第13話 天使の心臓
塔の中で男は日に日に衰弱していった。
言葉数が少なくなり、やがてまったく口を開かなくなった。死んだ芋虫のように寝台に伏せったまま動かず、まぶたもほとんど開かない。起きているのか眠っているのかさえわからない状態で浅い呼吸を続ける彼を、ナージャはただおろおろと見つめるばかりだった。
固く閉ざされた窓ガラスを、横殴りの雨が叩き割ろうとする。絶え間ない雷鳴は幼い子供の癇癪のようだった。獣のような黒い海が大地も文明も粉々に破壊して、流し去る。男はじっと目を閉じて、その音を聞いていた。
波にのまれた人間は、泥となって海に溶けてしまうらしい。いまごろは家族も友人も、みんな泥になってしまったのだろうか。彼らを見捨てて、自分だけ生き残ろうとしたからバチがあたったのか。結局、新世界は見られそうにない。泥になるのと飢えて死ぬのだと、いったいどちらがマシなのだろう——
「あなたが死ぬなんていやよ。お願いだから、どうか
ナージャは涙ながらに懇願した。
男は久しぶりに黒い瞳をあらわにすると、わずかに首を横にふった。
どちらにしても、死を突きつけられている現実は変わらない。ただ飢え死にするよりは、自身という存在を新世界に遺せたのかもしれなかったが、彼にとってその『男』はそれほど価値のあるものには思えなかった。
「それなら……」
寝台そばにしゃがみこんでいたナージャは、唐突に自身の左胸を押さえると、そこが痛むかのように背中を丸めてうつむいた。
さすがに男も目を見ひらいて、どうにか身を起こそうと片腕をついた。星屑の瞬きような白金の髪は、彼女の表情を影にして、胸のあたりまで閉じてしまっている。そっと指を通して、片方の耳にかけようとしたとき。
彼女の手のなかに、赤い果実のようなものがおさまっているのを見つけた。
熱にうるんだターコイズが、男を見上げた。そのまなざしは、子を産んだ母親のような歓喜に満ちていた。
「あぁ……やっぱり、わたしの恋は本物だったのよ。見て、これ、なんだと思う? わたしもはじめて見たんだけど、ふふ、ヒントはね、わたしがあなたを心の底から大好きだって証よ。なんて、こんなことを言っても人間のあなたにはわからないのでしょうけど」
狂気さえ感じさせる興奮した口調で、ナージャは早口にまくしたてる。ぼうぜんとする男に、手のなかの果実をそっと手渡した。
形状は丸く、男の片手におさまるほどの大きさであった。皮はなめらかで、爪を立てたら簡単に切れてしまいそうなほど薄い。人肌のように柔らかく、水分の詰まったずっしりとした重み。
食べ物だと認識したとたん、男の喉がごくりと鳴った。
「わたしの心臓よ」
こともなげにナージャは言った。
「天使はふつう、心臓を持たないの。だって百年生きるって決められてるのに、そんなもの必要ないでしょ? でもね、人間に恋をした天使はこうして心臓を実らせるの。胸の高鳴りが大きくなるごとに赤く熟れて、ねえほら、わたしの心臓、とっても美味しそうだと思わない?」
果実のように思われたそれは、意識して触れてみればたしかに脈打っていて、手のひらにはかすかな温もりさえ感じられた。
「食べればなんでも願いが叶うわ。その代わり心臓の持ち主——わたしの命は失われる」
返そうとした男の手ごと、ナージャは慈しむように両手で包みこんだ。天使というよりも聖母を思わせる微笑みをまなじりに宿す。
「それを食べて、生きて」
間を置かず、さらにこう続けた。
「そして次の終末のとき、地上におりてきた塔の管理人ナァグャャルルアの心臓を食べて、わたしを生き返らせて」
「次の、終末……?」
「そう。たくさん食べ物を集めて、次の新世界では今度こそ二人幸せに暮らしましょう」
ナージャにとって一番に価値のあるものは、ほかでもない彼女自身なのだろう——
宝石に見紛うターコイズには、彼女にとって価値のあるもの、都合のいいものだけが映される。向き合って話をしているはずが、瞳をのぞくとそこには誰も映っていない……そんな気味悪さがナージャには常からあった。
男は思わずえずいた。胃が空でなければ吐いていただろう。頭の中を無理やりかき回されたような不快感が、目からこみあげる。
指先の痺れる手で、どうにか天使の心臓を突き返した。
「そうよね、あなたは優しいから、できないわよね」
拒まれると思ったそれは、あっけなく受け入れられる。
かえって男は、全身から汗が噴き出すほどのいやな予感に襲われた。
「代わりにわたしが祈ってあげる」
淡く色づくくちびるが大きく開かれて、行儀よく並ぶ小さな歯があらわになる。次の瞬間には心臓の皮膜を破って赤く濡れ、こぼれた鮮血があごをつたって純白の衣服を汚す。
男が渾身の力で起き上がって、どうにか止めようと手を伸ばす。それを彼女は嘲笑って——たしかに、濡れた頬は持ち上げられた——寝台からは届かない位置まで後ずさる。
雫が点々と木床に垂れた。
それでも男は諦めなかった。数日ぶりに寝台からからだを起こすと、バランスを欠いながらもなんとか立ち上がる。次の終末まで生き続けるなんて冗談ではない。ナージャの身勝手さにふつふつと怒りが湧きあがり、冷え切っていたからだに熱を灯した。心臓のすべてが食べきられてしまったわけではない。彼女が最後の一滴まで飲みくだす前に止めれば、まだ間に合うかもしれない。
踏み出すごとに足取りはたしかになる。
揺れていた視界が少しずつ安定する。
ようやく回りはじめた頭が、なにかおかしいと囁く。限界だったはずのからだを、どうしてここまで自由に動かせるのか。
立ち止まって、腹に手を当てる。
空腹は空腹のままだ。苦しみが減ったわけではない。だがえも言えぬ違和感がある。
息が荒くなる。冷や汗でじっとりからだが濡れる。やはり足りない……男はおそるおそる、自身の胸に手をやって目を閉じた。
あぁ
鼓動がない。
「——気づいたときには、すべて手遅れだった。ナージャは嬉しそうな顔でこと切れていたし、俺はなにをしても死ねない身体になっていた。ためしに触ってたしかめてみるか、ナジャ。いまの俺は、君とおそろいだよ」
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