第6話 母なるもの

 レアが禁足地の神像に辿り着いた時、日は落ちようとしていた。灯りの点らない地に夜の鳥が鳴き、不吉に寂しく彼女の心を騒がせる。

 腕輪から珊瑚の粒を一つ外し、女神に供えて彼女は祈りを捧げた。出産の願いではないが、ハウメアは地母神。家族に会えますように、と三人を思う。

 岩戸の前にうずくまっていると悪い方にばかり考えてしまい、彼女は計画書を取り出した。読めばレアの訊ねた全てが書かれている。それが気恥しく彼女は暗さを理由に途中で読むのを止めた。空には星が輝き、近くに人の気配はない。こんな夜をレアは初めて過ごす。

 眠れない夜が明け、再び珊瑚を供えても岩戸はまだ開かなかった。


「お願い、早く開いて。私がここに来たこと、もう総督府の人は知ってるに決まってる……」


 風の気配、枝のさやぎにさえ役人の幻を見てレアは震えた。ハクメレがどうしているかを思い、ロカヒの煩い言葉さえ今ならば聞きたい。

 しかし、禁足地を訪れる者はなく、レアの心情とは対照的に時は静かに流れ行く。ケアヌの計画を覚えながら昼が過ぎ、疲れが頂点を超えた頃、気持の糸が切れるようにレアは岩戸にもたれかかって眠りに落ちた。家族を探す夢、ケアヌが罰せられる夢も裏切る夢も朧げな現実に入り込んで哀しい。目覚めているか眠っているか判然としない薄目から涙が滴る。


 その時だった。背を預けていた岩戸が振動を伝え、驚くレアが身を起こす眼前で洞穴は姿を現す。その不思議に見入ってから彼女は我に返り、中へと歩み入った。洞穴は大きくはなく、ケアヌに言われた岩もすぐ判る。明かり取りから僅かに差し込む光の条が厳かだ。

 しかし、自ら開けることのできない岩戸の閉じた後、ここに一人と思うとレアは小刀を握り締めていた。待つのが怖かった光の下の世界が誘うように今の彼女には見える。その前で岩戸は再びゆっくりと閉まって行った。


(本当にここに人が来るの? ケアヌは本当に味方? もし扉も開かなくて誰も来なかったら?)


 薄闇と暗闇の中、彼女はどれだけ蹲っていただろう。

 不意に削れるような振動と音が静けさに響く。弾けるように向き直ったレアは恐る恐る岩の方を窺った。焼けた色の岩石がかすかに震えている。

 レアは咄嗟に小刀をそちらへと構えた。助けが来た、と思う気持と、それを信じられない気持が葛藤する。

 やがて重そうな岩は横へ動いた。闇の穴から人の頭部らしきものが覗く。


「母様!」


 先に叫んだのはレアだった。闇に慣れた彼女の目は穴から出ている上半身が母であることを見抜く。小刀を落として駆け寄ると、彼女はアヌヘアにしがみついた。


「母様、母様、良かった……会えた」


 汗と埃のついたレアの黒髪を掻きやり、アヌヘアは全力で抱き締めて声を絞り出す。


「レア。怖い思いをさせて御免なさい。皆、母様のせいよ」

「どうしてそんなこと言うの?」

「本当のことだから。でも、今はここを離れましょう。荷物をまとめていらっしゃい」


 アヌヘアはレアを受け止めて地下へ下ろすと、何か手順を踏んだ動きで岩を元の位置へと戻した。辺りの確認が済むや彼女は娘の手を握り、歩き出す。小さな光源に照らせるのは数歩先までにも拘わらず、アヌヘアの足取りに迷いはなかった。


「父様と兄様は?」

「ロカヒは研修先が預かる形で拘束されてるみたい。今はまだ縁坐の罰か明確ではない扱いよ。父様はどこにいるかも判らないの」


 アヌヘアは冷静に振る舞っているが、言葉が見つからず探るかのような語り口だ。


「ケアヌは? 捕まってない?」

「ご両親が監督する条件で自宅だそうよ。我が家には上級使用人スチュワードが花を持って『婚約者として家に招きました。お泊めして良いですか?』と訪れたの。だから、逃がした疑いは疑い止まりでしょう」


 少し話しやすそうに応える母にレアは僅かに安堵する。しかし、それに比してハクメレとロカヒは心配な状態ということでもあった。


「父様が水泥棒って、本当なの?」


 幾度も躊躇った後、レアは思い切って尋ねる。母の彼女を握る手が一瞬、力加減を乱すのが伝わった。アヌヘアは抑えた低い声を彼女に返す。


「父様は母様を手伝ったの。本当の水泥棒は母様よ」

「わたしがアヒちゃんを助けてって言ったから? お水を誰かにあげたの?」

「違うわ。アヒちゃんのお家のことも理由の一つだけれど、私達は貴女やロカヒが心配でこうしたの……いえ、でも、どうしてこんな目に合うことをしたの、と思うわよね」


 そう言うとアヌヘアは足を止め、レアに向き合う。暗がりの中で詫びるような眼差しの母には今まで見たことのない迷いが漂っていた。

 しかし、それでも芯では何か信じている、その力強さがその顔には宿る。


「レア、言える内に伝えておくわね。貴方達の未来の幸せのために父様と母様は水泥棒も覚悟で詩を作ったの」


 アヌヘアは腰のベルトから分厚い紙束を綴じた手製の本を取り出した。そして、レアの手を大切そうに触れ、上向かせると本を乗せる。珊瑚とペレの涙が擦れ合って音を奏でた。


「父様の詩? どうして? 異能者は言葉を書かないんでしょ?」

「書き留めたのは母様。でも、詩にしたのは父様。大事な大事な詩なの。それが欲しい人達に父様は捕まって、私達も追われてる。貴女はこれを守って逃げて」


 レアは瞠目する。母と会えたなら、彼女に守り導かれてどうにかなる、とどこかでレアは思っていた。だが、アヌヘアの言葉はそんな未来が存在しないことを予言するかに聞こえる。


「一緒に行けなくなった時、私が貴女を逃がすから。必ず母様を追わず、一人で逃げて。良い?」


 母の声が地下の空洞に恐ろしく響いた。

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