プロポーズ

 いてもたってもいられず、すぐに尼崎を車で飛び出した。小母さんに頼むと快くぴかぴかのハリアーを貸してくれて、たいへん申し訳ないが、後部座席で眠っておいてもらい、新東名の三車線区間で列になった長距離トラックをいちばん右の追い越し車線からごぼう抜きした。旦那さんもおなじように夏美のライブ配信を観ていたらしく、「子どもは私が見ておくから、とことん、納得いくまで話し合ってきなさい」と背中を押してくれた。心臓に欠損のある子をもった親として、共感するところがあったのかもしれず、ただでは帰れないな、と、責任感でつよく頷く。尼崎から福島まで、新名神と新東名と圏央道と常磐道を乗り継いでおよそ十時間。あれから十年経ち、あのころなかった道を走れば、かつてないアドレナリンが全身の血液中で沸騰し、眠っていなくても、休憩していなくても、ちっとも苦しくない。まどろっこしいレーダークルーズコントロールとレーントレーシングアシストを解除して、トヨタ自慢の2・5Lダイナミックフォースエンジンが悲鳴をあげるほどアクセルをベタ踏みし、海老名ジャンクションの急なカーブでハンドルをぶんまわしつつ派手なスキール音を鳴らす。はやく夏美に会いたくて、縁起でもないけれど、もうひとりの「奇跡の子」と過ごしたこの十年の記憶が走馬灯のように頭を巡った。鉄塔のうえからなにもない荒地を眺めていたあの子の視界。そこに立って私はそらたかく手を差し出した。彼女が私を選んだんじゃない。私が彼女を選んだんだ。

 いわき中央インターチェンジで降りてすぐの路傍に車を停めたあと、病院の場所が分からなかったため、仕方なく二度と連絡を取るまいと思っていた恋に電話をかけた。恋はあいかわらず軽薄で、ひょうきんで、すべては彼にとっては些末なこと、というぐあいのポジティブさにいまは救われた。私は彼のこういうところを好きだったことを思い出した。いつだったか、酔った折りに震災の話をすると、恋は聞いてたのか、聞いてないのか、「なんとかなるって」と笑い、ただそれだけといえばそれだけなのだけれど、そのときに私は彼と結婚することを決めたっけ。そして彼との暮らしがなんとかならなかったことは一度もなかった。たぶんそれは、幸せと定義してもいいはずだ。

『夏美の演説に心動かされたんだろ?』

 病院の場所を教えてもらい、ナビに入力したのち、さっさと電話を切ろうとすれば、いつかのような恋の笑い声がそれを制した。なんというか、よく晴れた日の空みたいに笑うひとだった。たとえばテレビを観ながら阪神リリーフ陣のふがいなさにビール缶を握り潰したとき、恋は「アルミ缶つぶして捨てるエコロジー」とよくわからない一句とともに笑ってくれて、そんなしょうもない一時がとても好きだった。

「うん、すごいね。あの子は」

 時間が惜しかったので、正直に言った。素直な言葉を口にできたと思った。

『なあ、春子。夏美をあんなふうに育ててきたのは俺たちなんだよ。胸、張っていいんじゃないかな? 海晴も褒めてくれるよな。愁香ももう何も心配いらないよな』

 急いでるのにこの男は、いきなり何を言い出すんだろう。そんなこと、言われなくても分かってるよ。私は夏美を育ててきたし、小説家で自宅にいることが多かった恋は、私以上に夏美の面倒を見てくれて、だいじな原稿用紙をうっかり夏美に破られても怒ることはなく「そうか、先生、これはボツですか!」とおどけてみせた。あの子は私たちの背中を見て育った。そうだね、私たち、なかなかよくできた家族だったよね。あの子のまえで喧嘩したことは一度もなかった。それは私のちいさな誇りだ。不穏なムードになると、私たちは示し合わせたように、いっしょに駅前のミスタードーナツに出かけ、オールドファッションを食みながら、納得いくまで話し合ったっけ。閉店前のあまりもの、ぜんぜん美味しくなかったけど、きっと大切なものはこういう味だろうなと思う。

『だからさあ。もう許してくれないかな。夏美はたぶん、福島に残ると思う。あいつはそういう奴だ。あれだけ福島のことを知ったら、もう帰れないと思う。だから俺は、もう福島にいる理由がないんだ。帰って、春子を幸せにしたい』

 なんだそれ、プロポーズかよ。下手だなあ。なにも言ってくれなくて、仕方なく私が押し倒したときから、まったく変わってない。どうせ恋はこれからも、たくさん浮気を繰り返すんだろう。「尼崎のジャンレノ」だからね。そんなところは大嫌いだけど、それ以外は、けっこう好きだよ。君のセックスはとても下手だけど、初めてのときだけしてくれたクンニは、ペディグリーチャムにしゃぶりつくブルドッグみたいで、すこしくせのある後ろ頭の髪に手ぐしをとおしながら、すごく愛しかったよ。

「今回のこと、ぜんぶ小説に書いてよ。あんたの恥ずかしかったこともぜんぶ、赤裸々に。その小説が芥川賞取ったら、私はあんたを許してあげる」

 そう言い残し、電話を切った。恋が書くのは大衆小説だし、新人というわけではないから、純文学新人賞の芥川賞は取れないだろう。許さないってことだ。それでいいかなと思う。そういうふうに暮らしていくのも悪くない。それにもし恋が純文学を書くのなら、それこそどぎつい私小説を書くのならば、許しはしないけれど、ちゃんと最後まで読んでやってもいいかな、とは思うよ。なんなら、アマゾンにレビューを書いてあげてもいい。とびきりきらきら輝く、ひとつ星のね。書く内容はすでに決めてる。たぶん、会ったときから決めてる。まだ出会い系サイトというものがなく、ただそういう雑誌はあって、交際を前提とした文通のすえ、私たちは梅田のビッグマン前で会った。いまほど太ってなかったにせよ、ぜんぜん格好よくはなくて、遅刻してきたし、ソフトクリーム食べてるし、第一印象は最悪だった。ほかにもたくさんの男と会ったにもかかわらず、ずっと格好いいひと、お金のあるひと、セックスのうまいひとがいたのに、どうして恋を選んだんだろう。いま思い出した。私は彼の「言葉」に惚れたんだ。「ビッグマン前にいる人って、みんな寂しい人なんやね」と、うつろな目で口にした、慣れない関西弁を聞いたとき、私はこのピュアな男のあけすけな「言葉」をもっと聞いていたいと思った。息を弾ませながら余韻を紛らわす、ピロートークのように。

 病院前のロータリーにハリアーを横付けし、「駐車場に移しておくね」と言ってくれた小母さんに何度も頭をさげながら車を離れ、吹抜けのロビーを賑わわせる外来客を押しのけると、エレベータを待っているあいだ<いまからいくから>とだけ夏美にLINEを送って、まどろっこしいエレベータを飛び出すなり、まっさきに夏美を抱きしめた。彼女を引き取ろうと思ったもうひとつの理由を思い出す。「この子は私だ」。まえよりも二の腕がほそくなっていた。よく頑張ったね、と、まだ彼女が福島にいたころ、赤ちゃんのときにそうすると喜んだとおり、何度も耳のうらにキスをしてあげた。場所を病院併設のカフェに移し、冬馬くんの心臓手術の提案をしたあと、「後悔のないよう考えてほしい」ということと「あなたが決めていい」ということを伝えるべく、いちばん大きなサイズのカフェラテがなくなるまで言葉を尽くした。私にできるのはここまでだ。

 少しひとりになりたい、と夏美がスマホも置いたまま席を離れたカフェで、私はやりきったという安堵感に包まれつつ、うすっぺらい背もたれに疲れを思い出した体を任せながら、たぶん夏美は三億円を断るだろうなと、たくましい広葉樹が生い茂る窓のむこうにまぶたが怠い目をやり、おおきな欠伸を噛み殺した。彼女のそういうのはぜんぶ分かる。ずっと一緒にいたんだから。それでいいと思っていたはずが、私はもうひとり、責任を取らないといけないはずの人間を思い出す。冬馬くんの心臓手術を決める資格があるのは夏美だ。彼女以外の人間に、その資格があるとは思えない。ただ資格はなくても、ないからこそ、あの人は責任を取らなくてはいけない。ずっと責任を取らせたかった。

「ヘイ、シリ! できがわるくって頭と性格がわるくってさびしがりでどうしようもない世界一むかつく妹に電話して!」

 ずいぶん間を置いて愁香は出た。『はい』という声がかすれている。どうせ昼間から酒を飲んで下着一枚でゴマフアザラシみたいに寝転がってたんだろう。あいつはそういう奴だ。

「愁香、あんた、しっかりしなよ!」

 カフェ中の人々が振り返るぐらい、がつんと叱りつけてやった。昔からいつも私がこういうふうに焚きつけてやったのだ。バレンタインデーのチョコを憧れの先生に渡せなかったときも、甲子園の出待ちで湯舟敏郎にサインボールを頼めなかったときも、福島の高校を受けるための受験勉強が捗らず「やっぱ地元の高校でいいや」とふてくされゲーセンの格ゲーを勝ち抜いていたときも、「Here Comes A New Challenger!」の乱入音ののち、三角飛びがハエのように小うるさいバルログを待ちサガットで完封勝ちしてやった。そのあとは隣の駄菓子屋にはいり、私が見張っているあいだ、愁香が万引きしたりしたね。愁香の手はあたたかいから、ポケットに入れてくれたチロルチョコは、いつまでもホカホカしてた。

『……春子?』

 情けねえ声だな。泣きそうな声出してんじゃねえよ。こっちが泣けるだろうが。

「愁香、落ち着いて聴いて」

 できるだけ声を張って、ゆっくりと、言い聞かせるように言う。こんなふうに話したことはあっただろうか。いや、一回だけあった。佐藤輝明をドラフト一位で四球団が競合したすえ阪神タイガースが射止めたときの電話だ。くだらない。

「いまね、私、福島にいるの。冬馬くんが入院してる、あの病院にね」

 愁香からの返事はない。けれど、きっと涙をこらえながら、頷いてくれていることは分かる。佐藤輝明のときもそうだった。湯舟敏郎のノーヒットノーランのときもそうだった。クラスのみんなが追っていた藪や新庄はあまり好きじゃなかった。私たちはほんとうによく似た姉妹で、ことあるごとにぶつかりあい、リアルストリートファイターをやらかしたことは何度もあるけれど、怒るたびに私は強くなれた。愁香がいたから生き延びた。

「夏美にも会って、話したんだけど、あの子の動画を観て、心臓手術のお金を出してくれるって人が見つかったの。その人もいま、いっしょに来てくれてる」

 その先を言うつもりも、必要もなかった。ただ、私たちが会談し、結論を出すホテルのレストランの名前と、時間だけを伝えた。私はなにも促さない。あとは愁香に任せる。それが母親の果たすべき責任だ。被災以降、やけっぱちになって孕んだ子をおろして以来、子どもなんかいらないと思ってたのに、いまは愁香がうらやましい、と、ちからが抜けたのか、座ったままひょんと意識が飛んで、十数年ぶりに仮設住宅の夢を見た。でもそこには、恋と、愁香と、夏美と、おおきく育ち海晴さんそっくりになった冬馬くんがいて、五人で呑みながら、阪神タイガースの負け試合を観ていた。

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