第5話 時の流れ

 先代の管理人は、漫画よりも小説を好んでいたようだったが、それでも階層一つ埋めるほどの漫画が塔の中には保管されてあった。


 気まぐれに手に取ってみたのがいつのことだったか、もはや記憶にはない。気づけばナジャは、起きているときのほとんどを漫画を読んで過ごすようになっていた。寝てばかりいる彼女の唯一とも言っていい趣味である。


 今世でもそれなりに漫画文化が栄えてきたと、頻繁に地上へおりる友人から何冊か見繕って送ってもらったのが、数日前のこと。


 それまで前世界の——すでに完結している作品にしか触れてこなかったナジャは、はじめて連載中の漫画を追うことになった。

 次巻を待ち遠しく思うことが新鮮で、久しぶりにどっぷりはまりこんでしまった。とくにジメジメハリネズミの『ときめき♡すとらぐる』は、まだ第一巻のみにもかかわらず、すでに五周は読み返していた。


「あ、あなたがジメジメハリネズミ先生⁉︎」

「アッ……ッス」


 鳥の巣頭を照れり照れりとこねまわしながら、ジメジメハリネズミ青年はうなずいた。


「本名はジョセフ=アルカ……よ、読んでくれてありがとな」


 ベンチに仁王立ちして喚いていた人と同一人物とは思えないほど、肩も背中も丸く縮こまっている。焦点のおぼろな赤い瞳は、泳ぐというよりもはや反復横跳びのありさまだった。


 やはりこのくらい情緒不安定でないと、名作は描けないのかもしれない……求婚こそ丁重にお断りしたものの、ナジャは好意的にジョセフをとらえた。好きな作家相手には、天使といえど甘くなってしまうものである。


「あたしは天使のナジャ」


 ナジャは翼のかわりにワンピースのすそを広げて挨拶をした。寝巻きのままだったといまさら気づくが、着替える間もなく連れだしたグレイが悪いので気にしないことにした。


「あの塔とおりてきたの。いまは翼、このひとに奪われちゃってるから、それっぽく見えないかもだけど。先生の漫画、友達が天界に送ってくれて、すっごくおもしろかった!」

「ちょ、待った、情報が渋滞してる」


 塔、ナジャ、翼泥棒ことグレイ——見比べるジョセフの目が、ぐるりと渦を巻きだす。


「……たしかにあれが雲から生えるのは見たけど……待てよ、つーかそれがほんとなら俺様の描いた漫画、天までいったってこと?」

「ほら先生、もう世界が『ときめき♡すとらぐる 〜りたぁんず〜』を待ち望んでいるんですよ。ファンのみなさんの期待に応えましょう? 原稿に向き合いましょう?」

「ウワアアアーッ!」


 すかさず赤髪の女性が詰め寄ったことで、青年の不安定な情緒はあっけなく崩壊した。


(りたぁんず?)


 ぱちくりと、ナジャは目をしばたかせる。


「えっと、」

「あ、申し遅れました。わたくし、ジメジメハリネズミ担当編集の、メルク=リウェインです」


 ナジャの視線を受けて、赤毛の女性メルクはどこからともなく名刺を差し出した。


「メルク。もしかして『ときめき♡すとらぐる』は、もう完結してるの?」

「はい。去年末の第五巻でめでたく」


 メルクは嬉しそうに手のひらを広げた。


「……一巻が発売されたのっていつ?」

「たしか一昨年の夏、ちょうどいまくらいの時期でしたよ」


 一昨年、と震えるくちびるがなぞる。


(……新刊だって送られてきたのが、だいたい一週間前だったはず……そのあいだに地上では、まる二年が経ってたってこと?)


 十七年あれば、幾千も経つはずである。ナジャは途方に暮れながらも納得した。


 オグルが言っていたとおり、地上の時はあまりにもせわしない。いま読んでいる漫画の作者に、生きて活動している状態で出会えるなんて、奇跡にも等しいのではないか——


「なあちょっと天使サマ」


 それまでかやの外にいたグレイが、会話の切れ目を見つけてナジャの肩を叩いた。


「デート相手をほっぽってほかの男と仲良くするなんて、ひどいんじゃないですかね」

「触んないで。噛むよ」


 グレイはわざとらしく首をすくめてみせたが、引き下がらなかった。歯を見せて威嚇するナジャの耳もとに、潜めた声を落とす。


「いいか嬢ちゃん、そろっと辺りをたしかめてみろ。気づかれないように、さりげなく」


 少女は瞳だけで辺りを見まわした。

 広場はいつしか、なにか催しでもあるかのような人混みに変わっていた。かといって皆なにをするわけでもなく、遠巻きにナジャたちのようすをうかがっている。


「な、なに……? みんな見てる」

「君に話しかけたくてうずうずしてるんだ。塔から落ちそうになったさっきの騒動、オルランディアのほぼ全員が見てたといっていい。こんなところで油を売ってると、あっという間に群がられてプチッと潰されるぞ」


 グレイの右手が、のところでこぶしになる。反射的にナジャは肩を跳ねさせた。


「あ、あたしそろそろ行くね……」


 グレイの言うとおりになるのは気がすすまないが、プチッとされるのは勘弁したい。

 できるだけ観衆を刺激しないよう、気を張って立ち去ろうとしたナジャだったが、まったく油断していた方向から腕をつかまれる。


「待った」


 我を失っていたはずのジョセフが、妙に据わった目をしてナジャを引き止めた。


「天使だって証拠は」

「えっ、いいよ信じなくても」

「そうはいかねーだろ、アイデンティティにかかわるとこだ。空を飛ぶとか、ハートの矢を飛ばすとか、なんでもいい、なんでもする、どうか俺様にインスピレーションを‼︎」


 情緒は乱れたままのようだった。


「私からもお願いします!」


 メルクにまでも頭を下げられて、ナジャは足を絡め取られたようになる。「君って案外お人好しなのな」グレイが苦笑して言った。


 くちびるを尖らせながらも、ナジャは両手の人差し指と親指を使って、ひし形の窓を作った。ジョセフたちにも見やすいよう、ぐっと腕を伸ばして中心街ナツネグの空を切り取る。


 のぞきこんだ彼らは目を疑った。


 小窓の向こうには、蜘蛛の巣をひっかけるようにうす暗い煙をまとった蒸気機関車が、まさに駅に向かっておりてこようとするところだった。だが窓を介さなければ、そこにあるのはぼんやりとした灰色の空だけだ。


「これは天使の窓。ちょっと先の未来が視えるんだけど——」


 しぶしぶと説明をはじめたナジャを遮るように、小窓の中の機関車が爆発した。

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