第12話 ドブネズミの人生

 漆喰のところどころ剥げた壁。湿気のこもった嫌な臭い。少女には懐かしい遊び友達のように馴染みのあるものだった。浅い息を繰り返し、目を瞑る。この世界でたった一人になった気持ちに浸る。水の中に潜ればどんな声を聞き取りづらくなる。孤児院に来る前の、心が冷え切った感覚に戻っていく。

 誰も信用してはいけなくて。大人は敵。優しく声をかけてこられたら、その懐の財布を盗むことを考えた。

 少女は町のドブネズミだった。物心がついた時から同じような境遇の子どもに囲まれ、食事のありつき方、大人数での寝床の確保のやり方、『仕事』の仕方を含めた、あらゆる生活の術を身に付けたが、その子どもたちの集団も一枚岩ではなく、離合集散は当たり前。子どもの世界でも誰が一番偉いのかを争っている。

 だが薄暗く、家とも言えないがれきの塊が並んだ路地から一歩外に出ると、まるで人生の違う人々が行きかうおかしな世界が広がっていた。そこでは子どもたちは大人たちに守られるものらしい。綺麗な服を着せてもらえるらしい。

 少女はごく自然にこう思った。――自分と彼らと、何が違うのか。

 単純に親がいるからとか、金があるからとか、そんなもので片づけるには、この喉の奥に引っかかるようなざらつきの説明にはならなかった。

 すきっ腹の時でさえ、気になる。

 少女が明らかに他の子どもたちと一線を画していたのは、こうした思索の時間の有無であった。自分にふりかかる理不尽に疑問を呈し、社会の底辺から世間を見上げ、思考を止めない。頭の中で架空の人物たちを使った疑似議論を行い、自らを納得させるまで諦めない胆力は少女に深い思考を促した。誰も知らない小さな哲学者がここに誕生した。


 その時には少女は子どもたちの集団の中でも上位に敬われる存在となっていた。少女が助言した『盗み』や『物乞い』は高確率で成功するのだ。一部の子どもは少女を尊敬し、口数の少なく淡々とした物言いをする少女に不平を抱いていた子どもは不平を敵視に変えた。

 子どもたちの集団に入った亀裂は暴走を生んだ。少女に野犬がけしかけられたのも、激しい憎しみが行き過ぎたため。少女は逃げたが、犬の足には負ける。しかし、本当に奇蹟的なことに、少女を救い上げるものがあった。市の孤児院にちょうど定員が空き、子どもを保護しようとしていた職員に見つかったのだ。野犬は追い払われた。

 奇蹟的な話もここまでで、その職員は強制的に孤児院へと少女を拉致した。


「なんてかわいそうな子! これからはもっとまともな生活ができますからね!」


 かわいそうな子、不幸な子、と女は何度も少女にその称号を押し付け、自身の顔には「こんな子を助けてあげられる自分は偉くてすごい」と書いてある。涙を流しているのも、本当に少女を思っているわけでもなく、「人の不幸に同情できる自分は優しい」という裏の顔が透けている。女は少女が嘲笑していることにも気づかなかった。


 あれこそもっとも救いがたい大人の姿だ。甘い顔をして、懐かせておきながら、本当に困った時は自分の身を最優先で守る。何をしても助けてくれる、と思っていれば、痛い目を見る。たとえば自分の子どもであるなら多少違っていたかもしれないが、所詮は他人の子と思ってしまえば何でもない。最終的にはどうでもよくなる。

 絶対に自分は騙されまい。アネットはそう思った。自由に、どこまでも一人で生きてやるのだと。

 たとえアネットの一番深いところに関わろうとしていたリリーローズにも心を許さない。あの女も最後にはアネットの手を離してしまうのだ。

 身分や立場の違いは地下の反省室に来るまでたくさん聞かされた。王子の慈悲だということも繰り返し教え込まされたが、リリーローズの婚約者が誰であろうと関係なかった。あれはアネットの敵なのだ。それだけで十分だ。

 血筋などで人の価値は決まらない、話しかけてはいけない人がいるということもないはずだ。


――『常に思考すること』。自分の中の善なるものと悪なるものとを、問い続けること。――逃げないで、ね。

 だって、アネットとリリーローズは同じことを考えている。……彼女の腕から流れた血も赤かったのだから。


「リリー……リリーローズ」


 本人の前では決して口にしなかった名前。一度告げてしまったら、アネットの心が全部伝わってしまうようで恐かったのだ。首から下げられた牙の飾りを握りこみ、丸くなる。小さく小さく何度も名前を呼んだ。


「……なに?」


 声の主に、アネットは丸めた身体をすぐさま起こし、目を丸くした。

 小窓から漏れる月の光が差し込む中、格子向こうに女が立っている。重々しい外套をかぶり、いつもはまとめあげている金の髪を肩から背中へと流している。薄暗い内部でも爛々と光る瞳は、かつて孤児院にいた仔狼たちと同じ琥珀色であった。

 格子越しにアネットは見上げ、リリーローズは少女を見下ろす。


「どうして、ここに?」

「アネットに会いたかったの。もう二度と会うなとも言われたけれど、納得できなかったから。わたくしは知らなければならない。――あの時、アネットが何を考えていたのかということを」


 リリーローズの声は反省室の壁に染み入るほどに静かだ。


「あなたはわたくしの『特別』だから」


 女の告白は糸のようにか細く、彼女の心を映して震える。本当は静かなどではなかった、彼女は内に溜まる感情の渦を操りかねたあまりそう見えるだけだった。

 気づいた時、アネットの心もどうしようもなく揺れ動く。


「あたしも……あたしも、だ……!」


 少女は衝動に任せて叫んだ。


「なのに! どうして……どうして、今ここにいるのに、あんたは『お嬢様』で、王子様の婚約者で、あたしは孤児院の子どもなんだ。あまりにも遠すぎるよ……!」


 緑色の瞳が涙に濡れる。歪んだ視界の中にいる女が懐を探ろうとして、何かを思い出したように手を止める。


「ごめんね。ハンカチがないからこれで……」


 リリーローズは迷いなく外套の下の服の袖を剥ぎ取り、その場で膝をつく。格子の隙間から伸ばされた白い手から差し出された。アネットがおとなしく受け取った時、彼女の顔にも幾筋もの涙の痕があるのが見えた。少女に会う前にはすでに泣いていたのだろうか。

 アネットは乱暴にもらった袖でぐい、と頬を拭った。


「……怪我はどうだ」

「もう平気。出血は多かったけれど、深く刺さったわけではなかったから。わたくしのことはもういいの。それよりもアネットは? ご飯はきちんと食べているの?」

「うん」

「ここでも眠れている?」

「……うん」

「そう、よかった」


 リリーローズはアネットを見ているようでいて、どこか遠くを眺めるような目をする。


「ねえ、聞かせて。――あの時、何があったの?」


 少女は緑の眼を閉じて、首を横に振る。


「……わかんないよ。あの時はそれが一番だと思ったけれど、途中からは本気だったのかもしれない。建前を作っておいて、本当にやりたかったことが、『あれ』だったのかもしれないんだ」


 アネットが気づいたのは、最下層で生きてきた故、危機察知に長けていたためか、それとも目ざとさのためか。


 孤児院脇の森を見た時に、木登りしている猟師がいた。そこから獲物を狙おうとしているのだ、とすぐにわかった。どこを狙うのか、と首を巡らせてみれば、それはリリーローズや、彼女の『友人』だという育ちのいい青年の方だ。


 役に立ちそうな持ち物と言ったら、以前の癖でうっかり掏ってしまった銀のナイフ一本だけ。

 青年の護衛に報告すれば済んだ話だった。なのに何でも自分でやってきた少女には誰かに頼るという選択肢が見えていなかったのだ。


「最初は、助けようと思って、必死だった」


 ひたすらに、リリーローズを守らなければ、と、それだけを考えていた。


「ナイフを持って突進すれば、あの男たちが警戒して、あの猟師のことにも気づくかもしれないって……」

だがナイフを持って走り出すと、そんなものも全部弾け飛んだ。何も考えていなかった。真っ白だった。

「あたし、少しは賢いつもりでいたけれど、パトリック以上の馬鹿だった」


 リリーローズを助けるようとしたのが自分のせいで彼女は怪我をしてしまい、アネットは孤児院にいられなくなってしまった。


「……あたしは、子どもだったんだ」


 少女は薄闇の中の手を眺めた。何かを掴むにはあまりにも小さすぎたことにやっと気づいた。アネットは涙をせきとめるように鼻水を何度もすすった。


「大人だったらもっと上手くいったのかなぁ……」


 すると、格子の間からリリーローズの手が覗く。


「手を出して」


 アネットが両手を差し出せば、つるりとした小物が落とされる。よく見ると、牙の首飾りだ。少女は慌てて胸元を探って、自分の首にかけられた飾りと見比べる。まるで瓜二つだ。


「ずっと後悔していたの。もしこれをもっと早く渡せていたなら……って。わたくしはこれをある方から預かっていたの。ようやくあなたにも渡せる……」

「これ……なに。どういうこと」

「その前に。これも受け取って」


 リリーローズが次に格子の隙間から差し込んできたのは一度封が切られた皺くちゃの手紙。光が届きにくい中では文字も判別しにくい。


「なに」

「アネットはこれから新天地に行くと思うのよ。そこへ行ったら、この手紙の差出人の住所を訪ねてみて。アネットにも読める字だと思うから、きっとやってね。――そして差出人に会ったら、こう告げて」


 リリーローズは小さく息を吸う。


「『リリーローズが、長年お探しのあなたの妹を見つけました』って」

「……妹? 誰が」


 この時初めて、彼女は微笑を表情に乗せた。


「あなたのことよ、アネット。あなたの家族は生きている」

「……へ。え? 嘘だろ?」

「いいえ。本当よ。その赤い髪に、緑の眼。狼の牙を首飾りにしてもっているのは、一部の村だけの風習よ。それに、顔も。あの人によく似通っている」


 アネットはリリーローズの口振りにぴんと来たのだ。アネットの家族だという「あの人」はリリーローズの『特別』なのだと。

 「あの人」に似ているから、アネットは『特別』だったのだ。少女の胸は締め付けられるように痛む。


「……あたしはその人の身代わりか」


 違うわ、と首を振って否定した。


「アネットは年下の女の子だったから、段々と『あの人』の妹であるよりも自分の妹のような気もしてきていたの。わたくしにも妹がいるけれど、滅多に会えないから。でもさっき妹と会ってから改めて考えると、自分の妹とは少し違う気もして……だって、わたくしとアネットはいつも対等な気持ちでいたと思うの。言葉として当てはめるなら年下の『友人』……でしょう?」

「……そうだな」


 アネットは小さく頷いた。もう一度泣き出してしまうぐらいに嬉しかった。


「それにね、性格も少し違っていたわ。あの人はね、この孤児院のリーダーのような存在だったし、時々向こう見ずで暴走するところがあったの。十三歳で何人かの仲間たちとともに孤児院を飛び出したのも、町に出て一旗揚げてやろうと逸ったからなのよ。わたくしは彼と幼馴染だったけれど、一緒にはいけなかった」


 彼女の眼はアネットを通し、別の景色を見ているようだった。――リリーローズは、本当は一緒に行きたかったのかもしれない。


「でも町では上手くいかなかったそうなの。商売を始めようにも、雇ってもらおうにもね、後見人がいない孤児というのはそれだけで不利に思われてしまうから。――彼はね、あるグループに自分の場所を見出した。そこは世の中の不平不満を叫べるところで、熱心に関わっていくうちに彼はその組織のリーダーにもなってしまった。でもその時はまだよかったのだけれど、段々と組織内でも意見が対立してきて、彼の手に負えなくなってしまい――彼は一緒にグループに入った仲間を対立の中で亡くしたのをきっかけに組織から逃げ出したそうなの。――この手紙に書いてある住所は色々あってようやく落ち着いた先の場所よ。彼はあちらに移住する前にわたくしに会いに来て、この手紙と首飾りを託していったわ。妹を探し出せなかったのが残念だって、言い残していたの」

「その人は……あたしの兄?」

「そう。彼の名は『ジェレミア・カーストン』。――妹の名前は、『アンネ』と言っていたから、はぐれた時にはアネットは赤ん坊だったのね」

「ジェレミア・カーストン……」

「ジェレミアはきっとあなたによくしてくれる。これからは幸せになれるわ、アネット」


 急に言われても実感は湧かない。これまで自分の家族がまだ生きていると考えてもみなかったのだ。た

だ、リリーローズが自分を思いやって言ってくれていることについて、


「ありがとう……」


 そう口にするのが精一杯だった。首飾りと手紙を胸に抱く。

 そんなアネットを見終えたリリーローズは腰を上げた。


「……もう行くの?」

「ここの鍵を、パトリックに取ってきてもらっているの。あまり長くいすぎると、皆が気づいてしまうわ。わたくしはここにいてはいけないから」


 最後に二人は握手を交わした。対等な友人同士の別れの挨拶だ。

 終えると、リリーローズは小さく手を振る。


「さようなら、アネット」


 石段を登っていく音が徐々に上に消えていく。アネットは泣くまいと努めた。だが、嫌な予感に別離の潔さを捨てた。


「待って!」


 しかし、足音はすでに聞こえなくなっていたのだ。


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