【断章】『天寵』Ⅰ 懺悔

 忘れもしない。


「――ぐぁああぁあッ!」


 舞う猩々緋しょうじょうひに視線が釘付けになる。それは、敵わない相手など居ないと幻想を抱いていた鬼神が堕とされた瞬間。


 忘れる筈も無い。


「――――――――――――!」


 目の前で一つの命が失われた瞬間、響き渡った号哭。魂が抜けきってしまった最愛の人の身体を抱いて、咆哮を轟かせる姿を。


 生涯、忘れる事は出来ない。忘れる事は許されない。

 自分の脆弱さが何もかもを失わせたあの日を。耳にこびり付いて離れない、痛みに歪む絶叫を。

 己の記憶に痛い程焼き付けられた、災禍の一日を。


◈◈◈◈


「――! ロイスさん……」


 驚きに染まった優しい声が己の名を呼ぶ。きっと、彼は私の事を覚えていないのだ。そう思った瞬間、速くなった鼓動が鈍痛を伴い出す感覚を抱く。


 私が何かを言い出すのを待つ様な優しい瞳に射抜かれて、頭が真っ白になった。私が何か言い出せば、彼はあの日の痛みを思い出してしまうのでは無いかという疑念が、恐怖という感情となって身体を震わせる。


「……ゎ、たし、は」


 何とか絞り出した声は掠れた。息が上手く吸えず、言葉は続かない。全てを告げなくてはと思う度、益々言葉は出てこなくなる。それでも、彼は私を急かす事無く静かに待っていた。


「……っ」


 それを認めた瞬間視界が歪んで、堪えきれなかった雫が零れ始める。


「――っ!? ロイスさん!?」


 優しい人が駆け寄ろうとして、逡巡する様に足を止めたのが見える。水膜が剥がれ落ちる時にふと見えた世界で、彼は戸惑う様に手を伸ばしてはそれを留めてを繰り返していた。


「っ……たし、は……! ……っと、ずっとあなたに……! あやまり、たかった……!」


 喉につっかえていた言葉をようやく絞り出した時、私の足元が崩れて消えた様に感じて、思わずその場に崩れ落ちた。堪えきれなくなった自責と後悔が次々と嗚咽と共に溢れ出す。二の句は継げない。まだ言わなくてはならない言葉は沢山あるのに。


 優しい人が私に駆け寄ってきたのが見えた。嗚呼、そんな顔をさせたかった訳では無いのに。

 私は力をつけても尚、弱い心の持ち主のままだった。


◈◈◈◈


『弱き者を助けるのは、強き者の義務なんだ。だからロイス、お前は一人でも多くの人を助けるんだぞ』


 それは、幼い頃より父様から賜っていたお言葉だった。隣家のカイゼル家が美学としているその考えは、いつしかガラット家の美学ともなっていた。


 それは、幼い私を騎士にするのに十分な価値観で、私はその頃から勉学にも鍛錬にも手を抜かず、貴族学校でも首席と呼ばれる程に成長した。


「にぃ、もういくの? ……へへ、へんなかおー。ロイスにぃならへいきだよ、だってちょーつえーもん。みんなもなー、カイルのにぃちゃんちょーつえーっていってたぜー? へへ、すげーだろ」


 初めて実戦任務に同行する事になった時、緊張と首席としての責任に押し潰されそうになっていた私を励ましてくれたのは弟の言葉だった。

 弟はせめて自由に生きて欲しいと放任的に育てられている所為か、貴族学校を抜け出しがちで学業成績は奮わぬ様だったが、彼なりに貴族差別と戦っているらしく、彼の周りにはいつも身分の違う子供らが仲良く集まっていた。


「……あ? なんでこんなガキが戦場にいやがる……何? 貴族学校の首席だ? ……はぁ、保身ばっかの貴族連中はクソだが、こうもガキが戦わにゃならん世の中もクソだな。――死ぬなよ、チビ公」


 配属された隊の隊長は、世知辛そうな表情のまま、乱暴に頭を撫でてくれた。聞けば、彼にも私と同じくらいの子供達がいるらしい。

 私は彼の元で戦闘と防衛のイロハを学んだ。彼曰く、私には癒術や味方の強化などの支援適性があるらしかった。故に、私は支援を主として戦う事にした。


 傷付いた人を守る為に。私は、その為に力をつけていた



『――各位に伝達します。西部第三オアシス付近に大型が発生しました。既に多数の被害が出ていると報告を受けています。聖騎士隊クルセイダーは直ちに現行している任務を放棄し、制圧へと向かって下さい』


 そんな無線通信が入ったのは、私が聖騎士隊クルセイダーに属してから約一年後の時期であった。


「何だと……? チッ、了解した。すぐ向かう。――ロイス、テメェも来い。怪我人が出てる」


 隊長は、癒術を使えるからという理由でまだ新兵扱いの私も同行させた。大型が発生する事は滅多に無い。それが、私の初めての大型迎撃任務となった。


 辿り着いたオアシスは、もはや「安息地」と言い難い参上だった。燃え上がる火の手と、恐怖に逃げ惑う人々。あちこちで負傷した人が蹲って、オアシスは悲鳴と苦鳴に満ちていた。


「チッ、思ってたよりもヒデェな……。ロイス、片っ端から止血だけしてけ。全員治してたら埒が明かねぇ」


 隊長はそう言い残すと、安全装置が壊れた影響で入り込んで来た小型を一掃しに消える。その間、私は隊長の言いつけ通り怪我人の止血だけを行っていた。

 それは、一人でも多くの人を救う為だ。呪力消費を伴う治癒術で多くの人を救おうとすれば、今の自分の力だけでは止血のみが限界。

 もっと自分に力があれば、呪力があれば、軽傷だけでも治せるのにと、無力を感じざるを得なかった。


聖騎士隊クルセイダーに通達。大型の反応を感知しました。凡そ高台と思われる位置に反応が近付いています。今すぐ急行し、迎撃をお願いします。怪我人が出る可能性もありますので、ロイス隊員の同行を提案します』


 アカツキ殿の冷静な提案が耳を揺らす。私は今にも裏返りそうな声で承認の返事をした。すぐに手当を切り上げて、高台と思われる方向に走る。すれば、道すがら隊長と合流する事が出来た。


「――ッ! クソ、間に合うか!?」


 辿り着いた高台で目にしたのは、一人の男性を見下ろす白い怪物。それは、今にも男性を踏み潰さんと片手を上げている最中だった。

 隊長は全速力で駆けると、男性と怪物の間に身体を滑り込ませ、その片手をバスターソードで受け止める。


「――チッ、急げロイス! 怪我人が居る!」


 怪物を牽制しながら隊長が叫んだ。その場に居たのは、どうやら男性だけでは無かったらしい。

 急いで駆け寄って、呆然としている男性に声をかければ、彼は突然の出来事に状況が呑み込めないといった顔をしていた。故に、大丈夫だと頷いて、彼が抱く女性の治療を始めようとする。


 だが、女性の状況は芳しいものでは無かった。彼女から溢れる血は、止まる事無く流れ続けている。繋いだバイタルモニターは異常を知らせ続けていた。焦りと恐怖が身体を支配して、思わず隊長に縋ってしまう。


「るせぇ! 集中してやれ!」


 集中しろと怒鳴られる。震える手でどうにか止血しようと試みるも、呪力操作が上手くいかない。落ち着かなくてはと思う程に呼吸が早くなる。頭が真っ白になって、視界が滲む。異物が喉をせり上がって来そうになるのを飲み込んで、噛み合わない歯を食いしばる。


 瞬間、耳に届いたのは、絶望が開始する合図。


 脚を失くした鬼神の絶叫。

 ノイズ混じりの咆哮を上げ、歪みの向こうへ消えていく怪物。

 大切な人の名を呼んで縋る彼の声。

 最後まで発される事の無かった「愛してる」という言葉。

 甲高い悲鳴を上げるバイタルモニター。


 響き渡る慟哭。瞬間、理解した。


 私が、死なせてしまった。

 私の弱さが、彼を傷付けた。

 私の無力さが全てを奪ったのだ。


 深く刻まれた罪悪感。

 私は癒術師と呼ばれながら、誰も救う事が出来なかった。


◈◈◈◈


 心を強く灼いた後悔と罪悪感が、とめどなく雫となって溢れていく。傍に彼と、オペレーターの女性が駆け寄ってくる気配がした。二人は私を落ち着かせようと声をかけてくれるが、その気遣いが申し訳なくなる。


「……コフッ、うぅん……全く、仕方ないな。……ほら、ロイス。何時までも泣いていたら逆に隊長サンを困らせてしまうだろう? 詳しい事情は知らないけど、キミ、随分と前から『銀嶺ぎんれい』の彼を気にしていたらしいじゃないか」


 埒が明かないと踏んだのか、冥王殿までもが傍に寄り、私の頭を軽く小突く。


「ほら……、あの日から――ダグラスさんが退役を強いられる事になった、災禍の一日いちじつから」


「――っ!」


 冥王殿がそう告げた瞬間、彼が息を飲む音が聞こえた。きっと、彼は思い出したのだろう。自分の愛する人を救う事が出来なかった、無力な私の事を。


「……あぁ……貴方、が……」


 彼の手が私の頭に触れる。思わず肩を跳ねさせて、彼の表情を仰ぎ見た。


「……最後まで、レイラを救おうとしてくれた方、だったんですね」


「――ッ!」


 今度は、私が息を飲む番だった。思わず見張った目から、水滴が静かに零れ落ちて行く。


 きっと、恨まれていると思っていた。自分は、彼の大切な人を救う事が出来なかったから。

 なのに、彼は静かに微笑んで、大切な人を救えなかった私に「救おうとしてくれた人だ」と告げる。


「ゎ……たし、は……無力、だった。だから……あなたの、大切な方をたすける事ができなかった」


 何故だか分からない。口が勝手に動いていた。もしかしたら、これは弁解のつもりなのかもしれないと、私は頭の何処かで思っていた。

 彼は何も言わず、愚かな私の言葉をじっと聞いている。優しく、頭を撫でながら。


「だ、から……努力したんだ……」


 無我夢中だった。私の弱さを思い知らされたあの日から、もう二度と目の前で誰も失わせはしないと、死に物狂いで努力を重ねた。

 何時しか、私の二つ名は『癒術師』から『天寵てんちょう』へと変化していた。それは、誰も死なせる事の無い癒術と、付加術を身に付けたから。


「それ、でも……亡くなった人は、帰って来ない。今更……もう、遅いんだ……!」


 でも、今更意味が無かった。どんなに優秀な癒術師になろうとも、喪った人は取り戻せない。

 私の犯した罪は、消える事は無かった。


「――きっと」


 彼は、静かに呟いた。床に叩きつけたばかりの私の手を取って、優しく微笑む。


「きっと……レイラは、今の貴方を見たらこう言うでしょう。貴方は、その手で何人もの命を救ってきたのね? 私とシルバーの様な悲劇を起こさない為に。大丈夫……貴方は、とても優しい人だもの。だから、私達の為に泣かないで。胸を張って頂戴、貴方はもう無力じゃないわ……と」


 彼は微笑む。まるで、彼の大切な人が浮かべるかの様な笑みを宿して。大丈夫と言いながら、私を優しく抱きしめる。


 大丈夫。もう泣かないで。貴方は無力じゃない。


 暖かな言葉が、私を抱き締める温もりが、静かに静かに伝播して、私の心を溶かしていく。

 溶けて、溶けて、溶け出して。心の奥底に仕舞っていた感情が、溢れ出した。

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