第3話 ヂヂバミ以下

 ヂヂバミという虫がいる。


 天界にのみ生息する虫で、不潔な場所を好み、ほこりやカビなどを食べて繁殖する。白濁色の液体が薄い皮膜に詰められているような、ぷりっとした見た目をしていて、ときどき物の角などにからだをぶつけて破裂する。


 しばらく掃除を怠っていると、どこからともなく奴らは現れる。噛んだり刺したりするわけではないが、天界人のほとんどは目にしただけで絶叫する。地上で言うところのゴキブリのように、生理的な嫌悪を誘うのだ。


 ナジャが人間に抱く忌避感も、つき詰めればそういうものだった。


「お。気がついた?」


 見慣れない天井と、よく背中に馴染んだ寝台。ついさきほど夢で聞いた気がする声。


 相手をからかっているような、ただ眠たくて開ききっていないだけのような、つかみどころのない黄昏色がナジャを見おろした。夢で見た男が、すぐ枕もとに腰かけていた。


「ぎ——」


 『人間』だ。翼の有無だけではなく、肌が感じる直感が、彼が別の生き物だと訴える。


 つまり下塔も、塔から落ちたことも、彼に助けられたことも夢ではなかったのだ。恩人に二度も悲鳴をぶつけるべきではないという理性が、とっさに彼女の喉をしぼった。


「た、助けてくれてありがとう……」

「どーいたしまして」


 あっさりとした返事だった。


「俺はグレイ。君は?」

「あたしは……」


 ナジャは警戒する猫の動きで身を起こし、男と対角になる寝台はしまでじりじりと後退していく。そうしながらすばやく辺りを見まわすと、はじめ知らない場所だと思ったここが、床と天井が逆さまになっただけの住み慣れた屋根裏部屋だということに気がつく。


 張り巡らされるむきだしのはりの上に、家具たちは配置だけもとの状態を保って危なげなく乗っていた。おそるおそる寝台下に顔をのぞかせれば、いつもは頭上に見られた屋根裏の光景が、落とし穴のように広がっている。


 男の肩ごしに、いまだ開きっぱなしの上下逆さまな窓辺が見えた。そのすぐそばに、黒く塗装された鉄塊が立てかけられてある。おそらくは彼の私物なのだろうと思われた。


 はたとナジャは眉をひそめた。


 めざとく気づいたグレイが、待っていたとばかりに足もとからを引っぱり出す。


「探しものはこれか?」

「あたしの翼!」


 詰め寄るナジャをひらりとかわすと、彼は翼を掲げたままバイクにまたがった。


 妙な鉄塊だと思っていたそれが、ただの人間であるはずの彼をここまで連れてきた空飛ぶ何かだと察して、少女はさっと青ざめる。


「なっ、返して! なにするの!」

「まあまあ。このまま持ち去られたくなかったら、座って、落ち着いて話をしようぜ」

「天使を脅すの? ……なんてヤツ! あんたなんてヂヂバミ以下なんだから。言ったお礼とまとめて返してよ、このドロボー!」


 今度は全身を真っ赤にしてギャンギャン吠えだした彼女を、グレイは珍しく瞳の輪郭をすべてあらわにしてぼうぜんと見つめた。

 無精ひげの散るあごを、人差し指でかく。


「……かもしれないとは思ったけど、本当に天使だったとは。いまの録れてたよな」

「取れ……? まっ、まさか翼に飽きたらず、まだあたしからなにか盗ろうっていうの?」

「あぁいや……んー、盗聴してたわけだし、それもあながち間違いでもないのか……」


 グレイが腕時計のつまみを捻ると、『このドロボー!』と声が飛び出す。突然の自分の声に、ナジャはビクッと肩を跳ねさせた。


「俺、新聞記者なの。……わかる? 新聞」

「……わかる。天界にもあるから」


 きっといまごろは、下塔についておもしろおかしく書かれた号外が配られているころだろう。ナジャはようやくグレイの意図を察して、からだじゅうの空気を吐き出すようなため息をついた。ターコイズが半分になる。


「……記者って職業じゃなくて、なんかそういう別種の生き物なのかな。ここまでじゃないけど、上の記者もたいがい強引だった」

「そうそう。世界でもっとも仕事熱心な生き物なんだよ、俺たちは。そんなわけで、君にはちょっくら俺の取材に付き合ってもらいたいんだ。もちろん、終わったら翼は返す」


 星を飛ばすようなウインクが一つ。

 ナジャはからだを傾けてそれを避けた。


(……翼を人質にとられてる以上、どうせあたしに断る選択肢はない)


 むっつりと黙りこむ彼女を、了承したと受け取って、グレイは「よし」とうなずく。


「じゃ、とりあえず名前は」

「ナァグャャルルア」


 古代天使語の発音は、人間には聞き取りづらい。ナジャはドヤ顔でグレイを見上げた。


「愛称はナジャ。もちろんあんたは、あたしと仲良しじゃないから愛称で呼ばないでね」


 困り果てた表情を期待したが、グレイは片眉を上げて、舌先でくちびるを湿らせると、


「ナァグャャルルア」

「なっ……⁉︎」

「そんじゃナァグャャルルア——」

「ちょっと待って、なんで呼べるの! やだやだ、なんか気持ち悪いからナシ! ナジャって呼んで。じゃないと答えないから!」


 グレイは鼻を鳴らして笑うと、バイクからおりて、ずんずんとナジャに近づいた。


 いきなり何事かと、とっさに逃げ出そうとした彼女のからだは、子猫を捕まえるようなあっけなさでグレイの片腕に抱えられる。

 寝台にはかわりに翼が寝かされた。


「なっ、なになになに!」


 じたばた渾身の力で暴れる彼女をものともせず、そのままバイクにまたがりなおす。


「ナジャ」


 恋人に呼びかけるような甘い声で、グレイは小脇に抱える少女の愛称を口にした。


「せっかくだし、俺が一方的に君のことを知るだけじゃなくて、君も俺のことを知ってみるってのはどう」

「それはもう取材じゃない! 離してっ」

「まあそう言うなって。愛称呼びを許すくらい俺たち『仲良し』なんだろ? 取材はするさ。オルランディアの街をデートしながら」


 バイクが浮き上がる。言葉とは裏腹に、グレイはまったく色気のないしれっとした顔をして、塔の外へとナジャを連れ出した。


(翼が……っ!)


 塔はナジャの聖域だ。

 大人しく従うふりで隙を待てば、翼の奪還はそう難しくなかった。

 だがこうなっては彼のもとから逃げ出せない。自力では、塔にも戻れない。


(——やっぱりこの男、ヂヂバミ以下だ!)


 素直に取材を受けなくてはならない状況に、まんまと仕立て上げられてしまった。

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