002 黄泉返り

 薄闇うすやみの中で、女は意識を取りもどした。

 ほのかな甘さとけむたさをまとった香りが鼻先に立ち込めていた。のどの奥が少しいがらっぽい。

 背中に当たるマットレスの硬い感触で、女は今自分がベッドに横たわっているのだと感じた。

 胸までかけられた薄いシーツをするりと外し、そろそろと身体を起こすと、彼女はようやく自分が一糸いっしまとわぬ姿であることに気づいた。

 体を滑らせてベッドから降りると、薄ぼんやりとした視界の中で、少しずつ周囲の輪郭が明らかになっていくのを感じた。

 彼女がいる場所は病室のように思えた。

 部屋の四方の広さはそれほどなく、個室のような雰囲気がただよっていた。

 窓から差しこむ月明かりをたよりにあたりを見わたす。

 部屋の中には、ベッドと丸椅子、そして小さな衣装ダンスが置かれているだけだった。

 丸椅子の上には香炉こうろが置かれ、そこにはお香の燃えカスが細い煙をたたえていた。先ほどから部屋にただよっている甘い香りの正体はこれだった。

 壁には姿見すがたみ用の大きな鏡がかけられていた。

 彼女はベッドから立ち上がり、そこに映る自分の姿をながめてみた。

 以前より少しやせてはいるが、その均整のとれた美しい裸身は、窓から差しこむ月明かりによって鏡の中で輝いていた。

 その肌は、かすかな明かりに照らされて、乳白色の光沢を放っていた。

 身体からだのアウトラインにはしなやかなカーブが優雅に流れ、その丸みを帯びた美しい抑揚はギリシャ時代の彫刻を思わせた。

 胸元には、たしかな重さを持った二つの乳房がやわらかな線を描いており、月光がその優美なふくらみに触れるたび、微妙な陰影を生みだしていた。

 しかしその美しい胸からやや下に目をやると、腹部には何本もの無惨な縫合の傷が走っている。

 傷跡を抜けると、腰のくびれから臀部でんぶへと広がる線が、なだらかに曲がりくねる天然の大河のような見事なカーブを描いているのが見てとれた。その輪郭は、気品と女性らしい魅力を同時にまとっている。 

 彼女の顔には一切の化粧がほどこされていなかったが、日焼けとは無縁の色白な素肌は、月明かりの下でもわかるほどの透明感をたたえていた。

 彼女の瞳は、闇より深い漆黒の色に彩られていた。その鼻梁びりょうは高く、全体の顔立ちにはりんとした爽やかさと女の色気があふれていた。量感のある唇は花弁のようにやわらかそうで、誰もがそれに触りたくなる魅力を放っていた。

 彼女はもやのかかった意識の中でぼんやり考えた。

――自分の容姿には、まだ男性をひきつけるだけの魅力が備わっている――

 彼女は自身の体にひそかな誇りを持っていた。長期の闘病生活に耐えながらも、その体からはいささかの美しさも失われてはいないのだと。

――闘病?

 ふいにその言葉が彼女の心に浮かびあがった。

――思い出した。そう、自分は長い間病魔と戦ってきたんだ

 内臓のガンに立ち向かい、何度も大手術を受け放射線治療にも耐えてきた。

 彼女の心には、自分の闘病生活につきっきりで伴走ばんそうしてくれた夫の姿が鮮明に浮かんでいた。

 悲しみを押し隠し、いつも私に優しくほほえんでくれた、眼鏡めがねをかけた細面ほそおもてのいとおしい彼。真人まさと――。

 そう、真人は、最期さいごのときにも彼女の手を強く握りしめ、約束してくれたのだ。

――生まれ変わったら必ずまた、必ず一緒になろう

 突然、頭の中に鋭い痛みが走った。何かがおかしい。

 最期の光景が彼女の脳裏に鮮明によみがえった。

 彼女のベッドの横で、雨にぬれた子犬のような目をして泣いている夫の顔――。

 最期。最期とは、いったい何を意味するのだろう?

 考えている間に痛みはますます激しくなり、頭が割れるようにきしんだ。

――そう、そうだ。私は確かに死んだんだ――

 三年にわたる治療にもかかわらず、ついにガン細胞が体全体に広がり、二十七歳の夏、彼女はこの世を去ったはずだった。

 その瞬間の確かな記憶はないが、体がその事実を覚えていた。

 では、ここにいる自分は一体誰なのだろう? そしてこの場所はどこなのだろう? 死後の世界なのだろうか?

 漂っていたお香のにおいに慣れると、今度は鼻腔びくうをつんと刺激する薬品の匂いが、周囲の空気にわずかに混じっているのに気づいた。確かにここは病院のようだ。

 あらためて部屋の中を見まわす。

 丸椅子も衣装棚も、うっすらほこりに包まれている。

 なにか着るものがないかと衣装ダンスの中をあさってみたが、引き出しの中には数枚のタオルと古ぼけた薬袋やくたいしか見つからなかった。

 やむを得ず裸の身体にシーツだけを巻きつけて、彼女は病室の外へと足を踏みだした。

 頭の痛みはまだ残っていたが、ふらつくようなことはなく、不思議と足どりは軽かった。

 人は死んで霊的な存在になると、生前の肉体的な苦痛や傷が治るものだと聞いたことがある。もしそれが本当ならば、やはりここは死後の世界なのかもしれない。 

 廊下の灯りはほの暗く、緑の非常灯だけが弱々しい光を放っている。

 その非常灯さえも、そのうち消えてしまいそうな勢いで、時折ちらちらと明滅めいめつしている。

 彼女は、先ほど出てきた部屋のドアに何気なく目をやった。

 ドア脇のプレートに、手書きの名前がひっそりと書き込まれている。

――鈴村すずむら 麻沙美まさみ――

 彼女の脳内で電光が走った。その名こそが、彼女自身の名前だった。

 するとここは、やはり自分が入院していた病院なのだろうか。

 いや、明らかに環境が違っている。以前の病院は、もっと清潔で先進的な場所だったはずだ。

 改めて思い返してみると、この病院は部屋の内装やドア、すべてが古びて見えた。失われた古い時代の空気がおりのようにこの場所にただよっている印象さえ受ける。

 彼女はリノリウムの床を裸足で踏みしめながら歩きだした。

 奥の方にまっすぐ続く廊下をゆっくり慎重に歩く。

 廊下の壁には掛け時計がかかっていた。

 時刻はちょうど二時を指していたが、秒針が動いていないところを見るとどうやら止まっているらしい。

 しばらく歩いていると、別の病室と思われる部屋の扉が目に入った。

 ドアの両脇に何もない壁が続いているので、おそらくそこは大部屋だろう。

 麻沙美はその扉を開けてみることにした。

 ギィィィィッ。

 きしむ音をたててドアがゆっくりと開いた。

 用心深く中に足を踏み入れる。

 部屋のにおいが鼻をついた。

 カビくさく、よどんだ冷たい空気が流れている。

 中は予想通りの大部屋だった。

 薄暗いものの、いちおう常夜灯の明かりはついている。

 部屋には六つのベッドが整然と並んでいた。その全てに誰かが横たわっているようだが、何だか違和感を感じた。全く音がしないのだ。

 静寂だけが部屋を支配し、どこからも寝息やきぬずれの音が聞こえてこない。

 時が停滞したような、不気味な静けさが部屋中に広がっていた。

 麻沙美は心を決め、ベッドの一つへと近づいていった。横たわっているのは長髪の女性のようだ。

「もしもぉし」

 声をかけてみるが、そこに横たわる人物からは何の反応もない。

 やむを得ず、シーツが掛けられたままの片腕に手を伸ばし、軽くゆすってみる。

 ごろん、と、あおむけに寝ていた人物の頭がゆっくりとこちらにかたむいた。

 しかし、その眼球にはもはや生気の光がやどっておらず、あらぬ方向を見つめていた。

「ひっ――」

 彼女は思わず息をのんだ。

 叫び声がこぼれそうになるのを必死で押しとどめるように、自らの手で口をおおった。

 死体。目の前にあるのは、確かに死体だった。

 そして恐らく、残りの五つのベッドにも同じようなものが横たわっているに違いない。

 ペタン、ペタン――

 いつの間にか、廊下の向こうから徐々に近づく足音が聞こえてきた。

 彼女は一瞬で思考を切りかえ、ベッドの下へと身を隠した。

 ギィィィィッ。

 再び音を立てて、ドアがゆっくりと開いた。

 ベッドの下からはよく見えないが、足音の響きや歩みの重さから、部屋に入ってきたのは男性だろうと思われた。

 男は手にした懐中電灯をゆらしながら、何かを捜し求めているようだった。

 男の動きに合わせて光と影が部屋の中で舞いおどり、不気味な影絵を映写しているかのようだ。

 男は部屋の中を巡回し、次々とベッドの上を照らしていく。

 男が近づくにつれ、麻沙美はいっそう息をひそめ、身をちぢめた。

 彼女の全身は緊張で固まり、敏感になった聴覚には自分の心臓の鼓動まで聞こえるほどだった。

 やがて男は、麻沙美が隠れているベッドのすぐそばまで来た。

 男の方からため息のような呼吸がわずかに聞こえる。

 男はさっきの女性の遺体の、頭の位置をととのえているようだった。

 麻沙美は呼吸を完全に止め、自分の体を両腕で強く抱きしめた。

 心臓の鼓動が、部屋全体に響いているかのように感じられた。

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