないなら出せない事情をオレに話してくれなかったのか。この最後の疑問が、彼にとって一番しんどいものだった。三十年も一緒にいて、そんなに自分を信用してくれなかったのかと。紛い成りにも一番近くにいたのに、妻いや彼女にとって、自分は一体どんな存在だったのか。考えたくもない恐ろしい事実だった。空虚な喪失感と、彼女が物故した事実より打ちのめされる絶望感と、三十年という年月の重さに降り潰されそうだった。この憤りを打つけられる唯一の相手は、既にこの世の人ではないのだ。なので、どうしてなのかと、わけを聞くこともできない。それらしき遺書すら見つからなかった。

 ・・もしかして、うっかり忘れてただけじゃないか? いいように考えようとすればするほど、猛烈な勢いで反撃が押し寄せる。そんなことあるわけないだろ。一番重要な届出じゃないか。それを、買い物を忘れたみたいなノリで、うっかりなんて忘れるもんか。違うだろ。どう考えたって、わざと、だ。なにかしらの理由によって、わざと届け出なかったんだ。それも、彼女しか知らない理由によってだ。彼は、彼女の養子に出した子どものことを思い出した。だが、その子どもは彼女が母親であるとは知らされていないだろうし、その存在を知らされることはないらしい。それが、養子に出す条件なのだと、いつだったか彼女が話していたことがある。もしかしたら、彼が知らなかっただけで、彼女は子どもの居場所を突き止めて度々様子を見に行っていたのかもしれないが、とにかく、その子どもが例えば相続や遺産(と言ってもほとんどその日暮らしだったので、それらしきものはないのだが)に絡んでくることはないだろうから関係はないだろう。読経が始まった通夜の間中、彼は俯いて無意識に数珠を弄りながら、そんな答え合わせのできないどうしようもない推測を悶々と考察していた。

「あたし考えてたんだけど、もしかしたら、キミちゃんは、あんたを守りたかったのかもしれないよね」

 出棺間際に、常連の老婆が近付いてくると彼の耳元でぼそっと呟いた。どういうことかと聞き返すと、思い出したのよと老婆は合掌をしたので、慌てて彼も合掌をして霊柩車の後ろが閉まるのを見届けた。

「前の旦那、そう、ヤクザのさ。執拗にキミちゃんを追い掛けてきてたらしいから。引っ越しても引っ越しても調べて来るんだって嘆いてた時期があったのよね。それを思い出したから、もしかしたら関係してるんじゃないかなと思ったんだけども、まぁでも、きっと見当外れだわね」老婆はそう言って去っていこうとした。彼は、慌ててその腕を掴むと、詳しく教えてくれとせがんだ。

「喪主様、霊柩車にご同乗されますか?」と運転手に聞かれたが、彼は手を振って断り、遺影と位牌を抱えて老婆と同じ軽自動車に乗り込んだ。

「なんだい、あんた。乗るなら運転しとくれ。息子の車を借りてきたんだから、大事に扱っとくれよ。少しでも傷つけたら怒られちまうんだから。それで、なにを詳しく聞きたいって?」

「うちのやつの前の男のことだ。ヤクザってほんとうか?」彼は、エンジンをかけて、霊柩車の後を追い始めた。

「そうよ。もしかして、知らなかったの? でも、あたしが知ってんのはさっき話したことで全部だよ。あんたと結婚してからは、そんなこと言わなくなったから、やっと向こうが諦めたんだなと思ってたけど」

「オレはそれすら知らなかったよ」彼の言葉に、老婆が気まずそうに口を窄めたのがミラー越しに見えた。

「あらあら・・じゃ余計なことを言わなきゃよかったわね」とぶつぶつ呟いている。

「頼むから教えてくれないか。オレ、このままじゃ腹が立つだけで、あいつの骨すら捨ててしまいそうなんだ」

「それはよくないわよ。ちゃんと供養してあげないと。キミちゃんが可哀相よ」

「ダメなんだ。裏切られた思いしかないんだ。三十年も連れ添った挙げ句にこれなのかって悔しい」

「そら、ショックでしょうよお。あたしだったら迷いなく旦那の死体をそこら辺に野ざらしにしちゃうくらいショッキングな事実じゃないの。だから、怒って当たり前よ。でも、こうやって立派に葬儀して送り出してあげるんだから、偉いわよお。うちの旦那に爪の垢を煎じて飲ませたいくらい。あなたが、キミちゃんのことを心から愛している証拠だわよ。だから、少しでもキミちゃんを許せる既成事実が欲しいのね・・」

 老婆が語ったことによると、どうやら彼女は彼と結婚する前後まで、ヤクザの前夫に付き纏われていたようなのだ。彼女は彼と一緒に住むまでの間にも、内緒で転々と住所を変えていたらしい。そんな事実に全く気付かなかった自分は余程彼女と結婚できることに有頂天にでもなっていたのだろう。とにかく、彼女が希望した同居場所が、やたらと店から遠かったのはそういうわけだったのかと今になって納得できたのだ。

「随分とスナックの売り上げを持ってかれて、大変だったみたいよ。お金を渡さないと店で屯して嫌がらせをするとか脅されてたみたいで。とにかく、キミちゃんは、あんたと一緒になってよかったのよ。結果はどうあれね。あんたも、辛いかもしれないでしょうけど、ちゃんと迎えに行ってあげなさいよ」しみじみと呟く老婆をミラー越しに一瞥しながら、彼は忸怩たる想いでいっぱいになった。

 火葬場に到着すると、妻と最後の対面をした。妻は、眠っているような安らかな顔をして、少し微笑んでいるようだった。病室でいつも見ていた彼女の寝顔だ。鼻の奥が痛くなって視界がゆらぐ。彼は妻の頬を両手で包み込んで嗚咽をあげた。彼の涙が彼女の顔に目元のホクロの上に降り注ぎ、彼女も泣いているように見えた。

 すまなかったなぁ・・オレが頼りないばっかりに・・苦労ばっかりかけてたんだな

 大切にするって言ってたのに、かっとなって蹴っちまうし・・オレはつくづく至らない男だ

 ほんとうに、すまなかった・・

 ・・オレ、九州まで行くからな・・だから、安心してくれ

 妻であるおまえの骨は、旦那のオレがちゃんと供養するから・・だから

 オレを見捨てないでくれ・・

 冷たい北風が吹き込んできて、どこからか『当たり前でしょ』と妻の笑いを含んだ声が聞こえたような気がした。

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