焼香


 線香の匂いが噎せ返るようだ。


 靄のような線香の煙に包まれているのは、夫。

 変わり果てた姿を、修復してもらった夫だ。


 わたしが警察で確認した夫は、頭頂部が、落としたリンゴのようにパックリと割れ、でもリンゴと違って中身はなくて、赤黒い空洞が口を開けているだけだった。一瞬、我が目を疑った。人間の頭の中が空っぽのわけない。

「・・あの、中身は、どこに?」

 妻であるわたしが、そんなことを聞いたのが意外だったのだろう。警察官は、少し目を見開いたあと、一拍置いてから、飛び散りました、と答え、ビニール袋に入った夫のスーツを持ち上げた。ダークグレーのジャケットには、白子の滓のようなものが一面にこびり付いていた。聞かなくてもわかる。飛び散った夫の脳みそだ。そう認識すると、急に意識が奥に引っ込んだ。目の前で繰り広げられていることが、映画のスクリーンを見ているような感覚でやけに遠い。

「旦那さんを、どうするのかは、葬儀屋と相談して決めてください」と警察官に言われ、はい、と自動的に返事をした。わたしは、半開きの目で宙を見つめる夫だった『モノ』に、再び視線を合わせることはできなかった。


 考えなければならないことが、山のようにあった。


 まず、夫の状態を、子ども達にどう説明したものか。

 行ってきますと出勤していった父親がふっと帰ってこなくなったのだ。不審に思うのは当たり前だろう。だから、まず、子ども達に夫が亡くなった事実を伝えなくてはならない。死因は?

 夫は、勤務が終わったその足で、会社の屋上から飛び降りていた。

 それをそのまま伝えることが、果たして正解なのかが、わからない。子ども達に蟠りを残すことになりはしないだろうか? 現に配偶者の自分でさえも、夫の自殺の動悸に関しては混乱しているのだ。ただ、今はとにかく悠長に後悔して悲しむ時間がないので、脇に追いやっているだけで。わたしでさえそうなのだ。子どもたちはもっとだろう。中学生の息子は、神経が細かく発達障害のきらいがあるので尚更、死因は伏せておいた方がいいのではないか。対面した時に目にした、夫だった『モノ』の様子が蘇る。

 あの状態では、言い逃れはできない。きっと、なにもせずに荼毘に付したほうがいいのだろう。けれど、夫の両親は健在だし、親戚も多い。勝手に荼毘にしたなんて言ったら、どやされるに決まっている。でも、真実は伏せておいたほうがいいのかもしれないと悩んでいる時、関西に住む夫方の祖父母が上京してくると聞いて、暗澹たる気持ちになった。

「向こうの代表としてくるんでしょ? 自殺より病死ってことのほうが、体裁的にまだマシなんじゃないの?」

 夫側の親戚は多かったが、今回は急だったこともあり、夫の父母だけが上京してくるのだ。


「ヤスヒコさんに、嫌な思いをさせたくないでしょ」


 母が言っているのは、自分たちのことだ。自分たちが、嫌な思いをしたくないから。夫が自殺したのを、こちらで一緒に住んでいた私たちのせいにされるのを恐れているのだ。

『やっぱり、東京はあかん』

『冷たくてかなわんわ』

『思い遣りっちゅー言葉はないんかいな』

 親戚の集まりに顔を出す度、わたしと母は、散々チクチクと小言を言われている。関西弁特有の在り来りな会話の延長のような装いをした、冷たく突き刺さってくる容赦ない会話尻。

『あんたらが、追い詰めたんちゃいますか?』

『ヤスヒコがそないなことしよったんは、よっぽどのことや。一緒に住んどって気付かんかったんか?』

 当たりの強い言葉や会話にあてられた母は一時期、ストレス性の脱毛症にまでなっていた。だから、怖いのだ。また、なにを言われるかわかったもんではないから。それは、わたしも同じだった。

 東京の気だてのいいお嫁はんと言われる裏で、気の効かんつまらん嫁呼ばわりされているのだ。


「ヤスヒコさんが、飛び降りたことは、なんとしても隠し通すのよ」


 母の意見に同感だったわたしは、早速、葬儀担当者に電話をかけると、夫の修復と自殺の事実を内密にしてもらうように依頼した。

 それから数日後。

 式が始まる直前に、葬儀場にタクシーを乗り付けてきた祖父母は、出迎えたわたしと母を睥睨すると「あの子は、どこにおるんや?」とぶっきらぼうな物言いで案内を促した。

 その険悪な様子を、控え室の扉から顔を覗かせた大学生の娘と中学生の息子が遠巻きに眺めている。

 子ども達は、まだ父親に会っていない。さすがにあの姿で、会わせることはできなかったからだ。

「これから、納棺式が始まりますので・・」

「いつから、患ってたんや? なんで、こないになるまで黙っとった」義母が強い口調で問いつめてくる。

 ただでさえストレートに突き刺さってくる関西弁に、義母のキツい性格とが合わさって、強迫観念に駆られる。逃げ出したい衝動を必死に抑えて、それは、と言葉を濁すわたしを無視して控え室に向かう二人。間もなく部屋の中から、商売人をしている義父母恒例の、大袈裟な中にピリッと皮肉を効かせた挨拶を母にする大声が聞こえてきた。

 夫が自殺した理由なんて、妻であるわたしですらわからないのだ。

 変わり果てた夫と対面した日から、毎日ずっと考えてはいる。けれど、いくら考えてみても、自殺する兆候らしきものを見た記憶がないし、夫の言葉からも妙な違和感はなかった。遺書や日記の類いを、一縷の望みをかけて探してみたりもしたが、予め処分してしまったのか、とうとう見つけ出すことはできなかった。

 ただひとつ。

 夫が着ていたジャケットの内ポケットにしまわれていたスケジュール帳に、乾涸びた黄色い水仙の押し花が挟まっていた。それだけだ。


 品行方正で曲がったことや不正を絶対に許せない性格をしていた夫。

 生前は、決していい夫とは言い難かった。疑い深く、言い訳や嘘を嫌っていたので、おっちょこちょいのわたしは、何かにつけてよく責め立てられた。それがモラハラの類いなのだと知ったのは、息子の学校のPTAで知り合ったママ友同士の集まりでだ。

『あそこの奥さん、いっつも俯いて陰気な感じよね』近所の噂話は、お茶請けとして最高だ。

『アラ、知らないの? あそこの旦那さん、暴力が酷いのよ。DVってやつね。毎晩毎晩、三軒離れたうちまで怒鳴り声が聞こえてきて迷惑なのよ。でも、奥さんはあんな感じでしょ? 一回、話しかけた時に、彼女の顔を見て仰天したわ。いつも俯いてるのは、髪で痣だらけの顔を少しでも隠すためなのよ』

『そんなに酷いなら、警察に知らせたほうがいいんじゃないの?』

『とっくにしたらしいわよ。でも、警察は事件が起こってからじゃなきゃ、注意するだけで終わりみたいよ』

『なによそれ。なにか起こってからじゃ、遅いじゃないの』

『仕方ないわよ。あそこん家、お子さんも小さいから、奥さんも諦めてたわ』

『今はほんとに多いみたいねーうちは大人しいだけが取り柄の旦那だから、かえってよかったかも』

『うちもうちも。まぁ時々高価なゴルフクラブとか勝手に買うのは勘弁して欲しいけど』

『わかるーうちなんか家にいる時は子ども達と同じでゲームばっかりしてるわよ。子どもが一人増えたようなウザさはあるけど、なにか言ってくるわけじゃないから楽ではあるよねーってかお互いに興味がないのよね。きっと』

『いいわねーうちの旦那なんて、ちょっと気に入らないことがあると、すぐに不貞腐れるわ。それも子どもの前とか関係なくよ。子どもの教育上良くないから止めてって言ってるのにお構いなし。お陰で、子どもたちが旦那の真似をし始めて困ってるのよ。ほんとうに旦那には腹が立つやらうっとおしいやら』

『暴力も勘弁だけど、口も勘弁して欲しいわよねーうちの旦那は、なにかあるとすぐに小言。姑以上よ』

『わかるわかる。家のことをなにもしないでゴロゴロしてるくせに、口だけ出してくると殺意沸くよねー』

『そうそう。一体何様って感じ。うちもよく喧嘩するわ。つっまらない内容でね』

『でも、男ってどれもそうなのかしら? 譲れないってやつ? やたらと自分の主張に拘るのよね。バカみたい』

『変にプライド高い男ほどそうよね。どんどんエスカレートしてって、なんていうのそういうの? モラハラ、だっけ?』

『そうそう。モラハラ。モラハラ。モラルハラスメント。最近、やたらと取り上げられてるわよね』

『でも、そんなのって、きっと昔っからあるのよ。最近、なんでもハラとか病名とかをつけて、社会問題として取り上げたがる傾向があるじゃない? 当事者は真剣に悩んでたり苦しんでたりするんだけど、他人からしたら、ただのネタに過ぎないのよねー』

『そうね。それらしい名称つけて、大ごとにして大騒ぎして、不安を煽りたてて退屈な日常にちょっとした刺激をもたらして、利益を上げたり、噂話にして鬱憤を晴らしたり面白がったりしてる。他人なんて、しょせん、その程度のことなのよねー』うんうん、と満場一致で頷く。

『そういう点では、お宅の旦那さんは、非の打ちどころがないじゃないの。羨ましいわー』

 そうでもないのよ、とわたしが話し出そうとするのを遮るかのように素早く同意が上がる。

『そうよね。よく家族揃ってお出かけしてるじゃないの。家族サービス、さすがよねー』

『この間、駅前で見たわよ。お宅の旦那さん、ボランティア活動にも奉仕してるのね。すごいわー』

『子育てにも協力的じゃない? よくお子さん達と一緒に公園で遊んでいるの見かけたわ。いいわねー』

『この間の町内会の祭りの時にも積極的に参加してくれて、お年寄りにも感謝されてたわね。できた男性ねー』

 褒めちぎっているママ友達の言葉を全て否定して、いえ、それ、世間体なんです、とは言えなかった。

 確かに夫は、子ども達の面倒もよく見てくれるし、順応性が高くて、会社でも近所でもすこぶる高評価の男。でも、それは、世間を欺くための夫の擬態した姿なんです。ほんとうの夫は、わたしの前でだけ人格が豹変するのです。とは、言えなかった。きっと、誰も信じてはくれない。わたしがおかしいと思われるだけ。彼にはそういうところがあるのかと夫の親戚に尋ねただけで『あの温厚なヤスヒコに限ってそんなことあるわけないやろ!もし、あったとしたらよっぽどのことや!だとしたら、あの子を怒らせたあんたが悪いわ!』と、全否定されたように。どうせ、聞き入れてはくれない。もしくは、母のように聞き入れはしても『そんなこと言ったって、しょうがないじゃないの。多少は我慢しなさい』と言われるだけ。物故した父からの暴力に長年耐えていた母からしてみれば、たかだか言葉だけなら大したことないじゃないのという感覚なのだ。誰にも言うだけ無駄。無駄なのだ。

 結婚した当初は、互いに思い思われて穏やかな日々を送っていた。それが、いつからだろう。夫が昇進した辺りからだろうか。何かにつけ、わたしを貶める発言をし始めたのだ。

 最初は、責任のある立場になったストレスなのだろうと、受け流していたが、徐々に酷くなっていき、終いにはそれが当たり前になった。

『グズ』『のろま』『バカ』『アホ』『役立たず』『育ちが悪い』『脳みそあるか?』

 例えるなら、殺虫剤やペンキの匂い、モスキート音といった軽度の毒。嗅ぎ続ければ、聞き続ければ精神に異常をきたす。夫からの謂れのない暴言はそんな類いのものだった。


 案内された部屋で横たわった厚化粧した夫の顔を、しんねりと凝視する。


 誰かしら、この人・・?


 油断すると浮かんでくる、そんな疑問を水泡を潰すようにして抑えながら、結果的に、脳みそがなくなったのは、あなたでしたね、と心で語りかけた。

 部屋に入ってきた誰一人、なにも言おうとはしない。母と祖母も、その二人にしがみついている子ども達も、そして祖父も。皆、一目で夫の顔の異様な様子に気付いたのだ。修復されたとはいえ、額から脳天に向かって走る、髪の毛の間に見え隠れする縫い目までは隠しようがなかった。

 すすり泣きが、聞こえ始めた。長女だろう。どうやって現実を受け止めたらいいのか、混乱しているのだ。続いて、アヴァヴァヴァヴヴァー・・というくぐもった声。長男だ。発達障害の傾向がある息子は、パニックになった時には開けた口に片手を指の付け根まで突っ込んで泣き声を出す。息子を落ち着かせなければ、と振り向くと、義母が涙を流しながら、息子の肩にしっかり手をかけて、落ち着くように背中を擦ってやっていたのだ。

「よしよし。大丈夫大丈夫。落ち着きや。大丈夫やから。お父ちゃん、ようやっと楽になったんやで。なんも悲しいことないやろ。お疲れさんって言ってやらなあかんよ」そんな義母を初めて見たわたしは、固まってしまった。

「よろしければ、お手元を拭いて差し上げてください。どうぞ、喪主様より」

 納棺師の言葉で我に返った。喪主であるわたしがまず、夫の近くに進む。

 久しぶりに触れた夫の大きな手は、冷たく重かった。


 この人、こんな手、してたのかしら・・?


 もう生前の様子を思い出すことができなくなっていた。思い出すのは、苛立つ夫の眉間の皺や、憎しみに燃えた獣のような目、そして、激しい口調と、地団駄を踏む力強い足。今にも飛んできそうだった恐ろしい手。それだけだ。

「ほらほら。次はあんたの番やで。ええか。お父ちゃんがのうなったんやから、長男のあんたが家を支えていかなならんよ。お母ちゃんとお姉ちゃんをしっかり支えなあかんのよ。しっかりせな、な?」

 義母は、長男の口に入れた手を優しく握っている。長男の涎と鼻水に塗れても気にならないようだった。長男は義母に言い聞かされて、おずおずと父親の側に近付いた。いつのまにか、嗚咽は止まっている。

「とぉ さ ん・・」

 長男につられた長女も出てきて、二人は父親の手を握って静かに涙を流した。わたしは、この瞬間だけは、夫に感謝した。少なくとも子ども達にとっては、よき父であったからだ。妻のわたしとは違い、二人の子ども達はとても素直に育ってくれた。夫が徹底していたお陰で、子ども達は、わたしが夫から暴言を受けていた事実を知らない。それで良かったのだろう。

 世の中には、知らないほうが、いいことも確かに存在するのだ。


「あんたも、これから色々大変やろうけど、しっかり気張らな」なんや困ったことがあったらいつでも言ってこなあかんよ、と義母が原色が入り交じる派手なハンカチで目元を拭いながら、線香に煙る夫の顔を棺の天窓から眺めていたわたしに話しかけてきた。納棺が終わり、式場に安置された夫に、いち早く焼香し終わった子ども達と母と義父は、先に控え室に戻ってお茶を飲んでいる。予想外の義母達の反応に、戸惑っているわたしは、けれど警戒の体勢は緩めずに「はい。ありがとうございます」と当たり障りのない返事を義母にした。

「ヤスヒコは、なにを思い詰めていたんやろね」義母は悲しみと慈愛が混ざり合った眼差しを夫に向けた。

「まあ、それがわかったところで、押しとどめられるかどうかは別問題なんやけど。遺書は、なかったんやろ?」

「ええ。それらしいものは、見つかりませんでした。手帳にも、黄色い水仙の押し花が挟まっていただけで・・」

 一瞬、義母の左の目元がピリッと強張った。

 常に夫の目の色を気にして生活してきたわたしは、人の目を見てしまう習慣ができていた。なので、義母の僅かな動きに気付けたのだ。

 黄色い水仙について、きっと義母はなにかを知っているのだろうと察しがついたが、正直なところ、どうでもよかった。夫の過去だの思い出だの、知りたくもないし、どうでもいい。わたしが妻としてやるべきことは終わった。その現実だけで充分だ。わたしは、やっと夫から解放された。あとは、こうして、夫の食物となる線香を焼べ続ける。それだけ。

「あー線香の匂いに酔ってまう。先に部屋に下がらせてもらうわ」義母がそそくさと退散していった。

 残されたわたしは、また一本、線香に火を点けて香炉に挿す。

 さあ、もっと飽満になりなさいな。


 世の中には、知らないほうがいいことが、確かに存在するのだ。

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